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第一部 地域ローカルスーパー(下級神)編 / 第8話
事の発端は、タエさんの梅酒だった。
「新しい取引先さんができたんでしょう? そういうのはね、神様、ちゃんとお披露目するもんよ」
閉店後のみそぎ屋。イートインコーナー(と呼んでいる、パイプ椅子四脚と長机一台)に、タエさんが重たい瓶をどん、と置いた。中で琥珀色の液体が、たぷんと揺れた。八年物の自家製梅酒だという。八年。うちの店の商品より年季が入っている。
「お披露目って、あの人ほとんど毎日来てますけどね。レジ横で油揚げ食って帰るだけの」
「それを取引先と呼ぶかどうかはともかく」
翔がコップを並べながら言う。「歓迎会って名目があれば、堂々と店の菓子開けられるじゃないですか」
「お前それが目当てだろ」
そういうわけで、その晩は商工会――まだ正式名称も何もない、二柱と人間二人の集まり――のささやかな宴になった。当のくーちゃんは上座(パイプ椅子)にちょこんと座り、歓迎されるがままに油揚げと、タエさんの糠漬けと、翔の開けた菓子を上機嫌でつまんでいた。
事故が起きたのは、タエさんが梅酒の蓋を開けた瞬間だ。
くーちゃんの鼻が、ひくり、と動いた。
「……ほう。人間、それは酒じゃな?」
「梅酒よ。お神酒ってわけにはいかないけど、神様も一杯どう?」
「ふ、ふふん。よかろう。言うておくがの、わしは酒には強いぞ。なにせ千年単位で呑んできた大先輩じゃ。おぬしらの梅酒ごとき、水と同じ――」
一杯目の途中で、耳がへにゃりと倒れた。
「……くーちゃんさん?」
「にゃんじゃ」
呂律が既に怪しい。頬が、提灯みたいに赤い。二口目で尻尾の毛が膨らみ、三口目で「この梅、良い仕事をしておるのう……」と瓶を抱き、コップに二杯目が注がれる頃には、机に顎を乗せて上機嫌に歌い出した。聞いたことのない音階の歌だった。たぶん千年単位で古い。
「タエさん、これ大丈夫なやつですか」
「あらあら、可愛い酔い方じゃない」
「神様って酔うんですね。じゃあ三杯目――」
「翔、お前もう注ぐな。栓しろ。今すぐ」
俺の制止は、しかし遅かった。
くーちゃんが三杯目をくいっと空けた、その瞬間。
ぽん、と。
間の抜けた音がして、白い煙が上がった。座敷童子サイズの神様が、煙に包まれて――煙が晴れたとき、パイプ椅子の上には、別人が座っていた。
いや、別人じゃない。耳と尻尾は同じだ。だがそれ以外の何もかもが違った。背は俺と同じくらい。着物の肩が滑り落ちかけていて、月みたいな色の髪が、畳……じゃなくてリノリウムの床まで流れている。年の頃なら二十八かそこら。どこからどう見ても、大人の女の人だった。しかも、とんでもなく綺麗な。
「…………」
店内が、しん、となった。タエさんが湯呑みを持ったまま固まっている。翔は菓子の袋を握り潰していた。中身ごと。
「……あれ? わしの椅子、こんなに低かったかしら」
声まで違った。鈴が鳴るみたいな声が、酔いでとろりと溶けている。
「えー……くーちゃん、さん?」
「なぁに」
「その、姿は」
「姿ぁ?」
くーちゃんは自分の手をしげしげ見て、それから着物の袖を見て、
「ああ」と実にどうでもよさそうに言った。
「化けの皮が剥がれたのねぇ。酒が入ると、術が緩むのよ。……ふふ。まあ、いいじゃない。減るものでもなし」
「いや、色々と説明が」
「それより、新入り」
がたん、とパイプ椅子が鳴った。立ち上がったくーちゃんが、揺れる足取りで――だが妙に迷いのない軌道で――こっちへ来る。まずい。俺はレジの方へ後退した。後退した分だけ、詰められた。数字の合わない在庫と対面したときと同じ嫌な汗が出る。
「なんで逃げるのよぅ」
「いや、近い。距離感がおかしい。うちの店、レジ前は一名様ずつって決まりが」
「あら、わたしお客よぅ? お客は神様なんでしょう?」
「うちの店では神様は俺なんですよ。ほら、座った座った。水持ってくるんで。翔! 水! でかいコップで!」
「む、無理っす神様、俺いま目のやり場が」
「目をつぶって注げ!」
レジカウンターに追い詰められた。くーちゃんの手が、俺の襟を掴む。酔っ払いの膂力じゃなかった。そういえばこの人、俺を夜空まで放り投げた先輩だった。
間近で見る本来の姿は、境内で見た月と同じくらい遠い顔をしていた。なのに、吐息は梅酒の匂いで、困るくらい現実だった。
「ふふ……つかまえた」
「捕まりました。それで、あの、お代はどちらで」
「相変わらず、逃げるのが下手ねぇ……おまえさま」
――おまえさま?
