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1章【新命の始まり編】 / 第30話
屋上を吹き抜ける風は、もう冷たくはなかった。つい先ほどまで空を覆い尽くしていた漆黒の闇は跡形もなく消え去り、西の空にはゆっくりと夕焼けが広がり始めている。
茜色に染まった雲が静かに流れ、校舎の屋上を柔らかな光で包み込んでいた。まるで先ほどまでの死闘など、最初から存在しなかったかのような穏やかな景色。
だが、その静けさとは裏腹に、屋上には激戦の痕跡が生々しく残されていた。ひび割れた床、焼け焦げたコンクリート、砕け散った手すり。
あちこちに散らばる瓦礫や氷の破片は、先ほどまでここで繰り広げられていた壮絶な戦いを静かに物語っている。
レッドはゆっくりと神剣を下ろした。刀身を包んでいた紅蓮の炎は、小さく揺らめきながらその輝きを失い、やがて夕風へ溶けるように静かに消えていく。
その炎が完全に消えた瞬間、張り詰めていた緊張も一緒に解けていくような感覚が胸を満たした。
「……終わった、のか」
思わず漏れたその声は、自分へ問いかけるようでもあり、現実を確かめるようでもあった。戦いの最中には何も考える余裕がなかった。
ただ目の前の敵を倒し、生き残ることだけで精一杯だった。
しかし今になって、その重みが一気に押し寄せてくる。自分は本当に生き延びたのだ。“生“という概念を断たれ、1度は立つことすらできなくなった。
それでも戻ってこられた。胸へそっと手を当てる。鼓動は確かにある。規則正しく打ち続ける心臓の音が、自分がここにいる証明のように感じられた。
少し離れた場所では、レイラも静かに神斧を下ろしていた。両腕にはまだ力が入り切っていないのか、神斧を抱えるように持ちながら小さく息を吐く。
「はぁ……」
長く張り詰めていた緊張が抜けたせいだろう。その場へ座り込んでしまいそうになる身体を必死に支えながら、小さく笑みを浮かべる。
「やっと……終わったんだね」
その笑顔には安堵と疲労が入り混じっていた。戦いの途中で見せていた強い眼差しとは違う。年相応の少女らしい、どこかほっとした表情だった。レッドも自然と口元を緩める。
「ああ。終わったよ」
その言葉を口にした瞬間、ようやく実感が湧いてくる。2人はしばらく言葉もなく夕焼けを見つめた。
沈みゆく太陽が校舎を赤く照らし、その光が傷だらけの屋上を静かに染めていく。激しい戦闘のあとだからこそ、その穏やかな景色が胸へ深く沁み渡った。
ふと、レイラがレッドの横顔をじっと見つめる。
「……ねぇ、レッド」
「ん?」
「目」
「目?」
「うん」
レイラは自分の目元を指差しながら、不思議そうに首を傾げた。
「さっきまでね、炎みたいにキラキラ光ってたんだよ?」
「え?」
「ほんとほんと。すっごく綺麗だった!」
レッドは思わず何度か瞬きを繰り返す。
「そうだったのか……」
「でも今は普通!」
レイラは少し安心したように笑う。
「戦ってるときだけだったのかなぁ?」
「自分じゃ全然わからなかったよ」
そして苦笑するレッド。確かに、あの瞬間は世界がまるで違って見えていた。狂戦士の動きも、空気の流れも、炎の揺らぎさえ鮮明に感じられた。
あれがクロウの言っていた『覚醒』なのだろうか。だが今は、その感覚はすっかり消えている。思い返そうとしても、夢を見ていた後のように輪郭が曖昧だった。
そんなことを考えていると、不意に背後から聞き慣れた落ち着いた声が響く。
「どうやら、無事に終わったようだな」
レッドとレイラは同時に振り返った。そこには腕を組みながら待っていたフレイと、柔らかな笑みを浮かべるミズリーの姿があった。
「フレイ!」
「ミズリー!」
2人が同時に声を上げる。フレイは静かに頷いた。
「よくやった。狂戦士を退けたこともそうだが、何より2人とも最後まで諦めなかった。それが1番の成果だ」
その言葉に、レッドは少し照れくさそうに頬をかく。
「いや……結構ギリギリだったけどな」
「ギリギリどころじゃなかったよぉ……」
レイラはその場へ座り込みそうになりながら苦笑する。ミズリーはそんな2人を見て、優しく微笑んだ。
「でも、その"ギリギリ"を乗り越えたから今があるの。本当に頑張ったわね。」
レイラはその言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れたように笑顔になる。
