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第12話 / 全15話
王宮へ続く坂道は、車両で埋まっていた。
黒塗りの王宮車両が速度を落とすたび、窓の外から怒鳴り声が流れ込んでくる。
上層街の道は、下層街とは違って広い。石畳は白く整えられ、街路樹には青白い魂魄灯が均等に吊られている。道の端には装飾用の小型噴水があり、赤潮が去ったあとだというのに、水面にはまだ淡い光が揺れていた。
灯りは消えていない。
噴水も動いている。
割れた配管から黒い水が漏れ、魂魄ランタンが半分以上落ちていた下層街とは、まるで別の街だった。
レイは窓の外を見た。
「あっちは、灯りがついてるんだな」
隣に座るアビスは答えなかった。
答えられないのだと、レイにも分かった。
車両の前方では、貴族らしき男が兵士の胸倉を掴んでいた。外套は高価そうなのに、裾は泥で汚れ、顔は汗と恐怖で歪んでいる。
「私はロワジール伯爵である! 門を開けろ!」
「命令です。どなたもお通しできません」
「ならば王へ取り次げ!」
「陛下の命令でございます!」
別の女が泣き叫んでいる。
「子供がいるのよ! 中へ入れて! 王宮なら安全なのでしょう!?」
兵士たちは槍を構えているが、突き出せない。
相手は下層街の暴徒ではない。
つい昨日まで、兵士たちが頭を下げていた人間たちだ。殴ることも、蹴散らすことも、鎖で縛ることもできない。
だが、門を開ければ王命に背く。
門前は、命令と悲鳴と身分の押し合いで潰れかけていた。
「こっちは、ずいぶん賑やかだな」
レイが言う。
「上層の者は、逃げる場所を知らない」
「今まで逃げなくてよかったからか」
「そうだ」
「はっ、いいご身分だな」
アビスはやはり答えなかった。
車両が門へ近づく。
王宮の紋章を見た兵士が顔色を変え、周囲に叫んだ。
「第一王子殿下の車両だ! 道を開けろ!」
「殿下!?」
「アビサリウス殿下だ!」
押し寄せていた貴族たちの視線が、一斉に車両へ向く。
誰かが叫んだ。
「殿下! 我々を中へ!」
「王家は民を守る義務があるでしょう!」
「下層の連中とは違うのです!」
レイの拳が膝の上で固くなる。
アビスは窓の外を見なかった。
車両が止まり、護衛兵が扉を開ける。
アビスが先に降りた。
その瞬間、兵士たちが頭を下げる。
「殿下、ご無事で何よりです」
「門を開けろ」
「はっ。しかし、その……」
兵士の目が、レイへ向いた。
煤と血に汚れた下層街の少年。
黒灰色の防護外套。
王宮の門をくぐるには、あまりに場違いな姿だった。
「その者は」
「私の同行者だ」
「下層街の者を、王宮内へ入れるわけには……」
アビスは兵士を見た。
「今、門前の混乱を処理できているのか」
兵士は言葉に詰まった。
背後では、貴族の男が別の兵士を怒鳴りつけている。女の悲鳴。子供の泣き声。閉じた門を叩く音。
アビスは短く言った。
「ならば、私の命令を優先しろ」
「……はっ」
門が開く。
重い白金の扉が軋み、王宮の内側が見えた。
レイはアビスの横を歩く。
「便利だな、王子様ってのは」
「今だけだ」
「皮肉だよ」
「分かっている」
言い返したくなった。
けれど、レイは口を閉じた。
喧嘩しないで。
リサの声が、まだ耳の奥にあった。
王宮の中は、白かった。
床も、柱も、壁も、天井まで白い石で造られている。その白を、青白い魂魄灯が冷たく照らしていた。下層街の灯りと同じ魂で燃えているはずなのに、ここでは煙も煤も見えない。
綺麗だった。
だから、余計に腹が立った。
廊下には人が溢れていた。
侍従が走り、近衛が命令を求め、技官らしき男たちが記録板を抱えて怒鳴り合っている。避難を許されたらしい貴族が壁際で震え、別の貴族が使用人に水を持ってこいと喚いていた。
誰も全体を見ていない。
誰も、自分のこと以外を見ていない。
「王宮って、もっと静かなもんだと思ってた」
「普段はそうだ」
「今は?」
「誰も、こういう時の動き方を知らない」
「スラムに押しつけてきたから?」
アビスは少しだけ足を止めた。
それから、歩き出す。
「そうだ」
その答えは、言い訳ではなかった。
ただの事実だった。
二人は王宮の奥へ進んだ。
