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第1話 / 全11話
夕方。
梅雨の晴れ間は湿度がクソ高い。
駅から10分。
やっとアパートにたどり着き、錆びた外階段が俺を迎えてくれる。
手すりの子柱は根元が崩れ、一段目に足を掛けると不安定に揺れる。
日に日に侵食してゆく赤錆と、溶接部の物理的な限界。
その対立の演算に、俺の脳はドーパミンを溢れさせる。
俺の脳は、帰宅と奇跡の区別ができないほど劣化している。
気づけば、この家で夕日を見たのは3年前が最後だった。
我ながら量産型で無個性な愚痴だと反省。
汗が滲む量産品のスーツで階段を上がる。
網膜に差し込むオレンジ色の余韻。
それが不意に始まった振動により切断される。
錆びた階段の上、その先で閉まるドアの音。
鉄の通路を叩く振動が、徐々に大きくなる。
肺が震え、振動を感じ始める。
その振動源を人間だと仮定すると、極めて軽い。
俺の心拍数と体温が上がり、頬を汗がつたう。
角から現れたのは、セーラー服の小柄な女子生徒。
色素の薄い髪が夕日に透ける。
それは、肩で少し雑に切り揃えられ風に揺れる。
重い前髪が顔と表情を隠す。
強い夕日でオレンジに縁取られ、空間から浮き上がる黒いセーラー。
反射光で網膜に高負荷をかける皺のない白地という凶器。
黒いソックスとローファーの境界を消し去るモノクロームの連続性。
弱者どころか、中央値ですら拒絶される有名私立の証たる暴力。
半袖から伸びる細く白い腕。
シンメトリーな目鼻立ち。
俺の脳は眼球がジンバルロックしないよう必死に、視線を逸らす。
彼女の表情は分析すら許してもらえないほどに、完璧に固定されている。
少女と目が合う。
軽く会釈。
「こんにちは」
少女は無言で、少し深い会釈を返してくれる。
すれ違う彼女が発するのは異質さ。
背筋が冷たく凍りつく。
甘いシャンプーの匂いが鼻腔を抜ける。
その猛毒は、俺の脳を侵食し時間という概念を破壊する。
階段を上がり終え、角を曲がる。
アスファルトを歩いてゆく少女の後ろ姿が目に入る。
癖のない真っ直ぐな髪の毛が夕日に照らされ輝く。
西日の暑さと疲労のせいだろう、俺の目はそれを天使の輪と認識した。
遺伝子も異常をきたしているのだろう。
帰宅。
部屋のドアを閉め、鍵をかける。
玄関の鏡に男の姿が映る。
羊蹄山太陽。
明日から無職になる男の名前。
たった今、永遠の夏休みが始まった。
まずは、やることを決める。
人生の半分が封じられていた仕事用スマホは奪われた。
もう半分、プライベート用も画面は漆黒。
充電しても反応がない。
起動は永遠に拒絶されてしまった。
忙しさで、故障にすら気づけなかった。
帰りに買い直した新しいスマホは、テーブルに鎮座しライトを反射している。
鎮座しているだけ。残業の日々が、俺の脳内からパスワードを消し去っていた。
自分のアカウントにすらログインができない。
誰の連絡先もわからない……。
完璧すぎるシステムというのは、小さなトラブルに弱い。
問題は、なかった。
この数年、休日という概念は無く、旧友との親交も消滅していた。
脳内を検索しても、出てくるのは死んだ両親の名前のみ。
俺は、この社会と呼ばれている、繋がりと監視の牢獄から無事に解放された。
マジでやることがない。
暇という新たな牢獄での働き方がわからない。
放り投げたジャケットは壁に当たり床に着地する。
投げ出した手足からは床の冷たさが伝わる。
シミのある天井に視点を固定する。
やり残したままの仕事を脳内から消去。
屋根のトタンを叩く雨音が始まる。
窓から冷気が流れ込んでくる。
---
脳の再起動が終わる。
雨は上がり、夕日は半月に変わっていた。
夏とはいえ、梅雨の夜は空気が少し冷たい。
窓を閉めようと手を伸ばすと……
外から空気を切り裂く小さな風切り音。
壁面を伝う重い低音。
少し遅れて、物体が床に落ちる振動。
隣の部屋、壁の向こう。
その振動は、人が倒れた以外の推測を許さない。
夕暮れの中で見た、感情が固定された彼女の顔。
それが脳の中で増殖する。
考えるよりも先に、足が動く。
俺は、部屋のドアを開け放っていた。
手はすでに、隣の部屋のドアノブにかかっている。
冷たい。
その冷たさが、思考をリセットしてくれた。
まずはインターホン。
今のままでは、不審者でしかない。
あの色素の薄い瞳に冷たく刺されたら、その痛みで、俺は二度と再起動できない。
インターホンを鳴らす。
すぐにドアが開く。
そこには、いつも通りの整った彼女の顔とセーラー服。
