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第26話 / 全29話
静寂が、灰のように降り積もっていた。
あれほど大気を震わせていた骨肉の軋みも、天を焦がした瘴気の唸りも、いまは瓦礫のすき間を抜けていく乾いた風の音にかき消されている。
切り立った岩山をくり抜いた牛魔王の城塞は半ば叩き折られ、砕け散った石畳の上には、夥しい妖血と折れた角の破片が泥のように広がっていた。
悟空は、肩を荒く波打たせたまま立ち尽くしていた。
貫かれた胸の傷口から、重い血がぽたぽたと落ち、足元の石屑を濡らしている。金剛不壊の肉体であっても、かつての義兄弟と命を削り合った代償は、骨の芯まで軋ませていた。
けれど、全身を焼く激痛など、どうでもよかった。
主であった女法師が息絶えたことで、五百年の間、力を縛りつけていた緊箍児の「抑制」は完全に解け落ちていた。解き放たれた力は、牛魔王を叩き潰してなお余りあるほどに荒れ狂った。
だが、敵の息の根を止め、返り血をどれほど浴びても、胸の奥で音を立てて砕け散ったものは何ひとつ戻らなかった。
あいつが、死んだ。
あの、小さくて生意気で、いつも冷たい目で俺を見下ろしていた小娘が、もうどこにもいない。
喉の奥が、焼けるように痛かった。
胸の奥を万力で握り潰されたような、息もできないほどの純粋な悲しみが、とめどなく溢れ出して止まらない。
どうして気づかなかったのか。
記憶を奪われ、胸にぽっかりと穴を開けられていた間も、俺があれほど狂おしく求めていたのは、ただあいつの姿だった。
悪態をつき合いながら歩いた埃っぽい荒野も、冷たく突き放された言葉も、雨の洞窟で触れ合えなかった熱も――そのすべてが、俺の命そのものだったのだ。
俺は、あいつを愛していた。
誰よりも愛おしく、この命をすべて差し出してもいいほどに、あの女を求めていたのだ。
それを、失ってから思い知るなんて、あまりにも惨めで、救いようがなかった。
「……おい」
掠れた声が、喉からこぼれた。
悟空は足を引きずり、砕け散った巨釜の残骸へと向かった。
割れた鉄の縁から溢れ出た、赤黒い澱みのただ中に、それは横たわっていた。
白い骨。熱湯と脂に爛れ、輪郭を失いかけた肉の残滓。
ほんの少し前まで、気丈に背筋を伸ばし、己の主として立っていた愛しい女の成れの果てだった。息吹きはなく、冷え切った残飯のように打ち捨てられている。
悟空は、その前へ崩れるように膝をついた。
泥と血に汚れた指先が、石畳の上に転がる冷たいものに触れる。
カラン、と、小さく澄んだ音が鳴った。
主の死によって頭から滑り落ち、血溜まりの中に沈んでいた鉄の輪――緊箍児。
触れた指先に、かつて自分を苛んだはずの脈動が、かすかに伝わってくる。生き物のように蠢く、冷徹で、おぞましい生の楔。
『これを嵌めれば、あなたは再び歩ける』
記憶の底から、あの五行山の泥濘で聞いた、幼い女の囁きが蘇る。
自由を奪う鎖だった。
けれど同時に――死にゆく命を、現世の縁に力づくで縫い留めるための、たったひとつの手立てでもあったのだ。
「頼む……ッ」
悟空は震える手で、赤黒く濡れた鉄輪を拾い上げた。
天をも砕くその腕が、触れるだけで崩れてしまいそうな残骸を前に、頼りなく震えていた。
「頼むから、目を覚ませ……! 俺を置いて、勝手に終わらせるな……!」
祈るように叫びながら、悟空はその輪を、形を失いかけた玄奘の頭蓋へと力任せに押し当てた。
けれど――何も起きない。
鉄の輪はただ冷たく、赤黒い血を滴らせたまま、沈黙を守っていた。
光も放たず、脈打つこともなく、ただの錆びた金属の塊として、崩れた骨の上に横たわっている。
「……おい?」
悟空の呼吸が、ひりつくように喉に張り付いた。
「おい、動けよ……! 生かすんだろ、おい……ッ!」
両手で輪を力任せに押しつける。骨が小さく軋む感触が掌に伝わるだけで、肉片の端ひとつ、持ち上がる気配など見せない。
ただ、瓦礫のすき間を抜ける風が、ひゅうと冷たい音を立てて吹き抜けていくだけだった。
