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第7話 / 全14話
口の中で、極上の脂が瞬時に溶けて広がる。
本マグロの大トロだ。洗練された職人の技によって絶妙な仕込みが施された一貫は、咀嚼する間もなく喉の奥へと滑り落ちていった。
「……美味いな」
「ありがとうございます。お客様のお口に合えば幸いです」
白木の美しいカウンター越しに、老練な寿司職人が恭しく頭を下げる。
街の一角にひっそりと佇む、完全会員制の回らない高級江戸前寿司。一回の食事で平気で数万、下手をすれば十万単位の金が飛ぶような店だ。かつての俺なら、店の前を通りかかることすら躊躇していただろう。
だが、今の俺にとっては、ポケットの小銭を払うのと何も変わらない。
豪徳寺レオンとの死闘を制し、公式ファイトアリーナを熱狂の渦に巻き込んだあの日から、俺の人生は一変した。
闇配信の投げ銭と、公式バトルの巨額なファイトマネー。銀行口座に記載された数字は、もはや普通のフリーターが一生かかっても稼げないほどの桁へと跳ね上がっていた。
「ヘッ……」
冷えた日本酒をぐっと飲み干しながら、俺は静かに口元を歪めた。
ついこの間まで、俺はエアコンもない四畳半のボロアパートで、猛暑にうなされながらぬるい水道水を飲んでいたのだ。
思い返せば、親友のタカシの家で食った魚の鍋料理を「ご馳走だ」とありがたがっていた時期すらあった。
市場に出回らない安魚を突っ込んだだけの泥臭い料理。当時は喜び勇んで喰らいついていたが、こうして本物の最高級寿司を味わっていると、あの頃の自分がどれほど惨めで哀れだったかがよく分かる。
貧乏人の舌なんて、所詮はその程度のものだったのだ。
あんな安っぽい漁港の暮らしや、タダ飯に群がっていたダサい自分には、もう二度と戻る気はない。俺は成り上がったんだ。己の力と知恵で、この世界の頂点へとな。
店を出た俺は、手配させたハイヤーに乗り込んで都心の超高層タワーマンションへと向かった。
最上階近くに位置する、契約したばかりの新しい我が家。重厚な自動ドアを抜け、高速エレベーターで一気に地上数百メートルの自室へと駆け上がる。
広いリビングに入ると、眼下には宝石を散りばめたように輝く都心の夜景が一面に広がっていた。
まるで世界すべてをこの手の中に収めたかのような全能感。キンキンにエアコンの効いた快適な部屋で、冷えたグラスを傾ける。これこそが成功者の証であり、俺にふさわしい真の生き方だ。
(制約だらけの能力だろうが関係ねえ。俺は勝ち続けて、この場所で贅沢を極めてやる)
そう心の中で呟き、夜景に酔い痴れていたその時だ。
ブブッ、ブブッ──。
ローテーブルの上に置いていたスマホが、重厚なバイブ音を響かせて震えた。
画面を表示させると、暗闇の中に怪しいアイコンが浮かび上がる。公式バトルアリーナのプロモーターからのダイレクトメッセージだった。
『フフフ……。素晴らしいファイトだったよ、ケイジ君。前回のバズりは凄まじかった。……さて、君の『成り上がり』の続きを見たい観客たちが、早くも次の熱狂を求めている』
画面をスライドさせると、続いて一通のファイルデータが添付されて届く。
『次戦の公式ファイトのカードが決定した。対戦相手のデータを送る。準備を進めておいてくれたまえ』
メッセージの末尾に記された対戦相手のコードネーム。
俺は手にしていたグラスをテーブルに置き、ゆっくりとスマホを持ち上げると、冷ややかな眼光で画面を睨みつけた。
添付されたファイルを開くと、そこには一人の男の顔写真と、バトルアーカイブの動画リンクが表示されていた。
『鳴神 響──コードネーム:ソニックブラスト』
画面に映し出されたのは、細身で神経質そうな男の姿だった。鋭い眼光と口元に浮かべた薄い笑みが、不気味な存在感を放っている。
俺はソファの背もたれに体を預け、冷えたグラスを片手に動画の再生ボタンをタップした。
画面が切り替わり、薄暗い地下アリーナの映像が流れる。
鳴神響の対戦相手は、巨体と頑丈な装甲を誇る巨漢の異能者だった。巨漢が雄叫びを上げ、地響きを立てて突進していく。
対する鳴神は、一歩も動かない。
ポケットに片手を突っ込んだまま、ただ冷淡な目で迫り来る巨漢を見つめている。
そして──巨漢との距離が十メートル以上開いていたその瞬間、鳴神が反対の手の指先を、パンッと軽く弾いた。
ズガァァァァァンッッ!!!
