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第9話 / 全15話
その夜、レイは眠れなかった。
工房の二階にある狭い寝床で、何度も寝返りを打つ。古い木材の天井には、隙間から魂魄ランタンの青白い光が差し込んでいた。その光が、ときどき赤く瞬く。そのたびに、レイは目を開けた。
掌が痛む。昨日、赤黒く濁った魚に触れた場所だ。もう痕はほとんど見えない。それでも、皮膚の奥に冷たい泥が入り込んでいるような感覚だけが残っていた。声ではない声が、まだ耳の奥に残っている。
レイは布団から手を出し、掌を見た。暗くてよく見えない。それでも痛い。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。隣の部屋からは、パーズのいびきが聞こえた。下の工房では、修理中の小型炉がときどき低く唸っている。いつもの夜だ。いつものはずだった。
けれど、窓の外では魚たちが低いところを泳いでいる。天井を抜け、壁を抜け、下層街の夜を、何匹もの魂が落ち着きなく横切っていく。
眠れないのは、レイだけではなかった。工房の隅に置いた古い椅子で、リサも膝を抱えていた。
帰ると言ったのに、帰らなかった。パーズが「今日は泊まってけ」とぶっきらぼうに言い、リサは珍しく素直に頷いた。
マルシアも、買い物袋を家に置いた後、工房に来ていた。今は隣で静かに寝息を立てている。
誰も、一人でいたくなかった。
リサは窓の外を見上げた。魚たちは、青白く戻っている。夕方の赤い空はもうない。サメの影も見えない。それでも、リンキンの言葉が離れなかった。
──次は、戻らないかもしれないね。
リサは両腕に力を込める。
「戻らないって、何がよ……」
答える者はいない。工房の奥で、レイが寝返りを打つ音がした。リサはそちらを見た。眠れていないのだろう。
レイは何かを抱えると、すぐに一人で考え込み、勝手に危ないところへ行く。いつもなら、リサが追いかけて袖を掴めば、それで何とかなる気がしていた。
昨日までは。
リサは自分の手を見た。あの赤い空を見た時も、レイの袖を強く掴んでいた。
それだけで足りるのかは、もう分からなかった。
王宮でも、アビスは眠れなかった。白い石壁に囲まれた寝室は下層街の工房とは違い、静かで広い。魂魄灯は一定の明るさを保ち、窓の外には整えられた庭園と、遠く上層街の灯りが見える。
だが、空の魚たちは乱れていた。王宮の高い空を泳ぐ大きな魚でさえ、今夜は尾の動きが重い。小魚の群れは、何かから逃げるように塔の影へ潜り込み、すぐにまた押し出されるように出てくる。
アビスは寝台ではなく、窓辺に立っていた。額の奥がまだ痛む。昨日、赤黒い魚が現れた時から続いている痛みだ。
葬儀の棺、消えた呼吸器の色、泣いていた母親、父親の言葉。
──あんたが壊すのは、壁や鉄だけじゃないんだな。
そして、冷たい布と、煤と薬草の匂い。あの女の手。
「ありがとう、母――」
声に出しかけて、アビスは唇を噛んだ。
王妃フローリアを、彼はそう呼ばない。元王妃ルナリアスについては、王宮の誰も詳しく語らない。
では、あの言葉は誰に向けたものだったのか。
胸の奥で、漆黒のクジラが身じろぎする。眠るな。備えろ。壊せ。そう言われているような気がした。
アビスは目を閉じる。違う。壊すためではない。守るためだ。そう言い聞かせても、何を守るべきなのか、まだ分からなかった。
翌朝。空は青かった。昨日の赤い濁りなど、最初からなかったように、魚たちは下層街の上を泳いでいる。
