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第8話 / 全14話
ゴングの余韻が消え去る間もなく、鳴神響がポケットの中で軽く指を鳴らした。
パチン──。
その小さな音が弾けた瞬間、俺の直感が全身の毛根を逆立てた。
死角も何もない、ただの空間。だが、空気が不自然に歪み、視界がゆらりと波打つ。
(──来るッ!)
俺は躊躇無く右側へ身体を倒し込み、地を這うように転がった。
直後、コンコンコンッ! と乾いた打撃音が空を切り、俺が直前まで立っていたコンクリートの床が、目に見えない巨大な杭で打ち抜かれたように爆ぜ飛んだ。
ドカァンッ!
衝撃波の余波だけで、飛散したコンクリートの破片が俺の頬を掠め、鋭い痛みが走る。
飛び散る粉塵の向こうで、鳴神は薄笑いを浮かべたまま、ゆっくりと距離を詰めてきた。
「ほーう、かわすか。野性の勘だけは一人前らしいな」
「……目に見えねえ衝撃波か。厄介な代物だな」
「厄介? ふん、それだけじゃないさ」
鳴神は冷ややかな目で俺を見下すと、カメラに向かって嘲笑を投げかけた。
「俺がお前の過去の配信動画を分析していないとでも思ったか? お前の『瞬間冷凍』……射程はせいぜい自分の周囲たったの一メートル。そして前回の戦いでもそうだったように、お前は氷の盾を作るか、床や配管などの『物体』を媒介にして冷気を伝導させるしか手がない」
鳴神の指先が、再び俺を指さす。
「つまり──冷気を伝える足場や媒介を完全に破壊し、一メートル以内に近づけさせなければ、お前の異能はただの不発弾(ゴミ)だ!」
鳴神の宣言とともに、頭上の巨大モニターに闇配信のコメントが爆発的な勢いで流れた。
『出たぁぁぁ! ソニックブラストの理論派アンチ氷使い!』
『射程1mで媒介破壊されたらマジで詰みじゃね?』
『遠距離から床ごと粉砕されたら近寄れるわけないw』
『フリーターさん、今度こそ完全終了のおしらせ』
客席からも「足場を壊せ!」「近づけさせるな!」と、鳴神を後押しする大歓声が巻き起こる。
(チッ……速攻で一番嫌な攻め方を理解してやがる……!)
額を伝う冷や汗が、顎からポタリと落ちた。
確かに鳴神の分析は正解だ。俺の冷気は空間を勝手に飛んでいくわけじゃない。一メートル以上の距離がある相手に対し、足元の床や水といった伝導媒体を壊されれば、冷気を送り込むルートそのものが塞がれる。
「死ね、成り上がり」
パチン! パチン!
鳴神の指が連続で鳴る。
空気を切り裂く不可視の衝撃波が、連続で俺の足元を襲った。
ズガガガガガッ!
「くっ……!」
俺は必死で左右に飛び退き、死に物狂いで攻撃をかわし続ける。
俺が足を着くはずだった床が、コンコンと軽い音を立てた次の瞬間には、激しい炸裂音とともに粉々に砕かれ、足場が刻一刻と失われていく。
「ハハハッ! どうしたフリーター! 逃げ回るだけで精一杯か!?」
「近づけない! 冷気も届かない! そのまま砕けた瓦礫の底で埋もれていろ!」
アリーナに鳴神の高笑いと、連続する爆発音が響き渡る。
観客は俺の無様な逃走劇に沸き立ち、投げ銭の数字が跳ね上がる。
誰もが、俺が追い詰められ、逃げ場を失っていくと思っていた。
鳴神自身も、俺を完全にコーナーへ追い詰めていると確信していたはずだ。
だが──。
(左へ三メートル……そこから後方へ二メートル……よし、ビンゴだ)
飛び散る粉塵と激しい衝撃のさなか、俺の脳内ではアリーナ全体の構造図が完璧に展開されていた。
公式ファイトが開催されるこのアリーナ。
一見すればただの巨大なコンクリートのリングだが、俺は出場前の控え室で、アリーナの建築図面と配管ルートを徹底的に頭に叩き込んでいた。
過剰な演出で炎や水を使うこの巨大施設には、地下に巨大なメイン給水管が太い血管のように張り巡らされている。
そして──今、俺が足を止めたこの場所。
(ここだ……! ここが、アリーナ地下のメイン給水管が直下を通る、最大のポイント……!)
俺はあえて息を荒くし、膝に手を突いて絶望したような顔を作ってみせた。
「ハァ……ハァ……クソッ……ここまで、か……」
「ハハッ! やっと自分の無力さに気づいたか!」
俺の演技にまんまと乗せられた鳴神が、勝利を確信した笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。
「終わりだ氷使い! 媒介も足場も失ったお前に、次の攻撃を防ぐ術はない!」
鳴神の右手に、これまでとは桁違いの凄まじい空間の歪みが凝縮されていく。
俺は下を向いたまま、口元に狂気を含んだ笑みを浮かべた。
(来いよ音波使い……お前のその自慢の火力で、最高のステージをこじ開けてみせろ!)