熱を失った肉の残滓は、泥の冷気と同化し、刻一刻と完全な「無」へと沈んでいく。
嘘だろ。
そんなはずはない。五行山で俺を縛り、生へと引き戻したあの力はどこへ行った。
主が死んだからか。もう、この小娘の命の器が完全に砕けてしまったから、輪すら受け付けないというのか。
「頼むよ……」
掠れた声が、喉の奥から零れ落ちた。
斉天大聖の傲慢さも、天を呪った誇りも、何ひとつ残っていなかった。
ただ、目の前の小さな骸を失いたくないという一心だけで、悟空の金色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
泥と煤にまみれた頬を、熱い雫がとめどなく伝い落ちていく。
ぽた、ぽたと、その涙が玄奘の白く爛れた骨の上に落ち、冷えた灰を濡らした。
「頼むよ……頼むよ……玄奘……ッ! 目を開けてくれよ……! 俺が全部悪かったから……言うこと聞くからよぉ……ッ!」
子供のように顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくりながら、悟空は濡れた掌で、必死に鉄輪を押し当て続けた。
手のひらを切るほどに強く、懇願するように、祈るように。
冷たい骸に向かって、何度も、何度も、魂を削るような声ですがり続ける。
「頼むよ……お願いだから……っ、頼むよ……」
どれほど時間が過ぎただろうか。
永遠にも思える冷酷な静寂が、廃墟の空気を凍りつかせていた。
――トクン。
掌の下で、極めて微弱な、だが確かな鼓動が跳ねた。
その瞬間、鉄の輪から黄金の燐光がふわりと立ち上り、薄暗い廃墟の闇を淡く照らし出した。
光の粒子は細い糸のようにほどけ、宙を舞いながら、壊れ果てた肉の残滓をやさしく包み込んでいく。
飛び散っていた紅い雫が、時間を巻き戻す花弁のように光の中へと吸い寄せられ、砕けた白骨の輪郭を静かに覆った。
それは神仏の慈悲などではない。死者を無理やりに現世へと縫い留める、甘美で残酷な呪いの奇跡。
光の繭のなかで、透き通るような白磁の肌が音もなく滑らかに編み直され、艶やかな黒髪が夜露に濡れた絹のように零れ落ちる。
傷ひとつない、あまりにも無垢で清らかな娘の姿が、血まみれの瓦礫の上に、夢幻の花が咲くように浮かび上がった。
「……っ……ふ……」
細い喉の奥から、生まれたての吐息が微かにこぼれ落ちた。
春の雪解け水に触れたかのように、長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がる。
開かれた瞳は、夜明け前の湖のように澄み渡り、混濁の底から光を求めて静かに瞬いた。
ひんやりとした朝の空気が肺を満たし、白磁の胸が小さく波打つ。
ぼんやりと開かれた玄奘の視界を、最初に満たしたのは――すぐ真上に覆いかぶさる、見慣れた、泥だらけの顔だった。
額に置かれた熱い掌。
顔をくしゃくしゃに歪ませ、泥と煤にまみれた頬を涙で濡らしながら、信じられないものを見るように自分を見つめている、金色の瞳。
「……ご……くう……?」
掠れた声が、玄奘の唇からこぼれた。
頬を伝う涙の跡をそのままに、胸を赤く染め、痛々しい傷を負いながらも、確かに生きている彼が目の前にいた。
その温かい吐息が、玄奘の冷え切った顔に吹きかかってくる。
(生きている……悟空が、生きている……)
玄奘はかすかに首を傾げ、悟空の肩越しに、彼方の視界を捉えた。
吹き飛んだ城塞の天井から差し込む、白み始めた薄紫の空。
そして、悟空の背後の血溜まりの中に、無様に転がっていたのは―― へし折られた二本の太い角と、物言わぬ巨岩のように沈む、牛魔王の亡骸だった。
息が、止まる。
百を超える旅のなかで、一度として超えられなかった絶対の壁。
幾度となく自分たちを蹂躙し、絶望の底へと叩き落としてきたあの怪物が、いま、完全に息絶えて転がっている。
牛魔王の蹄に踏み砕かれた彼でもなく、灰になって消えた彼でもない。
目の前で、涙を流しながら自分を抱き起こそうとしている、温かい命そのものの悟空。
彼が、生きている。
死んでいない。自分のために、命を落とさずに済んだのだ。
「……うそ……」
