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第23話 / 全29話
私の瞳は、熱でどろりと溶け落ち、自らの脂が作り出した膜の向こう側で、世界は白濁していった。
その混濁した視界の最奥に、一匹の獣が降り立った。 悍ましく、懐かしく、そして何より愛おしい、その気配。
「……ご……くう……」
融解しゆく視界の端、私は確かに「彼」を見た。
彼は、「私」をまるで道端の泥でも見るかのように見下ろした。あんなにも愛し、あんなにも慈しんだ黄金の瞳には、見知らぬ残飯に対する純粋な忌避感だけが滲んでいる。
「不味そうな肉……」
その一言が、肉体が釜で焼かれるどの痛みよりも深く、私の魂を切り刻む。
―ああ、そうだった。これは、私が自ら望み、彼に強いた忘却の報い。彼の命を繋ぎ止めるために、私という存在を彼の記憶から焼き切ったのは、他ならぬ私の指先だ。 愛のために尊厳を捨て、毒を食らい、自ら釜の底へ沈むことを選んだ。
だけど…
救えなかった…
私がこれほどまでに無力になった果てに…
なおも運命は変わらないのか…
割れた釜の縁から見える景色は、最悪の再演だった。 彼が一歩を踏み出す。けれど、その力強いはずの拳は空を切り、牛魔王の圧倒的な質量が彼を容易く弾き飛ばした。
衝撃が玉座の間を震わせ、彼が石壁に深くめり込む。 私は、茹だる湯気の中から、白濁した視界を必死に凝らし、その惨劇を凝視し続けた。
牛魔王の蹄が、瓦礫の中で喘ぐ彼の頭を、ゆっくりと踏みつける。
「無駄だ、兄弟。お前の限界も、弱点も、すべてを私は知っている」
彼の口から漏れるのは、かつての天を震撼させた叫びではなく、命を搾り取られる獣の悲鳴。牛魔王の分厚い掌が彼の右腕を掴み、まるで枯れ枝を折るように、無造作に、逆方向へと捻り上げた。
メキリ、という生々しい破壊音が、私の脳髄に直接響く。
「どうした、天の犬! 吠えることも忘れたか!」
牛魔王は彼の頭を踏みつける蹄に力を込める。彼の眼窩から血が噴き出し、瞳が苦痛に白む。私の白濁した瞳と彼の赤く染まった瞳が重なった気がした。
私の心臓は、もはや自壊の律動を刻むのみ。 指を伸ばそうとしても、肉はすでに溶け落ち、露出した骨が熱に焼かれるだけだ。 彼を助けたい。彼をこの地獄から引きずり出したい。
「……もう……やめて……」
脳裏に、百の輪廻で繰り返された彼の死が重なる。 首を撥ねられ、身を裂かれ、私を庇って消し炭となった、幾千もの彼の死。 また、同じことが起きる。 私のせいで。私のこの「愛」という名の呪縛のせいで。
牛魔王が彼を掴み上げ、その巨体を空高く放り投げた。 落下する彼を、牛魔王の角が、心臓のすぐ横を貫き、壁へと縫い止める。
彼の叫びは、もう声にはならなかった。肺から絞り出される空気の音と、獣のような短い喘ぎ。その無惨な姿が、私の中でゆっくりと溶けていく。
― また、同じ。
何度繰り返しても、辿り着く先は同じ。彼は倒れ、世界は焼け、すべては灰になる。
私は、焦げ付いた胸の奥でそう思った。敗北の熱が、私の意識を泥のように遠ざけていく。そして、熱も、痛みも、音も、すべてが彼方へと消えた。
「もう……いいの。…いいの。……また、最初から……最初から……」
私の命の灯が落ち、世界は一度、完全な静寂へと沈んでいった。
突き破られた壁の裂け目から差し込む冷たい月光だけが、息絶えた私の亡骸と、泥を啜りながら地を這う彼を、無慈悲に照らし続けていた。
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