パーズ工房の扉を開けると、湿った石畳の匂いと、焼けた油の匂いが入ってきた。いつもなら、屋台の親父が朝の仕込みで怒鳴っている時間だ。だが今日は、声が少ない。
通りの人々は歩いている。露店も出ている。子供たちもいる。それなのに、誰も空を長く見上げない。魚が低く泳ぐと、母親は子供の頭を押さえ、老人は杖を握り直し、店主は何も見なかったように品物を並べ直す。
パーズは工房の入口に立ち、煙草をくわえていた。火はついていない。
「出るのか」
レイは頷いた。
「少しだけ」
「少しだけで済む顔じゃねえな」
「見回るだけだ」
「お前の『見るだけ』ほど信用ならねえもんはない」
パーズはそう言って、リサを見た。
「見張れ」
「うん。言われなくても」
リサは鞄を肩にかけていた。昨日と同じ水筒もある。けれど今日は、いつものような軽さが少し足りなかった。レイは工房を出ようとして、足を止める。振り返り、リサを見た。
「今日は離れるな」
リサが目を瞬かせる。
「うん」
「絶対だ」
「分かった」
レイは少し迷ってから、手を伸ばした。リサの手を掴む。リサはほんの一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「離さないでね」
「ああ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「レイのほんとは、たまに怪しいからなー」
「今は怪しくない」
「じゃあ信じる」
リサは指を絡めるように、レイの手を握り返した。パーズは二人を見て、何か言いかけた。だが、何も言わなかった。
「無事に戻れ」
それだけ言った。レイは頷く。リサも頷いた。二人は手を繋いだまま、下層街の通りへ出た。
最初の悲鳴は第三区の酒場裏から上がった。朝から酒を飲んでいた男が、ふらつきながら路地を歩いていた。顔は赤く、足元はおぼつかない。だが、それはこの街では珍しいことではない。珍しかったのは、彼の肩先を泳いでいた一匹の魚だった。
赤い、小指ほどの小魚。
昨日までなら、誰かが不吉だと囁いたかもしれない。けれど、その時の男は、酔った目でそれを見て、鼻で笑った。
「なんだ、その色。酒でも飲んだか」
近くにいた数人が笑った。次の瞬間、赤い魚が男の腕に噛みついた。
「あ?」
男は顔をしかめた。
「痛っ……!」
その声で、笑いが止まる。魚は離れなかった。魂のはずだった。壁も人もすり抜けるはずだった。けれど、赤い小魚は男の腕に歯を立てていた。薄い布を裂き、皮膚に食い込み、血を滲ませている。
「おい、何だよそれ」
「取れ、取れよ!」
「取れねえんだよ!」
男は魚を振り払おうとした。すると、路地の壁からもう一匹赤い魚が出てきた。次に三匹。五匹。十匹。看板の中から、排水管の隙間から、魂魄ランタンの光の中から、赤い魚たちが滲み出すように現れた。
「おい……」
誰かが後ずさる。男は叫んだ。
「助けろ!」
魚たちは男の腕だけでなく、肩へ、首へ、腹へと群がった。布が裂け、血が飛ぶ。男は石畳に倒れた。周囲の人間が悲鳴を上げる。誰かが棒で魚を叩いた。魚は一匹潰れたように見えたが、すぐに赤い光となってほどけ、別の魚の形へ戻った。
男の体から、青白い光が漏れた。魂だった。赤い魚たちは、それへ一斉に群がった。
男の声が途切れる。残された体は、もう動かなかった。その上を、赤い魚たちが泳いでいる。
ほんの数秒の静寂。
次に、路地中が叫び声で満ちた。
赤潮は、王都で最も魂を吸い上げられてきた下層街から広がった。
第三区から第五区へ。第七区へ。第八区へ。赤い魚は配管を伝うように路地を満たし、魂魄ランタンが赤く明滅する。小型炉が止まり、屋台の火が消え、浄水器が濁った音を立てた。
