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第22話 / 全29話
煮え滾る濁液が玄奘の白磁の肢体を呑み込み、悍ましい白煙が玉座の間の天井を覆い尽くしていく。 骨肉が溶け、どろりと濁った深紅の海が、玄奘の美しかった輪郭をゆっくりと、しかし確実に殺ぎ落としていた。
その時、ふわりと、立ち昇る灼熱の湯気が、不自然に左右へと引き裂かれた。
「やっと来たか…」
牛魔王は、ポツリと呟いた。
気付けば、城の外を埋め尽くしていた数百の妖人たちの狂騒が、嘘のように消え失せている。
と、城の空間そのものが、巨大な目に見えない重圧によってひしゃげたかのような異様な振動。
瞬間、熱霧を切り裂いて放たれた一撃が、巨釜を真横から破砕した。
煮え立つ血の海が爆風とともに弾け飛び、凄まじい衝撃波だけで玉座の間を支える巨大な石柱群が、紙細工のごとく粉々に砕け散る。
降ってくる石屑と沸き立つ蒸気の中心で、しかし、空間を制圧したはずのその破壊の奔流が不自然なほどピタリと止まる。
牛魔王の巨大な掌が、押し込まれたそれの先端を正面から悠然と受け止めていた。
軋む擦過音。牛魔王の分厚い指が、赤黒く熱を帯びたそれの表面に食い込む。
「餓鬼共では盾にはならんか…五百年ぶりだな、兄弟」
牛魔王の低い声が、静寂の戻った玉座の間にゆったりと響く。
渦巻く白濁の霧がゆっくりと晴れていく。その深淵から、それの持ち主が、如意金箍棒を手にした一匹の獣、悟空が姿を現した。
焦げ付いた毛並みに牛魔王の手下どもの返り血と脂を浴びたその姿は、地獄の底から這い出した死神そのものだった。
「五百年ぶりで何だが、兄弟……お前を殺したくて仕方がねぇ」
牛魔王は手に残る衝撃を楽しむかのように微かに口角を上げると、如意金箍棒を緩やかに押し返した。
「殺したい、だと… 貴様がそれを口にするか」
牛魔王の声には、激昂すら超越した深い軽蔑と、愉悦を含んだ嘲弄が満ちていた。
「変わらぬな、斉天大聖。いや、猿。貴様はいつの世もそうだ。壊し、踏みにじり、他者の存在を身勝手に灼き尽しておきながら……自分だけは何も背負わず、澄ました面で立っている」
割れ弾けた巨釜の裂け目から、煮え立つ深紅の濁液が石畳の溝へとどろりと溢れ出す。その熱気と血の匂いが漂う中、悟空の額にはめられた金の輪――緊箍児が、主の深層の動揺に応じるかのように、一瞬だけ冷たく不気味な光を帯びて脈動した。
「……身勝手に焼き尽くしたぁ?」
如意金箍棒を握る悟空の指に、僅かに力が籠もる。だがその瞳に宿るのは反省でも揺らぎでもなく、ただ眼前の敵への苛立ちだけだ。
「あの村を真っ黒焦げにしたのはてめぇだろうが。女や子供をたらふく食ってきたお前がよく言うぜ。俺様を責めるその口で……自分が何をしてきたかってんだ」
「ふふ……同等だとでも言いたいのか、狂猿」
牛魔王は満足そうに顎を鳴らして笑った。
「我は、己が殺め、喰らい、踏みにじった者どもの悲鳴を何一つ忘れてはおらん。その絶望の味も、流した血の温もりも、すべてを己の血肉とし、抱え込んでおるのだ。……貴様のように、潰した虫の顔すら忘れ去り、胸の空洞ひとつで綺麗さっぱり澄ました面で立つ害獣とは、根本から違うのだよ」
「知らねぇな」
如意金箍棒の重みが、石畳に鈍い擦過音を刻む。悟空の声には、牛魔王が背負う業や悲劇への関心など微塵もない。
「お前がお前で、何を背負っていようが、俺様の知ったことかよ。俺様が覚えているのは、今、お前のその面が見苦しくてたまらねぇってことだけだ」
「見苦しい、か」
牛魔王の足元で、破砕された石柱の破片が熱気を吸って乾いた音を立てて爆ぜる。悟空の手元では、如意金箍棒の赤黒い光が周囲の血煙を吸い上げるように一際強く明滅し、緊箍児の冷酷な金属の輪郭が、彼の毛並みをじわじわと締め付けた。
「ふふ……笑わせてくれる。その無関心、その無我。怒りも、恨みも、反省すらもなく……ただ『不快だから殺す』。どこまで冷酷で、どこまで惨めな狂猿だ、貴様は」
牛魔王は太い指先で、瓦礫の傍ら、形を失いかけて横たわる玄奘の残滓をゆっくりと指し示した。
「見ろ。あの女も同じだ。貴様のために生きていたあの女も、貴様のその傲慢によって踏みにじられたのだ。自ら毒を食らい、灼熱の釜の底で肉を溶かしながら貴様を生かそうとした……その献身も、この猿には届かぬか」
「……そんな不味そうな肉くずに、用はねぇ」
「ほう。貴様の『師』だぞ。五行山から貴様を救い出し、慈悲を説いて聞かせたあの法師だ。少しは情が湧いたかと思っていたが……やはり貴様はただの畜生だな」
「俺様の胸の穴を苛んでんのはな……そんなゴミの戯言じゃねぇ。お前だ。お前が俺様の視界に入っていること自体が、反吐が出るほど気に入らねぇんだよ」
悟空の手元で、如意金箍棒が不気味に軋みを上げる。
「……哀れなものだな」
牛魔王は低く、心の底からの優越と蔑みを込めて言い放った。
「あの女もお前も、救いようがない。お前は自分が何をしたのかも知らず、誰に救われたのかも知らず、ただ胸の空洞に突き動かされて首を狩るだけの肉の機械だ。我を殺したところで、その穴が埋まることなど永遠にない」
「穴が埋まるかどうか、試してみりゃ分かることだ」
すれ違う二人の視線が激しく交錯する。空間を圧迫する二大妖の威圧により、崩れ残った巨大な石柱群に次々と亀裂が走り、巨釜から流れた血の湯気が二人の隙間をゆらゆらと覆い隠していく。
「来い、狂猿。貴様が我らに与えた業のすべてを、今度はこちらから与えてやろう」
「喚くなよ、牛。今からその首、一分の狂いもなく綺麗に削いでやる」
踏み出した足が、石畳を微塵の粉塵へと変える。 如意金箍棒が主の狂気に呼応して、脈打つ心臓のように赤黒い血の光を明滅させた。
それは、言葉による解明も、救いも存在しない、ただ嘲笑と冷酷な殺意だけが衝突する、無情な解体の儀式の始まりであった。
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