白い廊下が途切れるにつれ、床の色が変わっていく。磨かれた石から、黒い魔導合金へ。壁の中を太い魂魄管が走り、青白い光が脈打つように流れていた。
遠くで、低い唸りが聞こえる。
大魂魄炉の音。
レイは足を止めた。
壁の奥を、小さな魚たちが後ろ向きに流れている。
泳いでいるのではなく、引かれていた。
その流れのずっと先に、淡く弱い光があった。
「近い」
アビスが振り返る。
「リサか」
「ああ」
「まだ間に合うか」
「分からない」
「なら急ぐ」
二人は走り出した。
地下へ降りる階段の前には近衛がいたが、アビスの認証板を見るとすぐに道を開けた。普段なら手続きが必要なのだろう。だが、今は確認する技官も、命令を待つ上官もいない。
王宮は、強固な砦ではなかった。
強固に見えるよう飾られた、脆い箱だった。
外殻制御区画の扉の前で、アビスは手をかざした。
認証盤が青く光る。
「第一王子アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウス。外殻制御区画、開扉」
扉が開いた。
内部は、熱を持っていた。
火の熱ではない。
圧縮された魂魄が、逃げ場を失って膨らんでいるような熱だった。壁に埋め込まれた監視盤が赤く点滅している。警告音は鳴っていない。誰かが止めたのか、壊れたのか、分からない。
技官はいなかった。
床には倒れた記録板が一枚落ちている。
レイは区画の中央へ進んだ。
数値は読めない。
機械の意味も分からない。
けれど、魂の流れなら見えた。
青白い流れが、大きな管の奥で詰まっている。水路に泥が溜まるように、光が膨れ、行き場を失い、壁を押していた。
その先は下層街へ続いている。
もし破裂すれば、あの街の魂魄管が裂ける。
パーズの声が蘇る。
止め方を間違えりゃ、下層街ごと吹っ飛ぶ。
「こっち、詰まってる。わかるか?」
アビスはパーズから渡された簡易図面を広げた。
油の染みた紙に、乱暴な線で区画が描かれている。
「外殻逃がし弁だ」
「壊せばいいのか」
「全部じゃない」
「そこだけか」
「ああ。封印爪だけを外す」
レイはアビスを見た。
「できるか」
「できる」
アビスは黒い力を掌へ集めた。
だが、いつものように広がらない。
砲撃でも、破壊の波でもない。
指先へ、細く、細く、漆黒を絞る。
「壊しすぎたら、リサに怒られる」
「怒られるだけで済めばいいけどな」
アビスの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうかは分からなかった。
黒い光が走る。
封印爪だけが、砂のようにほどけた。
次の瞬間、区画全体が揺れた。
詰まっていた魂魄流が、一気に逃げようとする。青白い光が管を裂くように膨らみ、監視盤の赤い警告がさらに強く点滅した。
レイは両手を伸ばした。
「暴れんなよ……っと」
白金色の小魚が、掌から溢れる。
光の群れが、荒れた魂魄流の中へ入り込んでいく。
押さえつけるのではない。
流れを思い出させる。
折れた線を繋ぎ、絡まった流れをほどき、逃がし弁へ向かう道を作る。
管の中で、青白い光がゆっくり向きを変えた。
大きな圧が、外殻の逃がし弁へ流れていく。
低い音がした。
遠くで、何かが開く音。
区画の振動が少しずつ収まる。
監視盤の赤い点滅が、橙へ変わった。
レイは息を吐いた。
息をしていたことに、その時初めて気づく。
「止まったのか」
「爆発は、避けた」
アビスが監視盤を見る。
「炉そのものは止まっていない。出力を落としただけだ」
「リサは」
レイは奥を見た。
淡い光は、まだある。
弱い。
だが、まだある。
「いる。まだ、いる」
その時だった。
大魂魄炉の唸りが、一段低くなった。
区画の魂魄灯がふっと暗くなる。
青白い流れが細くなり、壁の奥で何かがほどけた。
レイは振り返る。
「何か、抜けた」
「リサか」
「違う」
胸の奥がざらつく。
あの赤黒い泥のような感覚。
「もっと赤い」
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あたりがずいぶん静かになって、しばらく経っていた。
先ほどまで壁の向こうで鳴っていた警報は、もう聞こえない。
走る足音も、怒鳴り声も、遠ざかっている。
大魂魄炉管理区の脇にある避難室で、フローリアは厚い扉の前に立っていた。