昨日まで夜空の飾りだった魚が、牙を持って人へ食らいついていた。
「逃げろ!」
「建物の中へ!」
「壁を抜けてくるぞ!」
「じゃあどこへ逃げりゃいいんだよ!」
誰かがそう叫んだ直後、その者の背後の壁から赤い魚が飛び出した。レイとリサが第三区の角へ着いた時、すでに通りは混乱していた。悲鳴と血の匂い。そして魂魄管の破裂音。そこかしこに赤い魚の群れ。レイは息を呑む。リサの手が、痛いほど強く握られた。
「レイ……」
「ああ」
目の前で、女が倒れていた。足に赤い魚が食いついている。そばには幼い子供が泣きながら母親の服を引いていた。レイは駆け出す。手は離さない。リサも引っ張られるように走った。
「こっち!」
レイは女の前に膝をつき、赤い魚を睨んだ。触れようとする。魚がこちらを向いた。赤い目などない。それでも、見られた気がした。レイは歯を食いしばる。来るな。強く念じた。掌が光り、奥が熱くなる。赤い魚が、ぴたりと動きを止めた。次の瞬間、弾かれたように女の足から離れる。リサが息を呑む。
「追い払えた?」
「分からない。でも、来ない」
レイは女の足に手を当てた。傷が深い。血が止まらない。けれど、まだ生きている。
「リサ、布!」
「はい!」
リサは鞄から布を出す。レイの掌から、淡い白金色の光が漏れた。女の傷口がゆっくり塞がる。完全ではない。だが、血は止まった。女が震える声で息を吸う。
「立てるか?」
「……子、子供……」
「生きてる。早く行け!」
リサが子供を抱き起こした。
「こっち、路地の奥! 走れる?」
子供は泣きながら頷く。リサは母親と子供を押し出すように避難させた。その間にも、赤い魚は増えていく。レイは掌を握る。
「昨日の魚と同じだ。治せない。追い払うくらいしかできない」
「じゃあ、それでいい」
リサは言った。
「生きてる人を助ける。それでいい」
「……ああ」
レイは頷いた。二人は走った。手を繋いだまま。倒れた老人を起こし、食いつかれた作業員から魚を追い払い、泣いている子供を路地へ押し込む。レイは治す。リサは叫ぶ。
「こっち!」
「走って!」
「振り返らない!」
「その子を抱いて! 置いていかない!」
赤い魚の群れが襲ってくる。レイは前に出る。来るな。来るな。来るな。念じるたびに、掌が焼けるように痛む。それでも魚は一瞬だけ怯む。その一瞬で、人が逃げる。それで十分だった。十分だと思うしかなかった。
王宮へ報告が届いたのは、下層街の複数区画がすでに赤潮へ呑まれたあとだった。
被害甚大。死者多数。魚は実体化し、人を襲っている。
国王ダウジルは玉座の間で報告を聞いた。王宮の空にいる赤い魚は、まだ数匹にすぎない。近衛騎士が魂魄銃で追い払い、上層街の混乱も限定的だった。
「アビサリウスを呼べ」
程なく、アビスが現れた。黒い外套。硬い表情。すでに出撃準備を整えている。
「父上、下層街へ向かいます」
「ならぬ」
ダウジルの返答は早かった。
「王宮を守れ」
「下層街では、すでに人が死んでいます」
「王宮に万が一があれば、王都は終わる」
「今、終わりかけているのは下層街です」
玉座の間の空気が凍る。近衛の一人が息を呑んだ。ダウジルは怒鳴らなかった。だが、声は冷えていた。
「アビサリウス。王家の剣は、王宮を守るためにある」
アビスの脳裏に、昨日の棺とマルシアの声が浮かんだ。
「力は」
言葉を選び、顔を上げる。
「備えより、今起きていることに使います」
ダウジルの目が見開かれる。
「命令だ。王宮を離れるな」
「失礼します」
「アビサリウス!」
アビスは振り返らなかった。玉座の間を出る。近衛が追おうとしたが、アビスの視線だけで足が止まった。廊下の奥で、黒い重装魔導機が起動していた。