聞き返そうとした、そのときだった。
からん、と。店の自動ドアが開いた。
「夜分にすみません。ポイントカードの届出書類、書き方の見本をお持ちしたので、営業時間外ですが郵便受けに――」
書類の束を持った葵が、そこに立っていた。
葵は見た。レジカウンターに追い詰められた俺と、俺の襟を掴む、肩の出た着物の妙齢の美女と、机の上の梅酒の瓶と、目をつぶって水を注いでいる未成年と、湯呑みで晩酌姿勢のタエさんを。
「…………」
「……あの、葵さ……藤崎さん。これはですね」
「状況を整理します」
葵は書類の束を、ぴしりと胸の前で揃えた。目が据わっている。丁寧語のまま、早口が始まった。
「一、当該店舗は現在閉店後であり、営業実態のない時間帯に不特定の飲酒を伴う集会が行われている。二、未成年者が同席している。翔くん、あなたは注ぐ側でも駄目です。三、そちらの……どちら様かは存じませんが、神格の方とお見受けします。神域内における神格の泥酔は、神域活動指針第十一条の三、『人の面前における威儀の保持』に抵触するおそれがあります。四、」
葵はそこで一拍置いて、俺を見た。
「四。店主さん。その体勢は、何ですか」
「不可抗力です。襟を掴まれてるのは俺のほうで、むしろ被害届を」
「あらぁ?」
くーちゃんが、俺の襟を掴んだまま、ゆらりと葵を振り返った。酔った狐の目が、面白いおもちゃを見つけた形に細まった。
「なぁに、お役人さん。これはわしと新入りの、商工会の親睦ですけどぉ? 第十一条がどうとか言うなら――そっちこそ、届も出さずにわたしの新入りを毎度じろじろ見に来るの、何かの条例に引っかからないのかしらぁ?」
「じ、じろじろ見てなどいません。定期観察です。重点観察案件なので」
「ふぅん? 観察ねぇ」
「観察です。記録も付けています」
「へぇえ。まめねぇ」
「まめです。公務員なので」
二人の間で、見えない火花が散った。狐火と行政文書が散った、ような気がした。俺は襟を掴まれたまま、二人のヒロイン……じゃない、二人の関係者に挟まれて、商売人として最適な一手を必死に検討していた。よし。
「――皆さん、本日の親睦会は閉店時間でーす。蛍の光、流しまーす」
俺はレジ下のラジカセの再生ボタンを押した。演歌が流れた。蛍の光のテープは、なかった。
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結論から言うと、宴はそこでお開きになった。
くーちゃんは演歌の二番あたりで電池が切れたみたいに寝落ちし、俺の襟は解放された。タエさんと葵が(この二人は妙に手際が合った)寝入った神様に上着を掛け、翔は菓子の残骸を片付けて帰った。葵は帰り際、「届出書類、月曜までにお願いします」とだけ言った。有能な人は、深追いしない。
翌朝。
店を開けに降りると、イートインコーナーのパイプ椅子の上で、いつものサイズに戻ったくーちゃんが、丸くなって寝ていた。耳がぴくぴく動いて、目が開く。
「……む。おはようなのじゃ。……なんじゃ新入り、その顔は」
「いや。昨日の夜のこと、覚えてます?」
「昨日? 油揚げを食うて、梅酒を舐めて……それからのう……」
くーちゃんは腕を組んで、こてんと首を傾げた。
「――うむ、覚えとらん! まあ大方、わしの千年の酒豪ぶりに皆がひれ伏したのであろう。よくあることじゃ」
「…………そっすね。だいたいそんな感じです」
おまえさま、と呼ばれたことは、言わなかった。誰のことなのかも、聞かなかった。聞かないのも商売のうちだ。……ただ、帳簿の隅にでも書いておきたい気分ではあった。貸しなのか借りなのか、まだ分からない項目として。
「それより新入り、朝飯はまだかの。親睦会の翌朝は、迎え酒ならぬ迎え揚げと相場が」
「相場にないでしょ、そんなもん。……ああもう、分かりましたよ。炙るんで待っててください」
こうして、うちの店の閉店後には、時々パイプ椅子の宴が立つようになった。ただし、あの夜を境に、みそぎ屋には新しい店内規則が一つ増えた。レジ横に貼ってある。手書きで。
『くーちゃんにお酒を飲ませちゃいけません(戒め)』
【本日の売上:五万三千円(前日比プラス四パーセント)】
【本日の客数:三十五名】
【親睦会経費:菓子代八百六十円、梅酒はタエさんの持ち込みにつき零円】
【損耗:菓子袋一(翔が握り潰したもの)、俺の襟の形状】
【備考:酒類に賞味期限を適用して宴を強制終了させる案は、次回に向けて検討中】
新装開店準備セール、九日目。本日も、無事閉店せず。
後書き
「くーちゃんにお酒を飲ませちゃいけません(戒め)」お読みいただきありがとうございました。店内規則の貼り紙、今後も増える予定です。集めてください。
次回は幕間、「お稲荷様のつぶやき」。宴の翌朝、当の本狐が何を考えていたのか……覚えていない部分も含めて。
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