玄奘の喉が震えた。
氷のように冷たかった顔が、見る間に崩れていく。百年の孤独と狂気を押し込めていた仮面が、内側から音を立てて砕け散った。
「……私たちは……終わらせたの……?」
その問いかけに、悟空は息を呑んだ。
金色の瞳を丸く見開き、本当にあいつが喋っているのだと確かめるように、震える指先で玄奘の頬に触れる。
生きている。温かい血が巡り始めている。
その事実を噛み締めた途端、悟空は顔を歪め、腕の甲で乱暴に涙と鼻水を拭った。
子供のように泣きじゃくっていた己の姿を誤魔化すように、奥歯を噛みしめ、掠れた声を絞り出す。
「……ばか野郎…………勝手に死にかけやがって……」
鼻をすすり、赤く腫らした目を逸らしながら、それでも悟空の手は、壊れ物を扱うようにそっと玄奘の肩を抱き起こした。
「おい、しっかりしろよ……生臭坊主……」
ぶっきらぼうに取り繕いながらも、安堵に震えているその声を聞いた瞬間――。
百年の孤独をせき止めていた水門が、内側から音もなく粉々に砕け散っていった。
玄奘はふらりと身を寄せると、吸い寄せられるように悟空の首筋へ細い腕を回した。
煤と血の匂いがする分厚い胸板に額を押し当て、ぎゅっと、骨がきしむほど強くすがりつく。
声は出なかった。
ただ、見開かれた瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出していく。
ぽろぽろと、熱い雫が際限もなくこぼれ落ち、悟空の焦げた毛並みと傷口を濡らし、泥を溶かして胸板を伝い落ちていく。
百を超える地獄。
目の前でこの男が頭を踏み砕かれ、首を刎ねられ、自分を庇って消し炭になっていった、おびただしい数の死。
そのすべてから、いま、本当に解放されたのだ。
百を超える地獄を歩き直して、ついに運命の首を折り、この男の命を取り返したのだ。
細い肩を小さく、小刻みに震わせながら、玄奘は子供のように、ただただ声のない涙を流し続けた。
彼の胸から伝わる力強い鼓動。熱い呼気。生きている証そのものの熱が、額を通して冷え切った魂へと染み渡るたび、抑えきれない涙が零れ、彼の胸を濡らし尽くしていく。
「……おい、泣くなよ……」
悟空が戸惑ったように呟き、不器用な手つきで玄奘の華奢な背中に触れた。
その温かい手のひらの重みを感じた瞬間、玄奘は悟空の首筋に額を擦りつけ、濡れた肌に熱い吐息を染み込ませながら――静かに、壊れた鈴のように小さく笑った。
「……ふふ。……ばか」
囁くような、あまりにも掠れた声だった。
泣き濡れた唇からこぼれ出たその声は、熱病に冒されたように滑らかで、静かだった。叫び立てるよりもずっと狂おしい熱を孕んで、耳元へ滑り込んでいく。
「悪かったことばかりじゃ……なかったのよ、悟空」
「あぁ? 何言ってやがる――」
「そうよ……。あなたと、何度も、何度も、終わりのない地獄を歩き直すことは……決して、絶望だけじゃなかった……」
玄奘の細い指先が、悟空の背中の毛並みを確かめるように、愛おしそうに撫でていく。
「あの旅のとき、あなたが荒野の隅に咲いた不格好な紫の花を、照れ隠しに投げてくれたこと……。私が俯いただけで、『今日は機嫌がいいな』って、バカみたいに笑ってくれたこと……」
涙に濡れた長い睫毛を伏せ、玄奘は悟空の胸の温もりを貪るように頬をすり寄せた。
「覚えていなくてもいい。知らなくてもいいの。
……でもね、あなただけが、この狂った世界でたった一人だけ、三蔵法師じゃない、陳褘っていうただの女を見つめてくれた……」
悟空の喉仏が、トクン、と跳ねた。
先ほどまで胸を焦がしていた痛烈な悲しみが、彼女の囁く微熱と重なり合い、乾いた大地に染み込む水のように深く沁み渡っていく。
「世界が赤く燃えて、すべてが灰になる最期の瞬間……あなたはいつも、私の上に覆いかぶさってくれた。 骨が砕けて、肉が蒸発していくのに……その金色の瞳で『大丈夫だ』って笑って……私を庇って死んでいった……」
玄奘は顔を上げず、悟空の首筋に頬をすり寄せた。
「そんな人の……そんな愛しい人のものになりたいと願わない女が、この世にいると思うの?