部屋の空気が鼻に流れる。
彼女の甘い匂いとマッチを擦ったような焦げた匂い。
蚊取り線香の季節。
火の不始末で焦って尻もちでもついたのだろう。
その可能性しかない。
俺は、余計なことを言わないように言葉を選ぶ。
「いや、失礼。大きな音がしたので、何かあったのかと思い……」
彼女の瞳が俺を捉える。
手に持っていたフライパンで、暗い部屋の中を指す。
その先に、倒れている女性。
推定できる人物は、彼女の母親。
漂う独特の匂いと微かな煙。
俺の脳が警報を鳴らし、身体が勝手に動く。急いで玄関に入りドアを閉める。
首筋に大量の汗が流れ始めている。
彼女は、フライパンでその肉塊を指してはいない。
その手に握られていたのは、重たい金属を高強度ポリマーフレームで包み込んだ漆黒の物体。
サプレッサーを装備したグロック19。自動拳銃。
俺の劣化した脳は、彼女の細い小さな手に不釣り合いなそれを、拳銃と認識できていなかった。
消去したばかり、半日前までの職能を強制的に再起動する。
漂う匂いの正体は硝煙。
彼女の髪から漂った甘い匂いとは正反対の物質。
スマホは手元にはない。
どのみち買ったばかりで、操作方法はわからない。
110番はできない。
グロック19は9mm弾。
当たりどころが良ければ救命の可能性はある。
倒れているその肉塊に視線を向ける。
俺の視界の隅で彼女の小さな口が開く。
「心肺停止を確認」
それは、成人の声ではなかった。
細い声帯が生み出す、高周波が空気を震わせている。
俺の想定年齢とはマッチしない音。
脳内で彼女の設定が書き換わる。
高校生ではない?
今は、小学生にも大学生にも見える。
交番勤務時代に補導した、少年少女たちと照合。
職質をした女子大生とも照合。
一致しない。
背中が熱い。肩が熱い。
アドレナリンが血液によって運ばれ、身体を駆け抜けるのがわかる。
五感というセンサーが仕事モードになり脳が状況把握を緊急指令する。
指先が冷たくなっていくのがわかる。
まずは、心肺停止の意味を探る。
次の瞬間、壁にこびりついた肉片が一瞬だけ照らされた。
彼女は、拳銃に付属していたフラッシュライトを点灯させ、すぐに消した。
ちょうど頭の高さに肉片がこびりついている。
肉塊の身長と壁の血痕の高さをあわせる。
確実に脳幹が撃ち抜かれている。
救命は不可能。
殺人事件の現場と断定し、一気に呼吸が苦しくなる。
俺は数時間前に仕事を辞めたはずだ。
暗い部屋の奥に視線を送り、犯人を探す。
部屋は整っているどころか、極めて綺麗に整理されている。
この部屋には彼女しかいない。
彼女は部屋の照明を消している。
フラッシュライトも一瞬しか点灯させなかった。
まだ対立している存在がいる。
間違いなくそれが犯人。
彼女の瞳が俺を捉え続ける。
どうすべきか。いや、俺は何をすべきか。
まずは……
「母ではない」
俺が質問する前に、いや、質問を考えるよりも前に答えが返ってきた。
背中に汗が流れる。
さっきから、彼女は俺が質問する前に答えを返している。
それも極めて的確な内容で。
心拍数が際限なく上がってゆく。
今朝、後任に引き渡した資料。
連続射殺事件。
今年の1月から3月までの間に10人を殺害。
俺は、犯人を死刑台に送ると決意していた。
使用された拳銃の弾は、9mmパラベラム弾。
サプレッサーが使われた痕跡。
犯人の身長は150cm弱。
この床に転がる肉塊の全長は160cm以上。
彼女の身長は145cm前後。
彼女の瞳が視界に入る。
観察されている。
俺の眼球も、彼女の視線と手にある銃の動きを追い続ける。
目の前にいるのは小柄な少女。
腕も細い。
あの腕の筋力でトリガーを引いたら指先が震える。
彼女の体重では、射撃の反動を抑えるのも困難。
排莢不良になる可能性がある。
射撃は不可能。犯人ではない。
息を吐き、彼女の銃を見る。
銃を持つ人差し指が引き金にかかっていない。
指をフレームに置く安全姿勢、射撃の基本ができている。
射撃の基本知識を持つ彼女を前に、身動きが取れない。
緊張は、小さなかすれた音で途切れた。
「もう、刑事じゃない……」
彼女のつぶやきに、心臓が止まり呼吸ができなくなった。
その結論に至る論理を追えない。
俺の何を見てその分析にたどり着いたのか、理解できない。
彼女の瞳は、俺を捉え続けた。
拳銃の部品が小さな音を立てる。
彼女の細い手と薄い肩が小刻みに震える。
肌から赤みが消える。
彼女の顔が凍りついている。
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