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第14話 / 全29話
玄奘を生贄として捧げるための準備が村で進む中、周囲は深い闇に沈んでいた。 玄奘と悟空は、長老の家の火の灯らない部屋で、互いに距離を取り座っていた。窓からの月明かりが、かろうじて二人を照らしている。
悟空は、つい先ほどまで死の淵を覗いた喉を何度か鳴らし、憎々しげに玄奘を睨みつけていた。頭を締め付けられた灼熱の痛みが、強大な肉体に未だ屈辱として残っている。
「あんた。やけに静かだな」
悟空は金箍棒を握ったまま、壁を見つめている。彼の声にはいつもの能天気さがなく、怒りの残り香が滲む。
「……もしかして、今夜こそ俺の想いを受け止めてくれるのか?別れを惜しむってやつで」
玄奘は、その粗暴な戯言に、表情一つ変えなかった。しかし、彼女の視線は、悟空の頭の金色の輪に固定されていた。
「くだらないことを言うな、猿。今夜が、お前と話す最後だ」
玄奘の視線が悟空の顔、分厚い胸板、そして力強い腕へと移る。ずっと胸に沈めていた言葉が、ついに形を得ようとしていた。
「仏門の道は、ここで終わり。私のすべてをもって、この呪いを断ち切る」
玄奘は静かに立ち上がると、その場で帯に手をかけた。悟空の金色の瞳が見開かれ、その一瞬、玄奘のその冷たい顔つきが、深く、諦めるような慈愛を帯びた、かつて彼を包み込んだ柔らかな表情へと変わった。
「悟空、あなたは本当にいつも変わらないね。本当に、いつも」
法衣は、彼女の体を覆う、厚く重い鎖のようだった。彼女は、彼女を包む衣を一枚ずつ、ゆっくりと、しかし確実に肩から滑り落とす。絹の衣擦れの音が、静寂の中で耳障りなほど響いた。
はだけた衣の隙間から、冷たい月光を吸い込んだ白磁のような滑らかな乳房が、露わに浮き上がる。その無垢で、しかし悲劇的な予感に震える柔らかな双丘は、悟空の視線を逃れようもなく釘付けにした。純粋で、どこか絶望に満ちた肉体が、悟空の前に晒された。
「お、おい、あんた、おかしくなったか」
悟空は驚きとも困惑ともつかない声をあげる。
「実はね、悟空。私はあなたともう何十回も旅をしているのよ」
玄奘はその問いを無視し、ゆっくりと、まるで他人の物語を語るかのように声を絞り出す。その声も口調も、まるで別人のようだった。
「その旅の中で、私は何度も死に、その度に旅の始まりに戻るのよ」
悟空は、大きく目を見張ったままだ。
「前々回の旅で、私は別の村で盗賊に殺された。その前は、病で。その度に、私のこの魂は、旅の始まりの、幼い私に戻るの。そして、この悲劇を最初からやり直す。また別の時は、牛魔王と戦って、あなたと一緒に傷つき、死んだ。そう、何度も何度も!」
「あんた、何言っている!さっぱり分からねぇ!普段からおかしいが今日はひどすぎるぞ」
「あなたには分からなくても、私にはわかる。私たちは、牛魔王の名を聞いてしまった!この時点で、私たちの結末は決まってしまった。あなたは私を守るために命を差し出し、私もまた後を追うことになる。これが、この呪いの決まった結末なの」
部屋の中に、重い絶望の沈黙が落ちた。
「……私が身代わりになるのは、村人のためじゃない。私が死ぬことで、牛魔王との戦いを避け、あなたを生き永らえさせるため。あなたは私の大事な人。私はあなたのためだけに旅を続けてきた。あなたを失えば私の全てが意味を失う」
玄奘は震える手で、悟空の頬に触れた。そして、その手のひらを悟空の熱い胸板に滑らせる。その白い手のひらは小さく震えている。
「許して、あなた。私はもう、あなたを失うのが……耐えられないの」
「この俺様が、あの牛ごときにやられただってぇ!なに言ってやがる!寝言は寝て言え!」
悟空が噛みつく。
しかし、吠える彼の喉が不自然に引き攣った。 目の前の女。その白く、壊れそうなほど震える指先。そして何より、その瞳だ。 地獄で出会ったあの時から、その瞳には深い「無」があった。なぜ小娘にこれほどの絶望が宿っているのか、その理由を悟空は今、本能で理解した。
彼女は、俺が死ぬのを、
俺を失うのを、
数えきれないほど「見てきた」のだ。
悟空は数瞬、その視線に射抜かれたまま言葉を失った。 彼女が毒を食らい、心を凍らせ、自分を「道具」として扱ってきた理由。それは、愛する者を失う激痛に、彼女の魂がもう耐えられなかったから。 激しい否定の裏側にある、玄奘の静かな「真実」が、毒のように悟空の胸に回っていく。
「……牛ごときにやられるわけねえじゃねえか……」
悟空の声から、鋭い棘が消えた。
「なら、前世からずっと、あんたは俺様のもんだったってことかよ。……だったら、なおさら死なせねぇ。あんたが最初から俺のものだったってんなら、勝手に終わらせることは許さねぇぞ。牛なんか屁でもねぇ」
玄奘は、その言葉に答えず、ただ涙を拭った。
しばらくの静寂の後、玄奘は、もう一度、その手のひらで悟空の頬に触れ、そして、白衣だけを纏い立ち上がる。
「さあ、もう時間よ。朝になったら、あなただけでも西へ急ぎなさい。きっと大丈夫。私がいなくても、道はわかっているはずでしょう?」
「……おいおい」
立ち去ろうとする玄奘の手首を、悟空の大きな手が、逃がさないと強く掴んだ。
「その前に、やることがあんだろうが」
その声は低く、野獣が獲物を囲い込むような執着を孕んでいた。 何十回もの旅で、一度も触れることができなかった、あるいはあえて触れなかった「女」としての玄奘。 そのすべてを今、自分の魂に焼き付ける。それが彼なりの、この残酷な円環への反逆だった。
「…………ばか」
玄奘は、泣き出しそうな顔で、力なく微笑んだ。 悟空の手が、彼女の手首から滑るように移動し、震える頬を包み込んだ。
窓から差し込む冷たい月光が、二人の影を一つの濃い闇に変える。 重なり合うほどに近い距離。玄奘の睫毛が震え、その瞳に映る悟空の金の瞳が、まるで燃えるような執着を放っている。二人の間にあるのは、もう「師弟」という欺瞞でも、「道具」という呪いでもない。
玄奘は、自分を包み込む男の熱を、その大きな手のひらの感触を、魂の奥底に刻み込もうとするかのように目を閉じた。吐息が混ざり合う。触れるか触れないかの距離で、二人の時間が止まった。
永遠に続くかと思われた沈黙。しかし、悟空がその手をそっと離したとき、夜の冷気が容赦なく二人の間に割り込んだ。
その冷たさが、彼女を再び非情な聖者へと引き戻す。玄奘は、なおも何かを言おうとする悟空の言葉を視線で封じると、一瞬の隙も与えず、その右手を彼の額にかざした。
「朝まで、私を追うな。動くな」
呪縛の力が悟空の自由を奪う。玄奘はそのまま部屋の出口へと歩き出した。敷居をまたぐ直前、振り向かずに、いつもの冷徹な口調で静かに言った。
「二度と私に会うな。私を見失え」
その声は、かすかに震えていた。
「さようなら、猿」
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