「えへへ……」
その笑顔を見て、レッドもようやく肩の力を抜いた。戦いは終わった。少なくとも今日だけは、その事実を受け入れてもいいのだと思えた。
ひとしきり労いの言葉を交わしたあと、レッドはふと周囲を見回した。この校舎に、もう敵の気配はない。風が吹き抜けるたび、砕けたコンクリートの欠片が小さく転がる音だけが耳に届く。
その静けさの中で、ある疑問が頭をよぎった。
「……そういえば、生徒たちはどうなったんだ?」
異変が始まる前、校内にはまだ大勢の生徒や先生がいた。意識を失って倒れていた者もいれば、魂を吸われ続けていた者もいる。
狂戦士を倒した今、彼らは無事なのだろうか。その問いに答えたのはフレイだった。
「安心しろ。」
短く言い切るその声には、揺るぎない自信があった。
「異変が終息した直後、権能を用いて全員を校庭へ移動させておいた。」
「校庭へ?」
レイラが目を丸くする。フレイは静かに頷いた。
「ああ。魂もすべて元へ戻っている。今頃は目を覚まし始めている頃だろう」
その言葉を聞いた瞬間、レッドは胸の奥に溜まっていた重い石がようやく落ちたような気がした。
「……よかった」
思わず漏れたその一言には、心からの安堵が滲んでいた。もし誰か1人でも救えなかったら。そう考えるだけで胸が締めつけられていたのだ。
ミズリーはそんな2人の表情を見て、優しく微笑む。
「もちろん、完全に何事もなかったとはいかないけどね。異変の影響で気を失っていたことくらいの記憶になるよう、最低限の補正はしてあるわ」
「そんなことまでできるのか……」
レッドは素直に驚いた。フレイは腕を組んだまま、小さく鼻を鳴らす。
「俺たち権能とは、そういうものだ。便利だろう?」
「便利っていうレベルじゃないだろ……」
レッドが思わず苦笑すると、レイラも小さく笑い声を漏らした。
「でも、全部元通りにできるわけじゃないの」
するとミズリーは廊下の床へ目を向けながらそう言った。そこには無数の亀裂が走り、爆炎によって焼け焦げた跡が黒く残っていた。
「校舎の傷はそのまま。無理に全部直してしまうと、逆に怪しまれてしまうから。今回はガス漏れみたいな感じなるように記憶を補正してあるわ」
レッドも改めて辺りを見回す。壁は崩れ、窓ガラスは割れ、床には戦闘の跡が刻まれている。普通に考えて、学校としては大事件だ。
「先生たち、大変そうだな……」
「間違いないな」
フレイは淡々と答える。
「この規模なら、安全確認だけでも相当な時間が必要になる。最低でも半月ほどは休校になるだろう」
その瞬間だった。レイラの顔がぱあっと明るくなる。
「えっ!? 本当に!? やったぁーーっ!」
勢いよく両手を上げて飛び跳ねる。ついさっきまで命懸けの戦いをしていたとは思えないほど、いつもの明るい笑顔だった。
レッドは思わず吹き出す。
「いやいや、そこ喜ぶところじゃないだろ」
「えぇ〜? だって休みだよ? 宿題もないかもしれないし!」
「いや、それは先生たちが頑張るだけだから」
「そっかぁ⋯⋯」
一瞬だけしょんぼりするレイラ。しかし次の瞬間にはまた笑顔に戻っていた。
「でも、少しゆっくりできるよね!」
「それは……そうかもしれない」
レッドも思わず笑ってしまう。こうして他愛もない会話ができる。そのこと自体が、異変が終わった何よりの証だった。
フレイはそんな2人を静かに見つめ、小さく口元を緩める。
「少なくとも今日は休め。戦いは心だけでなく、身体にも大きな負担を残すからな。自分では平気だと思っていても、後から一気に疲れが来るものだ」
「確かに……」
言われてみれば、全身が鉛のように重い。アドレナリンが切れ始めた今になって、腕や脚の痛みが次々と襲ってくる。
レイラも同じだったのか、小さく肩を回しながら苦笑する。
「明日は筋肉痛かもぉ……」
「その前にちゃんと眠るのよ」
ミズリーはくすっと笑いながらそう言う。その穏やかな笑い声につられるように、レッドたちも自然と笑顔になった。
ほんの少し前まで死を覚悟していたとは思えないほど、その場には穏やかな時間が流れていた。すると、フレイがレッドへ視線を向けながら言った。
「……ところで、身体の調子はどうだ。“生“を断たれたんだろう?」
その言葉に、レッドは少しだけ考え込む。胸へ手を当てる。鼓動はある。呼吸も問題ない。
「今のところ、大丈夫。ただ……あれは本当に死ぬかと思った」
そしてミズリーは真剣な表情で頷く。
