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第17話 / 全29話
何刻が過ぎたか、悟空は目を覚まし、ゆっくりと立ち上がった。埃っぽい土間の感触が足裏に伝わる。
「……あ?」
悟空は、ぼんやりと周囲を見回した。薄暗い、汚れた部屋だ。誰もいない。
自分はなぜ、こんなところに突っ立っているんだ?頭を振る。何も思い出せない。ただ、ひどく長く、深い眠りについていたような気だるさだけが残っている。
「……腹減ったな」
悟空は無意識に呟き、扉を開けた。
夜風が吹き込んでくる。
そこには、鼻を刺すような焦げ臭い匂いと、血の匂いが充満していた。
目の前に広がるのは、ひび割れた大地と、半壊した家々。まだ燻っている火種が、赤い目のように闇の中で明滅している。
完全に破壊された村。
だが、悟空はその光景を見ても、何の感情も湧かなかった。ただの瓦礫だ。ただの死体だ。見知らぬ場所で、見知らぬ誰かが死んでいる。それだけのことだ。彼は、その悪臭の原因を冷静に突き止め、心底無頓着な様子で、瓦礫の一部として足蹴にした。 彼の関心は、もはやその「悪事」にはなかった。
悟空はあくびを噛み殺し、如意金箍棒を肩に担ぐと、理由のない空虚さを埋める何かを探して、廃墟の中へと足を踏み出した。彼の獣的な嗅覚が、空気中に残された異様な臭いを捉えた。それは、焦げた硫黄、血、そして、獣特有の強い瘴気が混ざった、腐敗したような匂いだった。
その匂いを五百年前から知っていた。
……この、匂い……、牛の奴か。相変わらず人殺しをやめられねえみてぇだな。他にやるこたぁねえのかね……
はっと、己の言葉が突き刺さる。
(さあ、もう時間よ)
悟空は不意に立ち止まり、西の空を仰いだ。
……行かなきゃならねえ。西だ……
理由も分からず、ただ天竺へ行かなければならないという強烈な引力が、魂の芯を揺さぶった。そこへ行けば、この胸の空虚が埋まる。そこへ行けば、俺のすべきことを思い出せる。根拠のない確信が彼を急かした。
…… 俺一人なら、筋斗雲でひとっ飛びだ ……
今の自分を縛るものなど、この世に何一つない。独りであれば、あの極彩色の雲に乗って、瞬きする間に世界の果てまで辿り着ける。煩わしい歩みも、泥にまみれた地這う旅も必要ない。
悟空が天に拳を突き上げ、筋斗雲を呼ぼうとしたその時、女のうめき声が聞こえた。普段なら、死にかけた女などに興味はない。だが、気にも留めないその声が、今はやけに気になる。
声の方に目をやると、二つの黒焦げた塊が目に留まった。男が、女を庇うように覆い被さったまま炭化していた。女は、男の腕の下から顔を覗かせている。女は、焼け焦げた男の胸に寄り添い、辛うじて息をしていた。女の瞳が濁りの中で悟空を捉えた。そして、最後の呪詛を絞り出しながら、悟空の前で、息を引き取った。
ぱたり…
と、女の手が崩れる。
焼け焦げた体の中で、手のひらだけが白く残っていた。
「お姉ちゃんも、大人しく炭になった方が楽だったろうによぉ。弱えぇ奴が何やってんだか…」
暴力の前では無意味な行為だ。だけど、なんだ?俺はこの光景を、知っている気がする
……記憶のない脳の奥底が、微かに、チクリと軋んだ。
(俺は……ここで、何をしていた?)