「消し飛べぇぇぇッ! ソニック・ブラストッッ!!」
鳴神が放った咆哮とともに、目に見えない巨大な圧迫感が空間そのものを押し潰す勢いで解き放たれた。
空気が目視できるほどの歪みを生み出し、重音波の塊が音速を超えて迫る。アリーナのコンクリート床が、衝撃波が通過するだけでメキメキと深々と裂け、破片を撒き散らしながら俺の立ち位置へと一直線に押し寄せてくる。
直撃すれば、骨どころか肉体ごと肉塊へと変えられて粉砕される極大の威爆。
だが──俺はこの瞬間のために、無様な逃走劇を演じ続けていたのだ。
「フッ……甘ぇよ!」
衝撃波が俺のつま先に届くコンマ一秒前。
俺は脚の筋肉を破裂せんばかりに収縮させ、横方向ではなく、真っ直ぐ頭上へ向かって決死の跳躍を敢行した。
ズガガガガガガガアンッッッ!!!
俺の足元を掠めた極大衝撃波は、遮るもののない勢いのまま、俺が立っていた床へとダイレクトに叩きつけられた。
重厚なコンクリートの打殺音。
だが、その音はすぐに不気味な低温の破壊音へと変化する。鳴神の過剰なまでの攻撃力は、分厚いアリーナの床面をあっさりと貫通し、その直下に隠された暗黒の空間へと牙を剥いた。
ドゴォォォォォンッ!
一瞬の静寂ののち、アリーナ全体を激しく揺らす地鳴りのような振動が巻き起こった。
「な、なんだ……!? 床の下から……!?」
着地とともに身を低くした俺の視界の先で、鳴神が怪訝そうに目を細める。
直後、破壊された床の亀裂から、白い泡を噛んだ激しい濁流が、まるで抑え込まれていた龍のように空高く爆発的に噴き出した。
ゴオオオオオオオオッッッ!!!
「なッ……!? 水柱……うわあああぁぁぁッ!?」
凄まじい水圧だ。地下に通る巨大なメイン給水管が叩き割られたことで、数千リットルもの高圧水流が留まることなくアリーナ天井へと突き抜け、激しい雨となって会場全体へと降り注ぐ。
頭上の巨大モニターには、予期せぬ事故のような事態にパニックを起こした配信コメントが凄まじい勢いで流れ始めた。
『うおっ!? 水!? 水が噴き出してきたぞ!?』
『メイン給水管ぶち抜いたか!?』
『ソニックブラスト、威力高すぎてアリーナのインフラ壊してて草』
『ちょっと待て、氷使い相手に「水」はヤバいんじゃないのか……?』
散らばる水滴が、アリーナを照らす照明を反射してキラキラと輝く。
その光景を目にした瞬間──鳴神の余裕に満ちていた顔面から、一瞬にして血の気が引き破った。
「な……しまっ……た……!? 奴は、俺にここを撃たせるために……!?」
ガタガタと顎を震わせ、鳴神は大きく見開いた目で俺を、そして足元へと急速に広がる大量の水溜まりを見つめた。
自分の遠距離攻撃で相手の足を奪い、追い詰めたと思っていた。
媒介となる「足場」と「水」を完全に断ち切った完璧な勝機だと確信していた。
だが──すべては俺の誘導だったのだ。
鳴神は自らの手で、この乾ききったアリーナを、俺にとって最も有利な「水の海」へと変えてしまったことに気づいてしまったのだ。
「あ……あり得ない……! 俺の攻撃を利用して、自分に不利な無水環境を……一瞬でリセットしやがったのか……!?」
喉を鳴らし、鳴神は絶望的な慄きとともに後ずさった。
遠距離から媒介を壊して冷気を遮断する。その鳴神の完璧なロジックは今、目の前で湧き出る無制限の水によって根底から崩れ去った。
冷気を伝えるための媒介がない?
だったら、敵の最大火力を使って配管を破裂させ、大量の水を供給させればいいだけの話だ。
水は冷気を伝える最高の伝導体。
そして今、俺と鳴神の間の床は、溢れ出た水によって完全に一枚の「水膜」でつながれていた。
「おいおい、どうした音波使い」
俺は全身に頭上からの水を受けながら、濡れた髪を乱暴にかき上げた。
豪快に広がる水溜まりの上に一歩を踏み出すと、ピチャリと心地よい水音が響く。
「俺の能力の弱点、完璧に分析してくれたんじゃなかったのか?」
冷気を宿した右手をゆっくりと握り締め、俺は絶望に顔を歪める鳴神に向かって、凶暴な笑みを投げかけた。
「ひっ……!」
鳴神の口から、引きつった悲鳴が漏れた。
その足元には、壊れた給水管から溢れ出た水が絶え間なく流れ込み、いまやアリーナの床一面を完全に覆い尽くしている。
空気と違い、水は圧倒的な熱伝導率を誇る最高の伝導媒体だ。
俺の『瞬間冷凍』は空間を飛ぶことはできない。だが──繋がった水の上であれば、冷気は光の速さでどこまでも駆け抜ける!
