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第18話 / 全29話
その小さな命に初めて触れたとき、私の心骨はひどく怯え、竦んでいた。
私の掌は、山塊を砕くために設えられたかのようにあまりにも大きく、分厚く、歪な岩肌そのものであった。戦いと破壊の血を宿したこの怖ろしい手で、日向の綿のように小さく、温かく、あまりにも脆い生の塊に触れてしまえば――加減をひとつ誤るだけで、その儚い骨肉をあっけなく粉々に砕いてしまうのではないか。
「……触れても、よいのだろうか」
息を殺し、掠れた低音で問いかけると、薄い藁布の上に横たわる妻は、疲労にやつれた頬に柔らかい陰影を浮かべて微笑んだ。
「ええ。あなたのその大きくて強い手は、壊すためのものではありません。……私たちを、つつむためのものです」
妻の透き通るほど薄い手が、私の太い指を引き寄せ、あの子のまだ濡れた小さな頬へとそっと導いた。
ふわり、と。
指先に触れたのは、甘い母乳の匂いと、春の陽だまりを思わせる温かさ。私の親指の爪ほどもない小さな拳が、生にすがりつくように私の指をきゅっと握り返す。その爪先ほどの皮膚の奥から、トク、トクと伝える微弱で確かな脈動。それが私の胸の奥底に、生まれて初めて知る甘美な痛みを灯した。
――この小さく温かな熱を、永遠に守り抜く。
自分の持つ強大な力は、ただこのささやかな呼吸を守るためにこそ与えられたのだ――
と、私は暗闇の中で誓った。
だが、運命という名の顎は、あまりにも理不尽に開かれていた。
私たちが望んだのは、ただ互いの存在を慈しみ合うだけの、小さな凪の海であったというのに。
あの日。
静寂に包まれていた夜の空気が、突如として凍りつくような冷気へと変質した。
隣室から響いたのは、この世の悲鳴とは思えぬ、ひしゃげた肉の軋む音。妻の絶望的な慟哭。
私が木扉を壊して飛び込むと、そこには血の気を失い固直する妻と、薄布の上で狂ったように身悶えする「あの子」の姿があった。
「……なんだ、これは……ッ!」
白磁のように滑らかだったはずの小さな肌が、おびただしい数の濁った乳白色の水泡に覆い尽くされていた。それは皮膚の下で生き物のようにどくどくと不気味に脈打ち、急速に膨れ上がっては、あの子の華奢な身体を内側から引き裂こうと歪ませている。
「……ぎ、ぎ……ッ」
声にならない嗚咽。痛みと激しい熱に、小さな喉が引き攣る。
山を粉砕する我が腕力に、何の意味があったのか。五百の兵を薙ぎ払う力があろうと、この小さな命の皮膚を灼く微細な呪いひとつ、引き剥がすことができない。私の大きな手は、あの子の苦痛を撫でることすら叶わず、ただ虚空を空しく掻き毟るだけだった。
「……随分と、綺麗な子じゃねぇか」
不意に、背後から声が落ちた。
夜風の音に紛れるような、それでいて皮膚の裏側を撫で回すような、乾いた嘲笑。
「誰だ……!」
振り返ると、開け放たれた窓の框に、そいつが月を背にしてしゃがみ込んでいた。
ほつれた毛並みと獣のしなやかな肢体。だが、影の奥から覗く黄金色の双眸だけが、凍りついた狂気を宿して私を刺し貫いていた。
「……! よくもぬけぬけと、私の前に顔を出せたな」
過去の因縁が脳裏をかすめる。だが、そいつは私の殺気など意にも留めず、虚空を眺めながらあくび交じりに呟いた。
「どこかの誰かが、温けぇ粥を食って笑う。愛しいやつの手を握って安堵する。……そのたびに、そいつの肌は焼かれ、水泡が弾けて泣くんだろうよ。世界の『幸せ』ってやつは、そいつにとって地獄の業火なんだろうよ」
「お前の仕業か! 言え、この苦痛を消す術を知っているのか!」
私が吼えると、そいつは喉の奥でクツクツと低く嗤った。
「薬が欲しいか? ……だったら、他人の泣き叫ぶ声と、特大の『絶望』でも削り出して、たっぷり吸わせてやることだな。苦しみと血の匂いだけが、その泡を消す」
そいつはそれだけを吐き捨てると、月光の破片を残して夜の闇へと身を躍らせた。あとに残されたのは、甘ったるい獣の匂いと、硫黄のような不吉な焦げ臭さだけだった。
人々の絶望。苦痛。血。
その言葉は、猛毒の針となって私の脳髄に深く突き刺さった。
私は無言のまま立ち上がり、夜の暗濁へと飛び出した。頭上の月が、腐敗した臓物のように赤黒く爛れていた。
どれほど走ったろうか。気づけば、私は名も知らぬ村の、穏やかな灯りが漏れる民家の前に立っていた。
隙間から見えたのは、質素な夕餉を囲み、互いに微笑み合う温かな家族の姿。数刻前の、私たちと同じ光景。
私は迷わず扉を叩き割り、踏み込んだ。
哀願する男の顔。子供を庇い叫ぶ女の悲鳴。
私は一切の感情を殺し、ただ機械のように、その大きく分厚い手で男の喉笛を深々と引き裂いた。
ドロリと手首を伝う、生温かく鉄の臭う血。肉が千切れ、骨が砕ける生々しい感触。男の濁った瞳に、生の終わりを悟った極限の「絶望」が浮かび上がる。
――その瞬間。
見えない太い管を通し、男が吐き出した黒い絶望の雫が、遥か彼方のあの子の元へ流れ込んでいくのを、魂の深層でハッキリと感知した。
あの子の肌を苛んでいた水泡が、一つ、また一つと弾けて消えていく感触。
「……ああ……」
私の目から、熱い一滴の涙が零れ落ちた。
己の手を汚した罪悪感からではない。見知らぬ家族を惨殺した悔恨でもない。
あの子の激痛が和らいだという事実に対する、狂おしいほどの「安堵」。
他者の血と悲鳴に塗れながら、私は心の底から歓喜してしまったのだ。
「は……ははっ、ふふふ……ッ」
血に染まった己の両手を見つめ、私は暗闇の中で静かに笑った。
もう、あの温かな陽だまりの部屋には戻れない。他者の血で汚れたこの手で、二度とあの子の柔らかな頬に触れることは許されないのだ。 ならば――あの子のため、妻のため、私は世界を絶望で満たす化け物になろう。
角に呪いの紋様を刻み、他者の悲鳴を喰らい、恐怖でこの大地を埋め尽くそう。
愛する者の明日を紡ぐ対価が、世界の終わりなき悲劇であるというのならば。
私は喜んで、この修羅の玉座に座り続けよう。
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