「完全に意識を失っていたら危なかったわ。今回は本当に運が良かったみたい」
「やっぱり怖い世界だな……エレメンターって」
レッドは苦笑した。そして、フレイは静かに言う。
「だからこそ、お前たちはまだ強くならねばならない。今日の敵は、ほんの序章に過ぎん」
その言葉に、夕風が静かに吹き抜ける。レッドは夕焼けへ視線を向けた。今日、自分は初めて本当の戦いを知った。
守れた命。そして、自分より遥かに強い存在。そのすべてが胸へ刻み込まれている。
「――もっと、強くなる」
その呟きは小さかった。だが、その決意だけは誰よりも強かった。夕焼けは静かにレッドたちを照らしている。
長かった異変は終わりを迎えた。窓からを吹き抜ける風は、どこか心地よかった。戦いの熱をゆっくりと冷ましていくような優しい風が、レッドたちの髪を揺らす。
そして、ふと視線を空へ向ける。夕日はもう地平線へ沈みかけ、茜色だった空は少しずつ群青へと色を変え始めていた。
1日の終わりを告げる空。それは、長かった異変の終わりを祝福しているようにも見えた。レッドは静かに息を吐く。
「……帰れるんだな」
その一言には、自分でも気づかないほどの安堵が滲んでいた。朝、学校へ来たときには、こんな1日になるとは夢にも思わなかった。
突然現れた異変、エレメンターという存在、命を懸けた戦い。そして、1度は“生”という概念さえ断たれた自分。
どれも数時間前の出来事とは思えないほど、遠い昔のことのように感じられる。レイラも夕焼けを見つめながら、小さく微笑んだ。
「今日は……すっごく長い一日だったね」
「ああ。でも、悪くなかった」
「え?」
「もちろん、戦いは嫌だけどさ。それでも……1人じゃなかったから。ありがとう、レイラ」
その言葉に、レイラは少し驚いたように目を瞬かせる。そして照れくさそうに笑った。
「えへへ……私も。レッドがいてくれて、本当によかった。」
短い言葉だった。けれど、その一言には戦いの中で何度も互いを信じ合ってきた想いが込められていた。レッドも少し照れながら笑い返す。
「俺も、助けられてばっかりだったよ。お互い様ってことだな」
「うん!」
レイラは元気よく頷く。その笑顔は、戦いの中で見せた凛々しい表情とは違う。年相応の、無邪気で優しい笑顔だった。
そんな2人を少し離れた場所から見守るフレイとミズリー。フレイは静かに腕を組み、夕焼けへ目を細める。
「……まだ始まったばかりだ」
誰に聞かせるでもない、小さな独り言。ミズリーはその意味を理解しているかのように、静かに微笑んだ。
「そうね。でも、この子たちならきっと大丈夫。そう思えるわ」
フレイは小さく頷く。今日という1日で、2人は確かに成長した。まだ未熟だ。まだ弱い。それでも、自ら立ち上がる強さを手に入れ始めている。その成長こそが、何より大きな希望だった。
校舎の下からは、救急車や消防車のサイレンが微かに聞こえ始めていた。
日常が戻ってくる音。世界は再び、いつもの時間を刻み始める。レッドは最後にもう1度、夕焼けの空を見上げた。今日、自分は初めて知った。
世界の裏側には、自分たちの知らない戦いが存在することを。人知れず世界を守り続ける者たちがいることを。
そして――自分もまた、その戦いの中へ足を踏み入れたということを。
強敵との出会い。仲間との絆。命の重さ。守るという覚悟。そのすべてが、レッドの心に確かな足跡を残していた。
この先、待ち受ける戦いは今日よりも遥かに過酷なものになるだろう。新たな敵。新たな仲間。まだ見ぬ世界。そして、神獣たちが口にしていた「ある組織」の存在。するとレッドは小さく呟いた
「――まだまだこれから、か」
謎は何1つ解けてはいない。むしろ、始まったばかりだった。だが、レッドはもう迷わない。たとえどれほど強大な敵が現れようとも。どれほど理不尽な運命が待ち受けていようとも。
自分が守りたいと思ったもののために、この剣を振るう。それが、エレメンターとして歩み始めた自分の答えだから。
夕焼けに染まる校舎を背に、4人はゆっくりと歩き出す。長かった異変は、静かに幕を閉じた。しかし、それは決して物語の終わりではない。
――これは、数多の運命が交差する壮大な物語の、ほんの序章。
――少年と少女が世界の真実へ辿り着く、その長い旅路の始まりである。
後書き
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