胸部装甲が開き、アビスは座席へ身を沈めた。魂魄接続針が背へ刺さり、鋭い痛みとともに漆黒のクジラが目を覚ます。だが、今日はその衝動を恐れなかった。
「出る」
黒い魔導機が王宮の床を踏みしめる。次の瞬間、機体は下層街へ向けて走り出した。
アビスが王宮を離れてしばらく後、王宮の空にも赤い魚が増え始めた。最初は小魚だった。庭園の魂魄灯の中から、一匹。噴水の光の筋から、二匹。塔の壁を抜け、廊下へ、広間へ、客室へと赤い影が滲み出す。侍女が悲鳴を上げた。近衛騎士が魂魄銃を撃つ。赤い魚は散った。だが、すぐに戻る。
「なぜ消えぬ!」
「防壁を張れ!」
「大魂魄炉の出力を上げろ!」
混乱が広がる。ダウジルは玉座を立った。
「アビサリウスを戻せ!」
誰も答えられなかった。彼はもう、下層街へ向かっている。
「戻せと言っている!」
赤い魚が一匹、玉座の間へ入り込んだ。近衛が前に出る。魚はその喉元へ飛びかかり、血が白い石床に散った。
ダウジルは一歩下がる。
「余を守れ!」
侍従の肩を掴み、自分の前へ引き寄せた。赤い魚の群れが侍従へ群がる。
ダウジルは、振り返らず逃げた。その姿を、フローリアは廊下の影から見ていた。扇は持っていない。ドレスの裾を片手で押さえ、もう片方の手でメイガスの腕を掴んでいる。メイガスは顔を青くしていた。
「母上……」
「こちらへ」
「父上は」
「今は、ご自分のことで手一杯のようです」
声は静かだった。
赤い魚が一匹、廊下の魂魄灯から現れた。メイガスが息を呑む。フローリアはその魚を見つめた。
「赤くても、魂には違いありません」
「母上?」
「大魂魄炉へ行きます」
フローリアは歩き出した。
「炉なら吸えます。小型は燃料へ。大型は最大出力で弾く。王宮で最も安全なのは、皮肉にもあそこです」
「しかし、父上が」
「メイガス」
フローリアは息子を見た。
「生きたいのなら、歩きなさい」
メイガスは唇を引き結び、頷いた。フローリアは一度だけ、逃げるダウジルを見た。すぐに視線を外し、メイガスの腕を引いた。
下層街に、黒い魔導機が降り立った。石畳が割れる。赤い魚の群れが、音に反応して一斉に向きを変える。アビスは操縦席の中で息を整えた。
「標的、赤色魂魄群」
機体の右腕が持ち上がる。漆黒の光が収束する。赤い魚が群れとなって襲いかかってくる。撃つ。黒い光に触れた瞬間、赤い魚たちは形を失った。散るのではない。戻るのでもない。消える。アビスの目がわずかに見開かれた。
「消滅した……」
二撃目。三撃目。壁も地面も壊れず、赤い魚だけが消えた。
アビスは奥歯を噛んだ。
「ならば」
黒い魔導機が走る。赤い魚を消し、倒れた人間の前に立ち、追われる子供の道を開く。住民たちは最初、黒い機体を見て怯えた。王宮の剣。破壊の象徴。けれど、その黒い魔導機は、彼らへ砲を向けなかった。赤い魚を消している。道を開けている。瓦礫を砕いて、逃げ道を作っている。
「こっちへ走れ!」
拡声器越しにアビスの声が響く。
「立ち止まるな! 建物の中へ隠れるな、壁を抜けてくる!」
住民たちは走った。疑う余裕など、もうなかった。その先で、レイとリサが負傷者を引きずっていた。
レイは倒れた男の腹に手を当てている。リサは泣き叫ぶ子供たちをまとめて路地へ逃がしていた。巨大な赤い魚が、二人の背後から迫る。アビスは砲身を向けた。撃つ。赤い魚が消滅した。爆風にレイの髪が揺れる。レイは振り返った。
「遅い」
アビスは操縦席の中で眉を寄せる。
「礼を言う場面だ」
「言うかよ。もっと早く来い」
「王宮からここまで一息で来た」
「じゃあ息が遅い」