私はね、悟空……何百回繰り返したって、最初からずっと、あなたのものだったのよ……」
熱に浮かされた、密やかな告白。 それは高徳な法師の言葉ではない。ただ一人の男への執着と愛に魂を灼かれた女の囁きだった。 呪いの輪廻を断ち切った。これからは、冷酷な主を演じる必要もない。ただの女として、この熱い胸の中で生きていける――その無防備な歓喜が、彼女の全身を震わせていた。
悟空は深く息を呑み、胸の奥から突き上げる愛おしさに従うように、両腕に力を込めた。
玄奘の折れそうな身体を、壊してしまうほどの力で抱きしめ返す。
「……バカ。最初からそう言やぁいいんだよ」
焦げた吐息が、玄奘の濡れた耳元を熱く撫でた。
悟空の分厚く大きな手のひらが、玄奘の細い背中を包み込み、引き寄せる。指先が濡れた黒髪に埋もれ、後頭部をやさしく、だが二度と手放さないと誓うような狂おしい力で抱き留めた。
荒野の砂塵と返り血にまみれた獣の腕のなかで、玄奘の華奢な骨組みがきしむ。けれどその痛みさえ、凍りついていた心臓に血を通わせる至高の悦びだった。
「悟空……」
名前を呼ぶ唇が震え、吐息が悟空の鎖骨の窪みに落ちる。
雨の洞窟で触れ合うことすら拒み合い、冷たい泥壁の家で幾度も失い続けた、あの焦がれるような「生」の熱。
いま、互いの肌を隔てる布地は何ひとつない。
煤けた獣の剛健な胸板に、滑らかで無垢な白磁の乳房が押し当てられ、二つの心臓の鼓動が重なり合ってひとつの激しいリズムを刻み始める。
トクン、トクンと、互いの肋骨を伝って響き合う命の音。
悟空は胸に顔を埋める玄奘の顎を、泥と血に汚れた太い指先でそっとすくい上げた。
「……俺を見ろよ」
掠れた低音が、二人の隙間の空気を震わせる。
涙で光る夜明けの湖のような瞳が、金色の獣の光彩と真正面から溶け合った。
そこには、主と下僕の冷酷な境界も、法師と化け物という偽りの掟も、何ひとつ残っていなかった。
ただ、世界に二人きり取り残された、傷だらけの雄と雌。
互いの存在だけを唯一の救いとして求め合う、剥き出しの魂の飢えがそこにあった。
「誰が死なせるかよ……。俺のもんだろ、あんたは」
不器用に吐き出された熱い誓いとともに、悟空の顔が影を落とした。
触れ合ったのは、吐息の温度。
そして、泥と血の匂いが混じり合うなかで、驚くほど柔らかく、切なく重なり合った――二人の唇だった。
「……ん……っ……」
玄奘の喉から、甘く掠れた吐息が零れ落ちる。
ひび割れた悟空の唇が、生まれたての無垢な花弁のような玄奘の唇を、貪るように、慈しむように塞いだ。
荒々しい獣の熱情と、幼い娘を壊さぬよう細心の注意を払う不器用な愛撫。
舌先に滲む鉄錆の苦みさえ、互いが生きているという甘美な毒となって全身の血管へと駆け巡っていく。
玄奘は首筋に回した細い腕にさらに力を込め、悟空の引き締まった首筋に爪を立てた。もっと、もっと深く自分を灼いてほしいと願うように、全身の力を抜いて男の剛躯へと預け切る。
冷え切っていた白磁の肌に、悟空の燃えるような体温がじわじわと染み渡り、桜色の熱が指先まで満ちていく。
百年のあいだ、凍りついた氷塊の奥に閉じ込めてきた「陳褘」という女のすべてが、この男の腕の中で音を立てて融解していく。