爆風のような大音響がスマホのスピーカーから炸裂した。
カメラの映像が一瞬激しくブレる。直後、画面の中で何が起きたのか、俺は思わず目を疑った。
接近していた巨漢の胸元が、まるで目に見えない巨大な大砲の弾を受けたかのように凹み、そのまま豪快に吹き飛んだのだ。分厚い鉄板のような胸甲冑が木端微塵に弾け飛び、巨漢はアリーナの壁まで叩きつけられて沈黙した。
「……なっ……!?」
俺は小さく息を飲んだ。
画面の端には、興奮する闇配信のコメントが流れている。
『出た! ソニックブラストの目に見えない衝撃波!』
『遠距離から一発で壁まで吹き飛ばすとかエグすぎwww』
『間合いに入ることすらできねえじゃん』
俺は酒を飲む手をとめ、すぐさま動画のシークバーを巻き戻した。
再生速度をコンマ数秒単位のスローに変え、ピンチアウトして鳴神の指先と周囲の空間を限界まで拡大する。
「……音波、か」
スロー再生の画面の中で、鳴神が指を鳴らした瞬間、周囲の空気が同心円状に激しく歪んでいるのが見て取れた。
単なる空気の振動ではない。高密度の音波を指先で集約し、指向性を持たせて超音速の「衝撃波」として打ち出しているのだ。
俺は集中力を研ぎ澄まし、何度も、何度も繰り返し動画を再生した。
鳴神が攻撃を繰り出す直前、腕の角度や指の角度にどんな癖があるか。
指を鳴らしてから衝撃波が着弾するまでのタイムラグはどれほどか。
連続で放てる回数に限界はあるのか。
攻撃の「隙」を探すため、一人だけの暗い部屋で、画面の中の動きを穴が空くほど見つめ続ける。
だが──分析を深めれば深めるほど、胸の奥から冷たいプレッシャーがじわじわと込み上げてきた。
(チッ……射程が長すぎる)
音波による衝撃波の射程は、見た限りでも十メートル以上。対する俺の『瞬間冷凍』の射程は、自分を中心とした半径わずか一メートルだ。
前回のヒートブロウ戦では、敵が自ら近接戦を挑んできてくれたからこそ、一メートルの絶対領域に引きずり込むことができた。だが、この鳴神響という男は違う。徹底した遠距離攻撃の使い手だ。
近づかせない。間合いを詰める前に、目に見えない衝撃波で骨ごと粉砕する。それがこいつの戦術の真骨頂だった。
(もし……あのレベルの衝撃波が、俺の射程外から一瞬で飛んで来たらどうする?)
氷の壁を作って防ぐか?
いや、レオンの熱波の時と同じだ。音波は空気を伝わる振動だ。氷の盾を作ったところで、その衝撃波を物理的に完全に防ぎ切れる保証はない。防ぎ切れずに砕かれれば、氷の破片ごと俺の身体が吹き飛ばされる。
画面の中では、倒れた巨漢を見下ろす鳴神響が、冷酷な笑みを浮かべながら指先をポケットへと戻していた。
観客の大歓声が画面越しに響いてくる。
「……ハッ」
俺はスマホの画面を伏せ、テーブルの上に放り投げた。
静まり返ったタワーマンションの自室。眼下に広がる億万長者の夜景が、一瞬だけ遠い世界の出来事のように見えた。
額に一筋の冷や汗が伝う。
手に入れたばかりの大金、贅沢な暮らし、成金の栄華。
それらすべてが、次の戦いの一敗で一瞬にして吹き飛ぶかもしれないという現実が、重く肩にのしかかる。
だが──俺の唇は、震えながらも不気味な笑みを象っていた。
「上等だ……。目に見えない音波だろうが何だろうが、攻略できない物理法則なんてねえ」
冷え切ったグラスを煽り、残った酒を一気に喉へ流し込む。
制約があるからこそ、頭脳が研ぎ澄まされる。どんな遠距離攻撃だろうと、一メートル以内に捉えて凍らせてしまえば俺の勝ちだ。
俺は再びスマホを拾い上げると、鳴神響のバトル動画を最初から再生し、闇の中へと鋭い視線を注ぎ直した。
翌日、俺はタワーマンションの自室で、都心の街並みを見下ろしながら冷えたミネラルウォーターを飲み干した。
一晩中、鳴神響の動画を擦り切れるほど見返した目にはうっすらと朱が差していたが、頭脳は驚くほど冷徹に冴え渡っていた。
「遠距離からの音波衝撃波……確かに厄介だ。だが、どれだけ理不尽に見えようが物理の原則からは逃げられねえ」