小窓の向こうに、通路が見える。
赤い魚が、まだ数匹漂っていた。
赤潮の最中に見たものとは違う。
壁を裂くように押し寄せる群れでも、人へ食らいつく牙でもない。
ただ、魂魄管の影や壁際に引っかかるように、ゆっくり尾を動かしている。
炉に吸われている。
そう見える。
だが、吸われきっていない。
フローリアは唇を引き結んだ。
赤くても魂ならば、炉が吸う。
だから、炉の近くが安全。
そう判断した。
実際、赤潮は去った。
この部屋の中にいれば、メイガスは無事だった。
「……やはり、こちらで正解でしたね」
側近の女が、震える声で言った。
フローリアは答えなかった。
メイガスが隣へ来る。
まだ少年の顔だ。
けれど、その目は小窓の向こうをじっと見ていた。
「母上。あれは、吸われているのですか」
「そのはずです」
「でも、まだいます」
「吸引が追いついていないだけでしょう」
メイガスは赤い魚を見続ける。
魚の腹が、赤から、赤黒い色へ濁っていく。
「……なら、なぜ黒くなるのです」
フローリアは答えようとした。
その瞬間、床の震えが変わった。
大魂魄炉の唸りが低くなる。
魂魄灯が一段暗くなった。
通路の奥で、赤い魚が止まる。
それまで何かに引かれていた魚が、初めて自分で尾を動かしたように見えた。
メイガスが息を呑む。
「母上」
「何です」
「あの魚、こちらを見ています」
赤い魚が、小窓の向こうで止まっていた。
目などない。
それなのに、見られていると分かった。
フローリアの背筋が冷える。
「下がりなさい」
「母上?」
「下がりなさい!」
叫んだ瞬間、赤い魚が壁を抜けた。
扉も、魂魄防壁も、関係ない。
魂は壁を抜ける。
それを、彼女は知っていたはずだった。
赤い魚は、まっすぐメイガスへ突っ込んだ。
フローリアは考えるより先に動いていた。
メイガスの前へ出る。
赤い魚が胸へ飛び込む。
音はしなかった。
だが、胸の内側で何かが爆ぜた。
「っ……!」
息が止まる。
膝が折れかけ、壁へ手をつく。
メイガスが叫ぶ。
「母上!」
「来ては……いけません」
声が自分のものではないように掠れた。
胸の奥で、赤いものが暴れている。
宿ったのではない。
逃げ込まれた。
そんな感覚だった。
体の中に、炉に吸われたくない何かが潜り込み、内側から骨を引っ掻いている。
苦しい。
息ができない。
メイガスが一歩近づく。
「来ないで!」
フローリアは叫んだ。
メイガスの足が止まる。
その時、通路の向こうから足音が響いた。
近衛の甲冑の音。
その中心に、金と黒の外套をまとった男がいる。
ダウジル・ヴァス・ヴィザリウス。
国王。
彼はフローリアを見て、顔色を変えた。
「フローリア!」
「来ないで……」
フローリアは壁に爪を立てる。
「がはッ!!」
胸の奥の赤いものが、王の魂に反応している。
大きい。
強い。
熱い。
そんな感覚が、勝手に流れ込んでくる。
「余だ。しっかりしろ」
「来ては、いけません」
「何を言っている。余を見ろ」
ダウジルは近づく。
王だから。
自分が命じれば、事態は従う。
自分が手を伸ばせば、臣下も、兵も、妻も、世界も従う。
そういう歩き方だった。
フローリアは首を横に振る。
止めたい。
止めなければ。
しかし、胸の奥の赤いものは笑っていた。
ダウジルが手を伸ばす。
その瞬間、フローリアの服が裂けた。
腹から赤黒い触手が一本、伸びる。
それは迷いなく、王の胸を貫いた。
近衛が叫ぶ。
メイガスの声も聞こえた。
ダウジルは、自分の胸を見下ろしていた。
命令しようとしていたが、声にはならない。
血が落ちる。
だが、触手が求めていたのは肉ではなかった。
ダウジルの体から、青白く大きな魚の影が引きずり出される。
王家の魂。
大きく、重く、強い魂。
ダウジルが生涯、価値だと信じてきたもの。
赤黒い触手は、それを敬わなかった。
王権も、血筋も、格も、関係ない。
大きい魂は、大きな餌だった。
触手が増える。
青白い魂へ絡みつき、裂き、喰らう。
王が、魂を喰うものに喰われている。
フローリアの苦しみが、少しだけ引いた。
呼吸が戻る。
視界が戻る。
胸の奥で暴れていた赤いものが、喰った魂の欠片を飲み込んで、ほんのわずかに静かになった。
フローリアは理解してしまった。
魂を喰えば、楽になる。
もっと?