理由のない焦燥が、腹の底からこみ上げてきた。 何か大事な約束をしていたような気がする。手繰り寄せようと意識を集中させた瞬間、額の金の輪―緊箍児が、ズキンと不気味な脈動を打った。
その途端、頭の中に浮かびかけた像は、砂の城のようにサラサラと崩れ去った。 顔が思い出せない。声も、名前も、すべてがすり抜けていく。 残ったのは、両の手のひらにこびりついた熱の感触だけだった。
誰かを抱きしめようとしていた。 誰かの、白く華奢な手首を、絶対に逃がさないと掴んでいた。 その熱の主が誰だったのか、どれほど思考を巡らせても、頭の中は真っ白な平原のままだ。
「……ちっ……何なんだよ、これは……!」
悟空は自分の胸を強く殴りつけた。ドン、と鈍い音が響く。 だが、胸の奥の不快な痛痒は消えない。むしろ、殴れば殴るほど、正体不明の「失ったもの」への飢餓感が暴れ出し、爪で喉を掻きむしりたくなるほどの狂気へと変わっていく。
不快だ。狂いそうだ。 俺から何を奪った? 誰が俺の胸にこんな穴を開けた?
悟空は、その違和感の正体を探るよりも、ただ不快なこの場所から離れたいという本能に従い、背を向けた。
しかし、胸の奥の感覚が、微かな熱へと変わり始める。その熱が、彼の失われた記憶の壁を、ゆっくりと侵食し始めた。
(触れろ)
頭の中で、誰の者ともつかない声が響く。
(もっと抱きしめろ。壊れるほどに愛してくれ)
「……がっ……あ……っ!?」
悟空は頭を抱え、膝をついた。 緊箍児がギリギリと皮膚を割るほどに締め上がる。思い出せない。思い出してはいけない。命令が魂を縛る。
(私を見失え)
その声だけが、記憶の深淵から冷たく響く。 誰だ? 誰が俺に命じている? 命令など聞くか! 俺は斉天大聖孫悟空だ! 誰の支配も受けん!
だが、抗えば抗うほど、対象の影は消え、残されるのは取り返しのつかないものを永遠に失ったという、地獄のような絶望感だけだった。
膝をついたまま、悟空は自分の震える手を見つめた。 爪が肉に食い込み、血が滲む。
記憶のない彼の脳裏に、誰かの、震える手のひらの感触だけが、曖昧な熱として蘇る。
(ああ……そうか)
悟空の金色の瞳に、濁った赤黒い殺意が灯った。
この不快な穴。この胸を掻きむしりたくなるような激痛。 この俺をこんな目にあわせている元凶が、どこかにいる。 俺の命より重い「何か」を奪い去り、知らぬ顔で嗤っている奴がいる。
その瞬間、北の山脈から流れてくる硫黄の臭いが、彼の鼻腔を暴力的に貫いた。 その源流は、遠く北の山脈にそびえる、禍々しい影――牛魔王の城だ。その影を見た瞬間、天竺への引力を塗りつぶすほどの、どす黒い熱が右手に宿った。
「……そうだ。あいつだ」
理由のない憤りが湧き起こる。
魂が叫んでいた。 理由なんて、どうでもいい。
牛魔王が何の為に、何を殺したかなど知ったことではない。 あの城に行けば、この胸の穴を埋める答えがある。あの牛の首を噛みちぎり、その血を飲めば、この狂うような喪失感から解放されるはずだ。
「牛のやろう」
悟空の体に、かつての兄弟分に対する殺意が溶岩の如く湧き上がる。
悟空は、如意金箍棒を無造作に一振りした。それだけで、周囲の残骸が爆圧で吹き飛ぶ。
「……待ってろよ。今、ぶち殺しに行ってやる」
理由は分からない。ただ、己の殺意に迷いは無かった。金色の瞳が、紅蓮の業火を宿した。 悟空は天に向かって拳を突き上げる。
激しい衝撃波が走り、荒野の砂塵を空高く巻き上げ、筋斗雲が、雷鳴とともに呼び出される。
悟空を乗せた筋斗雲の雷鳴のような轟音が、牛魔王の居城へと向かって、夜の闇を切り裂く。
記憶はない。だが、その魂は、すでに何かを求め、猛烈な速度で加速を始めていた。
ただ、自分の魂を苛む「空っぽの正体」を、暴力で暴き立てるために。
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