音波とは空気という媒体を伝う振動エネルギーだ。無限に拡散するわけでも、永続するわけでもない。
どれほど強力な遠距離攻撃を持っていようが、俺が攻撃の隙を突いて間合いを殺し、俺の「絶対領域」──自分を中心とした半径わずか一メートルの内側に引きずり込んでしまえば、勝負は一瞬で決まる。
「見とけよ鳴神響。お前の音波も、俺の成り上がりのための踏み台にしてやる」
そう静かに呟き、俺は姿見に映る自分を見つめた。仕立てのいい高級なジャケットを羽織り、乱れのない髪を整える。ボロアパートで泥に塗れていた過去の惨めなフリーターは、もうどこにもいない。
──そして、決戦の時が訪れた。
公式ファイトアリーナの地下控え室。
重厚な革張りソファに深々と腰掛け、俺は静かに右手を握り開いていた。胸の奥に潜む極冷のリソースが、いつでも相手の熱を奪い去る準備を整えている。
プロモーターの男が、ドアの隙間から上機嫌な顔を覗かせた。
「ケイジ君、出番だ。観客も配信の視聴者も、君の新しい『奇跡』を待ち望んでいるよ」
「……言われなくても、最高のショーにしてやるよ」
俺は立ち上がり、ゆっくりと控え室の廊下へ踏み出した。
巨大な鉄扉が重重しい音を立てて開くと、視界が一気に目眩く光の奔流に包まれた。
耳をんざんとする大歓声。アリーナ全体を揺らす地鳴りのような咆哮。頭上には無数のカメラドローンが飛び交い、闇配信のレンズが俺の全身を舐めるように捉えている。
『さあ来ましたぁぁぁッ! 前回、高熱の王者ヒートブロウを衝撃の物理トリックで砕き散らした一攫千金男──氷使いケイジィィィッ!!』
実況の爆音マイクがアリーナ全体に響き渡ると同時に、客席から怒号のような歓声と指笛が巻き起こる。
「ケイジ! 今日もド派手に凍らせてくれぇ!」
「一発屋じゃないところを見せてみろ!」
「賭け金全部突っ込んだぞ! 勝てよ!」
頭上の巨大モニターには、すでに莫大な額の投げ銭通知が視認できないほどの速度で流れていた。
この熱狂、この全能感、この金。これこそが俺の求めていた世界の頂点だ。
俺は不敵な笑みを浮かべながら、アリーナの中央へと悠然と歩を進めた。
その反対側──赤コーナーから、ゆっくりと姿を現した男がいた。
『対するは、目に見えない衝撃波で敵を穿つ音波の処刑人──コードネーム:ソニックブラスト! 鳴神、響ぃぃぃッ!』
動画で何度も見た通りの、細身で神経質そうな男。
黒いジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、鳴神はだるそうにリング中央へと歩み寄ってきた。
だが──生で対峙した時の威圧感は、画面越しに見たものの比ではなかった。
男の周囲の空気が、まるでかすかに歪んでいるかのような錯覚。研ぎ澄まされた刃物のような殺気が、十メートル以上離れたこちらにまで肌を刺すような圧力となって伝わってくる。
鳴神は俺の姿を上から下へと冷ややかな視線で見やると、薄い唇を歪めて嘲笑った。
「ふん……噂の成り上がりフリーターか。動画で見たが、お前の能力、射程がせいぜい一メートル程度だろう?」
「……だったら何だ?」
「何だ、ではないさ。俺の『音波』はお前が手を伸ばす前に、その身体を骨ごと粉砕するということだ」
鳴神の瞳に、冷酷な凶気が宿る。
動画で徹底的に研究したはずの相手。だが、この圧倒的な遠距離のプレッシャーを前に、俺の背筋を冷たい汗が伝った。
射程一メートル vs 遠距離衝撃波。
間合いを詰めさせない相手との、最悪の相性。
だが、俺の胸の奥で、狂おしいほどの興奮がメラメラと燃え上がっていた。
「言わせておけ……。一メートル以内に近づけさえすれば、お前の音波ごとカチコチに凍らせてやるよ」
俺は低く身構え、右手に意識を集中させた。
アリーナの照明が二人を鋭く照らし出し、開戦を告げる重厚なゴングの音が激しく響き渡った。
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