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第16話 / 全29話
村の広場にある祭壇。かつて村の娘が縛られていたその柱に、今、玄奘が縛り付けられていた。風が止んだ。鳥の声も、虫の音も消え失せた。完全な静寂が広場を支配し、村人たちが息を殺して家屋の陰から覗き見る中、西の空が不気味に赤く脈打ち始めた。
「来る……」
玄奘が呟くのと同時だった。
夜空の闇を切り裂き、巨大な質量が地へと叩きつけられた。激しい地響きが足元の大地を跳ね上げ、衝撃波が古い家屋の土壁を粉々に砕く。巻き上がった砂塵の向こう側に、立ちふさがる山塊のごとき影が姿を現した。
土煙が晴れると、そこに立っていたのは、山のような巨躯を持つ牛の頭をした魔神――平天大聖、牛魔王であった。彼の頭上にそびえる二本の角に刻まれた赤い紋様が、ドクン、ドクンと、不吉なリズムで明滅している。脈動のたびに牛魔王の顔が微かに歪む。彼を突き動かしているのは、威厳ではなく、何かに追い立てられるような切迫した「痛み」だった。
「……ほう」
牛魔王の燃えるような瞳が、祭壇の生贄を捉えた。彼は、怯える村人たちが捧げた「娘」の顔を確認しようと、太い指で玄奘の顎を乱暴に持ち上げた。瞬間、牛魔王の目が細められた。
「これは驚いた。薄汚い田舎娘かと思えば……まさか、これほどの法力を持つ法師が膳に乗るとは」
牛魔王は、玄奘を知らない。だが、玄奘の持つ法力は感じ取っている。しかし、彼にとって玄奘は、あくまで今回たまたま手に入った極上の餌に過ぎないのだ。玄奘だけが、この妖がもたらす絶望の味を、何度も何度も噛み締めてきた。
「お初にお目にかかります、平天大聖」
玄奘は、顎を掴まれたまま、毅然と睨み返した。
「村の娘は病で穢れておりました。代わりに、私の身を捧げます。これで、この村への手出しは無用に願いたい」
牛魔王は喉を鳴らし、愉快そうに笑った。
「良い心がけだ。貴様のその、死を恐れぬ肝の座り方……味も期待できそうだ」
牛魔王は舌なめずりをし、玄奘の体を縛る縄を引きちぎらんばかりに掴んだ。
その直後。
張り詰めた大気に、冷徹な亀裂が走った。牛魔王の角を刻む呪文の隙間から、何かが爆ぜるような鋭い破砕音が響く。直後、牛魔王の巨躯が凍りついたように静止した。
「―足りぬ」
牛魔王の喉奥から、獣の唸りが漏れた。目の前の法師は極上だ。だが、この法師の死を、村人たちは悲しまない。むしろ自分たちが助かったと安堵するだろう。それでは駄目なのだ。 牛魔王は知っている。人間が吐き出すよかったという温かい安堵の吐息こそが猛毒になることを 。温かい感情は、劫火だ。もっと重く、もっと大量の、泥のような冷たい「絶望」が必要なのだ。今すぐに。
牛魔王の視線が、ぎらりと村人たちが潜む家々へと向けられた。焦燥が、彼の理性を塗りつぶしていく。
「法師様よ。契約とは指定した娘を捧げることだ。勝手な代用品がいかに上等であろうと、約束を違えた事実に変わりはない」
「……な……!」
「それに、我を待たせた。その『遅延』の利子も払ってもらわねばな。……これでは、腹が満ちぬのだ!!」
牛魔王が大きく息を吸い込むと、その胸板が異常なほどに膨れ上がった。
玄奘が息を呑む。止められない。この男の飢えは、理屈や取引で収まるものではない。
牛魔王が顎を開いた。爆発的な熱波が空気を引き裂き、地獄の業火が解き放たれる。紅蓮の炎は猛烈な勢いで膨れ上がり、家屋も、悲鳴を上げる暇さえなかった村人たちも、すべてを無慈悲な赤で塗り潰した。
断末魔の悲鳴が夜空を引き裂く。長老も、その孫娘も、生き延びようと必死に働いた男たちも、家で震えていた女子供も、等しく炎の中で炭化していく。逃げ惑う影が炎に巻かれ、一つ、また一つと崩れ落ちる。
「……っ」
玄奘は、燃え盛る村を瞳に映し、唇を噛み締めた。しかしそれは、村人に対するものではない。
「ハハハハ! 良い音だ! もっと泣け、もっと絶望しろ! その嘆きこそが、我を……我らを癒やす薬となる!」
牛魔王は燃え盛る村を背に、狂ったように叫んだ。角の脈動が少しだけ穏やかになるのを感じながら、彼は玄奘の身体を鷲掴みにし、引きずるようにして歩き出した。
「さあ、行くぞ法師。城でじっくりと味わってやる。村人の灰を薬味にしてな」
玄奘の体が宙に浮く。乱暴に運ばれる衝撃と共に、彼女は遠ざかる村。そして、その外れにある、悟空が眠る小屋の方角を見た。
……ああ……
胸の奥が、焼け付くように痛んだ。
自分は、万能の聖人ではない。ただの、無力な一人の女だ。だからこそ、最後に残ったたった一つの願いが、どうしようもないほどの未練となって溢れ出した。
牛魔王の腕の無骨な感触が、玄奘に「終わり」を告げている。もう二度と、あの不器用な猿の頭を撫でることはできない。減らず口を叩き合うことも、あの熱っぽい視線を感じることもない。もっと、触れておけばよかった、ふいに、後悔が涙となって溢れそうになった。
法衣の下の肌が粟立つ。一度でいいから、彼に抱きしめられたかった。あの力強い腕で、私の全てを壊れるほどに愛してほしかった。何度も繰り返した旅の中で、今が一番、彼を求めている。
玄奘は、溢れそうになる涙をぐっと飲み込み、牛魔王の顔を見据えた。その瞳には、愛する者を守るための強い意志と、愛する者と別れる切ない焦燥が、矛盾したまま激しく混ざりあっていた。
「………………。」
彼女は、誰にも聞こえぬ最後の言葉を闇に落とした。
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