「意味が分からん」
リサが振り向いた。
「二人とも今それやる!?」
レイとアビスは同時に黙った。リサは子供たちを押し出す。
「アビス、右の通り! 魚が集まってる!」
「了解した」
「レイ、こっちの人まだ息ある!」
「分かった!」
そこからは、言い合う暇もなかった。アビスが消し、レイが癒し、リサが叫ぶ。逃げ道を作り、負傷者を運び、赤い魚を追い払い、助けられる命だけを拾っていく。
それでも、三人が守れるのは王都のほんの一角だけだった。少し離れた通りでは誰かが食われ、別の区画では親を失った子供が泣き叫び、橋の上では逃げ場を失った人々が赤い群れに追い詰められている。
そこまでは届かない。
だからこそ、三人は目の前の命を拾い続けた。
どれほど走ったのか、分からなくなっていた。レイの息は切れ、喉は血の味がした。掌は痛みを通り越して熱を持っている。治した傷の数も、追い払った魚の数も、もう数えられない。
アビスの黒い魔導機も、装甲のあちこちから煙を上げていた。出力を絞る余裕などない。赤い魚を消し続けるたび、操縦席の中で魂魄接続針が熱を持つ。
リサも声が枯れていた。それでも、まだ手は離していない。レイと。そして時には、逃げ遅れた子供と。老人と。見知らぬ誰かと。つないでは離し、押しては叫び、またレイの手を掴む。
やがて、赤い魚の数が減り始めた。最初は気のせいかと思った。だが、明らかに群れが薄くなっている。魂魄ランタンの赤い明滅も間隔が空く。遠くの悲鳴も、少しずつ減っていく。収まってきている。
必要なだけ喰ったからなのか。それとも、ただ次の場所へ流れていっただけなのか。誰にも分からない。
三人は、崩れた建物に囲まれた小さな広場で足を止めた。レイは膝に手をつく。リサはその隣で荒く息をしている。黒い魔導機の胸部装甲が開き、アビスが降りてきた。顔色は悪い。額には汗が浮かび、片手で機体の外装を支えている。
「ひどい顔だな」
レイが言う。
「鏡を見ろ」
アビスが返す。
「うるせえ」
「そちらが先に言った」
リサが二人の間で、かすれた声で笑った。
「二人とも……やるじゃん」
レイは一瞬だけ息を止めた。
前に聞いた言葉。それが今は二人へ向けられている。
何か言おうとした。その時、リサの背後の建物が、内側から弾けた。ドォン、と鈍い音が広場を揺らす。壁が崩れ、赤い濁りが噴き出した。瓦礫の中から、巨大なサメが現れた。今までのどの魚よりも大きい。赤黒い体。裂けた口。建物の壁を突き破り、現世へ完全に実体化している。リサが振り返る。遅い。
「リサ!」
レイが手を伸ばした。
「避けろ!」
アビスも動いた。二人は同時に、リサの腕を掴んだ。レイは左から。アビスは右から。引く。逆の方向へ。リサの体が、一瞬だけその場に留まった。ほんの一瞬。
ガラッと音を立て、足場が崩れた。
巨大なサメの顎が、リサを足から呑み込む。アビスが叫んだ。漆黒の魔導が放たれる。サメは黒い光に呑まれ、赤い濁りごと消滅した。
だが、地面に倒れたリサの体は、もう元の形ではなかった。
レイは膝から崩れ落ちる。
「リサ」
声が出た。自分の声に聞こえなかった。リサはまだ息をしていた。顔は青白く、唇が震えている。レイは血に濡れた手を彼女へ伸ばした。
「死ぬな、リサ! 今助けるから!」
掌から光が溢れる。白金色の小魚の群れが、リサの体を包む。だが、光は形を探せない。失われたものが大きすぎる。
「止まれ! 止まれよ!!」
血が止まらない。
「早くしろ、レイ!」
アビスが叫んだ。
「うるさい、やってる!」
「全力でやれ!」
「やってる!!」
レイの声がひび割れる。リサの手が、弱く動いた。
「助からない……よ」
