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第1章 捨てられた聖女 / 第1話
タンベルン国に帰ることは許されない。聖女として振る舞うこともできなくなってしまった。隣国の国境の町にトランクを持って佇み、呆然とする。
人々は忙しなく働き、私なんか見えていないようだ。見知らぬ男性がすれ違いざまに肩へとぶつかった。
「痛っ……!」
“邪魔だな……”
勢いでトランクは手から離れ、大きな音を立てて落下する。拾おうとしゃがみ込むと、今度は子供が尻にぶつかってきた。
「うわあぁん!」
“痛いよぉ!”
その子は大声を上げて泣き叫ぶ。すると、母親と思しき人が目を吊り上げて私を見た。
「こんなところで突っ立っているなんて迷惑です! 行くところがないなら、端にどいて!」
“この子に怪我をさせたら許さないんだから!”
ここにいては、私の心が壊れてしまう。恐怖と危機感を覚え、足取りは速くなる。
私には他人の心の声が聞きたくなくても勝手に入ってきてしまう。一度でいいから普通の人になってみたい。そう思わなかった日はない。
そんな私に最初に手を差し伸べてくれたのは、六歳ほどの男の子だった。私はまだ知らなかった。この出会いが私を『想刻師』へと導いてくれることに。
このままでは野垂れ死んでしまう。喉が渇いて視界が揺れている。見かけた屋台には『十分後に戻ります』と札が立てかけてあった。無意識のうちにトロピカルジュースに手を伸ばし、ストローで吸い上げる。
ああ、なんて甘くて美味しいのだろう。疲れた身体に染み入るようだ。
“泥棒……?”
誰かの心の声が聞こえる。まずい、見られただろうか。汗を握る手で重たいトランクを持ち上げ、片手でトロピカルジュースを持ち、逃げ道を探す。
その時に、円らな空色の瞳と目が合った。
“でも、理由があるのかな……”
間が開き、小さな口はもごもごと動く。
「お姉ちゃん、困ってるの?」
この声は、先ほど『泥棒』と私を告発した声と同じだった。金髪の男の子に身構え、大きく瞬きをする。
「行くところも、食べるものもないんです」
首を横に振ると、男の子はじっと私を見た。
“泥棒だけど……お姉ちゃん、すごく困ってる……”
その声に思わず息を呑む。
「お姉ちゃん、ぼくの家にくる?」
「えっ?」
“ルーナスを見せて、自慢しよう!”
何か下心があるらしい。ついて行ってもいいのか迷いはある。しかし、他に選択肢は見当たらなかった。
「いいんですか?」
「もちろん!」
“お姉ちゃんのジュース代、払わなくちゃ”
男の子はおもむろに懐を弄り、財布を取り出す。
「これ、お代です」
誰もいない屋台に呟き、トロピカルジュースが置いてあった場所に小銭を乗せた。その代金は不足している。大丈夫だろうか。男の子は何度か頷き、にこっと微笑むので、言い出すのも躊躇われてしまった。なんて可愛らしいのだろう。さぞや立派な親が育てているのだろう。
「お姉ちゃん、ついてきてー」
「はい」
男の子が満面の笑みで言うので、素直に従うことにした。
私は表情筋がなくなってしまったのか、笑おうとしても顔が引きつってしまう。それならいっそ、笑うのはやめようと諦めてしまったのだ。
「君のお名前は?」
「ぼくはオーレだよ」
“振り向いたら、人とぶつかっちゃう”
こちらを見ずに淡々と歩くオーレの心の声から、必死さが伝わってくる。久しぶりに普通の人として扱われた。心がほんのりと温かくなり、恐怖もどこかへ消えていた。
大通りを抜け、裏道に入り、さらに進んでいく。このままでは町を抜けるのではないだろうか。その私の予想は当たっていた。
人の波を抜け、小麦の農業地帯へと出る。もう、そこには馬車から降りる行商人の姿しかなかった。
右手には森が広がっている。オーレはその獣道になんの躊躇いもなく足を踏み入れた。遠くからは鳥の鳴き声が聞こえ、ところどころ木漏れ日が差している。
「こんなところに、誰か住んでるんですか?」
「うん。もうちょっと行ったところに家があるよー」
よほどの偏屈か、人嫌いか――そうでなければ、町中に住んでいるだろう。不安が顔を覗かせながらも、オーレの後を歩く。
すると、間もなく小屋らしきものが見えてきた。ログハウスのようで、可愛らしい建物だ。
「ルーナス! いるー?」
オーレは声を上げ、ドアへと走っていく。ちょっと間を開け、それを眺めていた。
“なんでいないのー? こんな大事な時にー!”
心の声までもが盛大に響く。どうやら家主は留守らしい。服の裾をオーレが引っ張った。
「ルーナス、木こりに行っちゃったみたい。中で待っててー」
「いいんですか?」
「いいから連れてきたのー」
オーレはぷくっと頬を膨らませる。なんと言っても、まだ少年だ。可愛らしい仕草をする子だ。
「ありがとう。じゃあ、待たせてもらいますね」
「うん!」
オーレに服を引っ張られながら、恐る恐る入り口をくぐる。家の中は生活感が溢れており、若干、ゴミも散らかっている。
どこに座ればいいだろう。悪いと思いながらも部屋の中を眺めていると、片隅に妙なものを見つけたのだ。小さな木片と木屑――なんとなく近付き、それを見下ろした。
“ルーナスがこの町の英雄だって、いつ言おうかな”
英雄という聞きなれない言葉に、首を傾げる。
しかし、尋ねてはいけない。心の声が聞こえるなんて、他人にとっては恐怖でしかないだろう。声を遮断する術もないのだ。
こんな能力なんて、消えてなくなってしまえば良いのに。今一度、彫刻に視線を落とす。
これは、人物の彫刻だろうか。顔が出来上がり、目だけが入っていない。ノミも傍らに転がっている。
彫刻があまりにも温かくも繊細な笑みを湛えているので、しばらく目を奪われていた。
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