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第15話 / 全29話
扉が閉まる鈍い音が、まるで墓石が蓋をされる音のように響いた。
再び、静寂が部屋を支配する。月明かりだけが、微かに埃っぽい土間に残された悟空を照らしていた。彼はまるで精巧な石像のように、指一本動かせないまま固まっていた。
(……動け! 動けよ、ちくしょう!)
悟空は全身の筋肉に命令を送る。岩をも砕く剛力、天を駆ける瞬発力。そのすべてが、額の輪、緊箍児が発する冷たく重い脈動によって、内側から完全に封殺されている。まるで、見えない鋼鉄の檻に魂ごと閉じ込められたかのようだ。
金剛不壊の肉体を持つ斉天大聖が、ただの小娘の言葉一つで、ただの置物になり果てる。
だが、今の彼を支配していたのは、肉体の屈辱ではなかった。
先ほどまでこの部屋に満ちていた、白檀のような香りと、重苦しい告白の残響だった。
「私が何度も死に、その度に旅の始まりに戻るのよ」
「牛魔王との戦いを避け、あなたを救うため」
玄奘の言葉が、動けない彼の脳内で繰り返し再生される。
最初は鼻で笑った。輪廻だの、転生だの、人間が好む安っぽいおとぎ話だ。だが、あの時の玄奘の目は違っていた。いつも自分を見下ろす冷たい瞳の奥に、地獄よりも深い「無」、深淵のような諦めが渦巻いていた。あれが嘘をつく人間の目か? いや、あの震える手、あの肌の熱……。
悟空の思考が揺らぐ。
もし本当なら、あいつはずっと一人で、終わりのない地獄を歩いていたことになる。そして今、その地獄の底で、自分だけを地上へ逃がそうとしている。
(牛魔王だ? 俺が負けるだと?)
悟空は心の中で鼻を鳴らした。
平天大聖、牛魔王。五百年前、共に天界を相手に暴れ回った義兄弟だ。確かに力は強い。デカい図体に見合わず小賢しい妖術も使う。だが、俺様が負ける相手じゃねぇ。
「俺様の強さを知らねぇから、そんな勝手なマネしやがるんだ」
俺が負ける姿を見たことがある、と玄奘は言った。だが、それは「俺」であって「俺」じゃない。本当の俺は、あんな牛野郎、三秒で挽肉にできる。
(ここから出たら、まずあの牛を片付ける。そんで、そのあとあいつを……)
思考は自然と、先ほどの光景へと滑り落ちた。
月明かりに晒された、抜けるように白い肌。華奢な肩から腰への曲線。普段の厳格な法衣の下に、あんな無防備な女を隠していたとは。
「勝手に見せておいて、おさわりもなしかよ。……次は逃がさねぇ」
そうだ。助け出して、思い知らせてやる。俺のために命を捨てようとした罰だ。たっぷりと可愛がって、その冷たい顔を泣き崩して、俺の名前しか呼べないようにしてやる。
想像するだけで、腹の奥が熱くなる。その熱が、呪縛を破る力になるはずだ。
(待ってろ、玄奘。今すぐ……)
不意に、思考が空転した。
霧がかかったように、熱の輪郭がぼやける。
(……あれ?)
今、何を考えていた?
白い肌。そうだ、あの肌を思い出せ。柔らかそうな感触。甘い匂い。
だが、思い出そうとすればするほど、そのイメージは指の間から零れ落ちる砂のように、さらさらと消えていく。
顔が思い出せない。
どんな顔をしていた? 冷たい目? いや、泣いていたか?
それ以前に、誰の顔だ?
(誰を……助けに行くんだっけか?)
焦りが生まれた。大事なことだ。絶対に忘れてはいけないことだ。命よりも大事な「何か」が、急速に引き剥がされていく。
「二度と私に会うな。私を見失え」
あの言葉だ。
あれは別れの挨拶ではなかった。命令だ。この頭の輪を通した、絶対的な呪縛の命令だったのだ。
「やめろ……ふざけんな……!」
悟空は叫ぼうとしたが、声帯は動かない。
抵抗すればするほど、記憶の消失は加速する。
牛魔王への怒りが、色を失う。
守らなければならないという使命感が、意味を失う。
愛おしいという感情だけが残り、そしてそれも、対象を失って空っぽの空洞になった。
(俺は……待て、行くな……!)
必死に何かを掴もうと、精神の手を伸ばす。だが、掴んだ端から、それは「無」に変わる。
名前が消えた。
旅の記憶が消えた。
自分を縛り付けていた、あの心地よい鎖の感触さえも。
やがて、悟空の思考は、真っ白な平原になった。
なぜ怒っていたのか。なぜ焦っていたのか。なぜ、胸がこんなにも苦しいのか。
その理由が、もう、どこにもない。
彼は、そのまま深い眠りについた。
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