「行くぞ……冷気解放ッッ!!」
俺は足元の水溜まりに向かって、右手のひらを激しく叩きつけた。
胸の奥に眠る極冷のリソースが、叩きつけられた衝撃とともに一瞬で解き放たれる。
俺の足元、半径一メートルの『絶対領域』に満ちていた水が一瞬で白く凍りついたかと思うと、その氷結の波動は水膜を導線として、凄まじい速度でアリーナ全体へと拡散していった。
ピキキキキキキキキィィィィッッ!!!
「なっ……なにッ!?」
鳴神が叫ぶよりも早く、足元を奔る白い稲妻のような氷結ラインが奴の足元へと到達した。
水深数センチの水溜まりが一瞬でカチコチの分厚い氷盤へと変貌し、鳴神の靴底、足首、さらには脛のあたりまでを、アリーナのコンクリート床ごと完全に固定して縫い付ける。
「あ……足が……動かない……!? 凍りついて……ッ!?」
鳴神がなりふり構わず足を引っ張ろうとするが、コンクリートと一体化して瞬間冷凍された氷が解けるはずもない。
機動力を完全に奪われ、その場に棒立ちとなった音波の処刑人。
俺は凍りついた水面を踏みしめ、悠然と歩みを進めた。
ザッ、ザッ、と氷を砕く足音が、静まり返るアリーナに冷たく響く。
「しまっ……離れろ! 寄るなァッ!」
死の恐怖に顔を歪めた鳴神が、狂ったように右手の指を立て続けに鳴らした。
パチン! パチン! パチンッ!
不完全な姿勢から放たれた目に見えない衝撃波が、俺の肩や頬を掠めて後方の氷を炸裂させる。
だが──足場を完全に固定され、体幹を崩された鳴神の攻撃には、もはや最初のような精密さも威力も存在しなかった。
一歩、また一歩。
十メートルあった距離が、五メートル、三メートルと削られていく。
そして──。
「詰み(チェックメイト)だ」
俺の体が、鳴神の目の前──半径一メートルの『絶対領域』へと完全に踏み込んだ。
「ひ、ヒィッ……!」
鳴神の瞳に、極限の絶望と恐怖が映し出される。
至近距離で対峙する俺の右手からは、周囲の空気すら凍てつかせる白煙のような冷気がゆらゆらと立ち上っていた。
「お前が親切に地下配管をブチ破って、最高の『水』を用意してくれたおかげだよ。サンキューな、音波使い」
「や、やめ──」
「──『瞬間、冷凍』ッ!」
俺は冷気を纏った右手を、鳴神の喉元へと叩きつけた。
ジュウッ、と音を立てて鳴神の首元から胸元にかけての水分が一瞬で氷結し、皮膚と衣服が極冷の氷の枷となって身体をガチガチに固め上げる。
声帯すら凍りつかされた鳴神は、悲鳴を上げることすら許されない。
動きを完全に封じられ、無防備な氷漬けの人形となった鳴神の顔面に向かって、俺は全身の筋力を駆動させ、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
ドガッッッ!!!
重厚な打撃音が響き渡り、鳴神の顎が跳ね上がる。
首元の氷が一瞬で粉々に弾け飛び、白目を剥いた鳴神の細身の体が宙を舞った。
激しい水しぶきと氷屑を撒き散らしながら、音波の処刑人は背中から凍りついた床へと叩きつけられ、ピクリとも動かなくなった。
沈黙。
噴き出す水柱の音だけが響く中、アリーナを包む静寂はほんの数秒しか持たなかった。
『勝者ァァァッ! 氷使い、ケイジィィィィッッ!!』
実況の狂叫がスピーカーを爆音で揺らした瞬間、アリーナ全体から耳を割らんばかりの大歓声が爆発した。
「うおおおおおおッ!? マジかよ!!」
「遠距離攻撃を誘い込んで配管破裂させたのか!?」
「水を使って冷気を遠くまで伝導させただと!?」
「天才かよケイジ! 完璧な大逆転だァッ!」
巨大モニターには、狂乱した闇配信のコメントと、画面を覆い尽くすほどの投げ銭エフェクトが嵐のように降り注いでいた。
『【朗報】成り上がりフリーターさん、物理で遠距離攻撃を攻略www』
『配管壊させて水溜まり作らせるとかIQ高すぎだろ!』
『音波使い、自分の高火力で墓穴掘ってて草www』
『投げ銭上限まで叩き込んだぞ!! 最高かよ!!』
口座に流れる数字を確かめるまでもない。前回の試合を遥かに超える、億単位のファイトマネーと投げ銭が確定した瞬間だった。
俺は濡れた前髪を大きくかき揚げ、足元に転がる鳴神を見下ろした。
弱点? 射程制限? 伝導媒体の遮断?
ハッ……そんなものは知恵と環境の利用次第で、いくらでもひっくり返せる。
「言ったろ……お前も俺の成り上がりのための踏み台だってな」
大歓声とフラッシュの光を全身に浴びながら、俺は不敵に口元を歪め、勝利の拳を高く掲げた。
ボロアパートで凍えていたフリーターの過去は、もう二度と追いつけないほど遠くへと去っていた。
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