「黙れ!」
「しゃべるな!」
レイとアビスの声が重なった。リサは苦しそうに笑った。
「それよりも……さ」
レイは光を強める。掌が焼ける。それでも、足りない。
「行かないでくれ、リサ……」
アビスの声だった。レイは顔を上げた。アビスは膝をついていた。リサは二人を見た。いつものように困った顔で、泣きそうに笑っていた。
「ねぇ……」
声は小さかった。二人は顔を近づける。
「もう喧嘩しないで……ね?」
レイの手が震える。アビスが息を止める。
「約束……だよ?」
レイは頷いた。声が出ない。アビスも頷いた。リサは安心したように、ほんの少しだけ笑った。
「よかった……」
その息が最後だった。掌の下で、リサの体から力が抜ける。
レイの光は白金色の小魚となり、血の上へ散っていった。
赤潮は、もうほとんど収まっていた。空も青白く戻り始めている。
リサだけが、戻らなかった。
しばらく、誰も動かなかった。
遠くの泣き声。崩れた建物から助けを求める声。魂魄管の漏れる音。壊れたランタンの火花。
世界はまだ動いていた。
リサだけが、動かなかった。レイはリサを抱いたまま、血に濡れた腕を離せなかった。
「手を……」
レイが呟いた。アビスは隣に座っていた。
「朝、離さないって言ったんだ……」
声が掠れる。
「俺が、言ったんだ」
アビスは目を伏せた。
「私のせいだ」
レイは首を横に振る。
「違う」
「違くないだろう」
「違うって」
アビスは何か言い返そうとした。口を開く。閉じる。
「いや……やめておこう」
レイはリサの髪に触れた。赤潮の血と埃で汚れている。いつもなら、リサは怒っただろう。こんな汚い手で触らないでよ、と。そう言って、笑っただろう。
「約束……」
レイが言った。アビスは小さく頷いた。
「ああ、約束したからな」
無言が落ちる。長い沈黙だった。空を、小さな魚が一匹泳いでいく。青白い光。その尾びれが、少しだけ震えていた。レイはリサを抱いたまま、口を開いた。
「なあ、アビス」
「なんだ」
「リサのこと……好きだったか?」
アビスはすぐには答えなかった。だが、逃げなかった。
「ああ」
短い答えだった。
「だが、私には好きという感情が分からなかった」
アビスはリサを見た。その顔は、もうこちらを見返さない。
「それが今分かった」
レイは笑った。笑い声にはならなかった。
「今更……だな」
「ああ」
アビスは目を伏せる。
「レイは、どうなのだ」
レイは、リサの手を握った。朝、繋いだ手。離さないでね、と言った手。もう握り返してこない。
「愛してた」
言葉にしてから、胸が裂けた。
「誰よりも」
レイは目を閉じる。
「……それを、今思い知った」
アビスは静かに言った。
「今更だな」
「ああ」
レイはリサを抱いたまま、空を見上げた。
「俺たちは、どうしようもないな」
「ああ」
アビスも同じ空を見た。
「どうしようもないな」
また、無言。その時、リサの胸元から、小さな光が浮かび上がった。爪の先ほどの、小さな魚。淡く、やわらかく、今にも消えそうで。けれど、レイには、これまで見たどの魂よりも美しく見えた。
レイは息を止める。アビスも動けない。
リサの魂は、二人の間をゆっくり泳いだ。まるで、最後にもう一度だけ二人の顔を見るように。そして、空へ昇っていく。赤潮の消えた、青白い海へ。
レイは手を伸ばしかけ、止めた。
アビスも何も言わなかった。
二人はただ見上げた。小さな光る魚が、壊れた街の上を昇っていく。
その光が、空の海に触れた瞬間。
世界が、白く弾けた。
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