もっと……
もっと、もっともっともっと!!
「母上……?」
メイガスの声がした。
フローリアは顔を上げる。
メイガスが後ずさっていた。
愛しい子。
守るべき子。
王にすべき子。
そして。
若く、強く、温かい魂。
赤黒い触手が、彼の方へ動きかけた。
フローリアは自分の腕を掴んだ。
爪が肌に食い込む。
「メイ……ガス……」
「母上」
「逃げ……」
触手が震える。
母としての声が、喉の奥から搾り出された。
「逃げなさい」
メイガスは動けなかった。
フローリアはもう一度叫んだ。
「逃げなさい!」
その声で、メイガスは走り出した。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
レイは外殻制御区画を出たところで、足を止めた。
奥へ行かなければならない。
リサの魂は、炉心の方にある。
分かっている。
けれど、別の記憶が胸を引っ掻いた。
地下に閉じ込められた女。
私の子を返して。
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返していた人。
「地下牢はどこだ」
アビスがレイを見る。
「ルナリアス様か」
「……ああ」
「赤潮が襲っていたのは、人が多くいるところだ」
「だから?」
「孤独な地下牢は、多分無事だ」
「多分かよ」
「確かめに行く時間はない」
レイは黙った。
分かっている。
今はリサだ。
リサの魂が、今も炉に引かれている。
足を止めれば、それだけ遠ざかる。
アビスは少し声を落とした。
「だが、彼女なら気づいているかもしれない」
「何に」
「お前に」
レイは返事をしなかった。
返事をすれば、何かが崩れそうだった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
地下に作られた白い特別室は静かだった。
王宮がどれほど騒がしくなっても、そこまで人は来ない。
警報も遠い。
走る足音も、石壁に吸われて薄くなる。
ルナリアスは、鉄の寝台に座っていた。
痩せた指が、膝の上で重なっている。
十六年。
彼女はここで空の魚を見続けてきた。
小さな鉄格子のついた窓の向こう。
石壁をすり抜けて泳ぐ魂たち。
誰も信じなかった。
誰も耳を貸さなかった。
私の子を返して。
そう言うたび、狂った女を見る目を向けられた。
けれど、彼女は忘れていない。
あの白金色の小さな魚を。
腹へ宿った光を。
大丈夫よ、と撫でた夜を。
ルナリアスは立ち上がって窓に向かう。
魂の流れが震えている。
遠い。
けれど、確かに近づいている。
白金色の小さな魚。
爪の先ほどに小さく、けれど、どこまでも澄んだ光。
彼女は鉄格子へ手を伸ばした。
「……レイスティン」
声は掠れていた。
長く使われなかった名前は、喉を通るだけで痛かった。
「生きていたのね」
涙は、すぐには出なかった。
長く待ちすぎた。
待ち続けるうちに、感情の方が先に乾いてしまったのかもしれない。
それでも、指先は震えていた。
「来てはだめ」
小さく言う。
けれど、魂は近づいてくる。
ルナリアスは、窓の鉄格子を握った。
「でも、来ているのね」
笑ったのか、泣いたのか、自分でも分からなかった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
メイガスは走っていた。
靴音が黒い床に響く。
息が苦しい。
肺が痛い。
それでも止まれなかった。
母が父を喰った。
その言葉が頭の中で形にならない。
理解しようとすると、胸の中が壊れそうになる。
母は自分を庇った。
赤い魚から守ってくれた。
その母が、父の胸を貫いた。
魂を喰った。
そして、自分を見た。
母の目だった。
違う。
母の目ではなかった。
分からない。
分からないまま、メイガスは走った。
曲がり角を抜けた瞬間、誰かにぶつかりかける。
黒い外套。
白金色の光を宿す下層街の少年。
そして、兄。
「メイガス」
アビスの声だった。
メイガスは立ち止まった。
膝が震えている。
情けない。
こんな姿を兄に見せるなど、あってはならない。
そう思うのに、言葉が出ない。
アビスが一歩近づく。
「何があった」
レイもメイガスを見る。
敵意ではない。
急かす目でもない。
ただ、何が起きたのかを見ようとしている目だった。
メイガスは口を開いた。
声が出なかった。
奥の通路から、湿った音が聞こえる。
壁を擦るような音。
肉ではない。
魚でもない。
赤い何かが、通路の影を這っている。
メイガスは震える声で言った。
「母上が」
アビスの顔が変わる。
メイガスは続けた。
「父上を、喰った」
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