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第24話 / 全29話
痛みが、消えていく。
牛野郎の角に心臓の脇を深々と貫かれ、肋骨が粉々に砕け散っているはずなのに、傷口からはただ不吉なほど冷徹な感覚が伝わってくるだけだった。
代わりに、感覚を失いかけていた四肢の末端から、ドロドロと溶けた鉛のような熱が奔流となって駆け上る。動きを止めかけていた血潮が再び脈動し、生命の熱を帯びていく。
俺は知っている・・・この感覚を
『選びなさい。このまま静かに山の一部として死ぬか。それとも……この輪を嵌めて、私の“お猿さん”として地獄を歩くか』
不意に、記憶の底から、幼い女の声が鼓膜を揺らした。胸に爪を立て、自らの血に塗れた鉄の輪を引きずり出した、あのガキは誰だ。
牛野郎の巨大な角によって石壁へ縫い止められた胸元から、重く温かい血がだらりと伝い落ちる。
痛みはねえ、ただ、力が足りねえ…
『これを嵌めれば、あなたは再び歩ける。……私の声がある限り、あなたはあなたでいられる』
また、女の声だ。
大体なんだ、この頭の鉄輪は。
脳髄を焼き苛む忌々しい鉄の感触。 思考の濁流を遮るように、視界の端で血煙と灼熱の湯気を立てる瓦礫が大きく揺れた。
壊れ砕けた大釜の破片と、煮え立つ深紅の濁液が溝を伝う石畳の隅。そこに打ち捨てられていたのは、白磁の骨格と、湯気に爛れて形を失いかけた肉の残滓だった。
――その、溶けかかった女の瞳と、俺の目が合った。
だが次の瞬間、その瞳孔が弛緩し、光の届かぬ硝子玉のように光沢を失っていくのを、俺の金の瞳は克明に捉えた。
女の指先がわずかに痙攣し、顎が崩れ落ちる。 胸の奥で、かすかに続いていた微弱な生熱が、ぷつりと断ち切られた。
死んだ。 あの女が、今、完全に死んだのだ。
『……貴様のために生きていたあの女も……』
牛野郎の濁った声が、泥の底から響くように耳に届く。 その瞬間――
ふいに頭の輪が、締め付ける熱と力を失って、滑り落ちそうに微かに揺れた。
脳髄の奥で揺らぎ続けていた重い鉄の鼓動が、唐突に止まる。頭蓋を圧迫し、思考の輪郭を白く痺れさせていた猛烈な締め付けが、潮が引き下がるように消え去っていく。
その瞬間、貫かれた胸に激痛が走った。そして、激痛を凌駕する力が湧いてくる。
俺は、牛魔王の額を無雑作に蹴り飛ばし、胸に刺さっていた汚ねえ角を引き抜いた。肉が引き裂かれる粘ついた音。
「ぬ……? まだ息があるか、狂猿」
牛野郎は不審そうに、赤い瞳を苛立たせて俺を見下ろす。だが、その濁った声など耳には届かない。
誰だっけ、あの女は――。
記憶の深層から、溢れ出す言葉がある。
『……私が身代わりになるのは、あなたを生き永らえさせるため。あなたは私の大事な人。私はあなたのためだけに旅を続けてきた。あなたを失えば私の全てが意味を失う』
そうだ、あれは確か――
暗い部屋。 月明かりの下で、自ら衣を脱ぎ捨てたあの女の、白く震える肩。
『……私が身代わりになるのは、あなたを生き永らえさせるため。あなたは私の大事な人。私はあなたのためだけに旅を続けてきた。あなたを失えば私の全てが意味を失う』
「……あいつ、は……」
喉の奥から、乾いた血の塊がせり上がる。 牛野郎の巨躯が、大気を圧しながら再び踏み込んできた。心臓の脇に空いた大穴を塞ぐ間もなく、岩山のような剛拳が俺の顔面を捉え、側頭部の骨が鈍い悲鳴を上げる。俺は石壁へと叩きつけられ、頭の鬱陶しい輪っかがはじけ飛んだ。
「死に損ないが。その虚ろな首、今度こそ完全に叩き折ってくれる!」
牛野郎の太い腕が、俺の喉元を万力のように締め上げる。気管が潰れ、視界が赤黒く明滅した。 だが、その苦痛の奥で、さらに深い場所の記憶が、ひび割れた殻を突き破って溢れ出す。
泣いていた。 あの冷たかった女が、子供のように震える手を伸ばし、俺の胸板を撫で回しながら、涙を零していた。
『許して、あなた。私はもう、あなたを失うのが……耐えられないの』
――耐えられない? 誰が、誰を失うって?
「……ふざ、けんな……」
頭蓋の奥で、何かが激しく弾け飛んだ。 俺はまだ動く右腕を振り上げ、喉を絞める牛野郎の極太の腕を、内側から力任せに引き剥がした。筋肉と腱がきしり、皮膚が裂ける。
「玄奘!俺様の強さを知らねぇくせに、勝手なマネしやがって」
叫びとともに、右拳を牛魔王の顎先へ叩き込んだ。 牛野郎の巨躯がわずかに浮き、踏みとどまった石畳が同心円状に砕け散る。奴の口から濁った血と折れた牙が撒き散らされた。
「言っただろうが!俺様が牛野郎ごときに負ける訳がねえって!」
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