呪いを祓った。
これからは、毎朝訪れていたあの冷たい手毬の絶望へ戻ることもない。
この熱い胸の中で眠り、この不器用な声で起こされ、埃っぽい荒野の果てまで二人きりで歩いていけるのだ。
二つの体温が、血と泥の境界を越えて溶け合っていく。
救済と、自由と、愛が、いま確かに結ばれた――
――カチリ。 抱擁のさなか、玄奘の頭の奥で、小さく、冷たい音が鳴った。
冷たい。
悟空の放つ火のような熱気のただ中で、自分の額だけが、氷の刃を突き立てられたように冷え切っている。
(……え……?)
玄奘は震える指先を持ち上げ、自らの額へと這わせた。
指に触れたのは、滑らかな皮膚ではない。
無機質で、冷酷で、皮膚の下の骨へと食い込んでいる――鉄の輪。
玄奘の額に、しっかりと嵌め込まれた、黄金の輪。
息が、止まった。
玄奘は弾かれたように、自らの首に腕を回す悟空の頭へ、震える手を伸ばした。
毛並みを掻き分ける。
そこにあるはずの、あの冷たい感触がない。
――彼の頭に、輪が、ない。
「……あ……」
声にならぬ息が、玄奘の唇からこぼれた。
緊箍児がない。
悟空を縛り――彼の肉体を「生」へと繋ぎ止めていた唯一の命綱が、彼の頭から消えている。
抱きしめてくる彼の腕は、いまも狂おしいほどに熱い。命の脈動に満ちている。
けれど、玄奘の脳裏に、あの日――血と泥濘の地獄の底で、満身創痍の彼にこの鉄輪を嵌めたときの記憶が、冷ややかに蘇った。
死にかけていた獣の肉体を、黄金の呪力で無理やりに縫い留め、生を生かしていた唯一の楔。
それが、いま――自分の額を冷たく締めつけている。
彼の胸板の熱の奥に、玄奘は視てしまった。
やがて訪れる、永遠の沈黙。
あの輪を手放した彼が、これからどこへ還っていくのかを。
そして、彼の命の楔を奪って生き返った自分が、その果てにどうなるのかを。
言葉にする必要などなかった。 初めから、未来など……
「……玄奘? どうした」
悟空が、怪訝そうに金色の瞳を瞬かせた。
その瞳は、混じりけのない光を宿し、愛おしそうに玄奘の顔を覗き込んでいる。
「おい、顔色が紙みてぇだぞ。まだ痛むのか?」
不器用に顔を覗き込んでくる、愛しい男。 自分を救うために、命を捨てて鉄輪を嵌めてくれた、愚かで、愛おしい、私の猿。
「……ううん」
玄奘は、泣き笑いのような、美しく壊れた笑みを口元に浮かべた。
瞳から溢れる涙を拭おうともせず、彼女は再び、いまはまだ温かい悟空の首筋へと、細い腕をそっと回した。
「なんでもないわ、悟空。……どこも、痛くない」
「あ? ならいいがよ。……ったく、人騒がせな生臭坊主だぜ」
悟空はほっと息を吐き、温かい掌で玄奘の背中をぽんと叩いた。
その胸から伝わる力強い鼓動を、玄奘は自らの肌に焼き付けるように、強く、強く抱きしめた。
東の地平線が、ゆっくりと白んでいく。
玄奘は、愛しい男の胸に額を押し当て、静かに目を閉じた。 額の鉄輪が、トクン、と、秒針を刻むように冷たく脈打った。
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