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第8話 / 全15話
広域回収装置が下層街に増やされてから、七日が経った。
最初の二日、住民たちは怒鳴った。三日目には、王宮直属の回収部隊が増えた。五日目には、魂魄ランタンが夜中に何度も消えるようになった。そして七日目。誰も、空の魚を綺麗だとは言わなくなっていた。
パーズ工房の中でも魂魄炉の光は安定していなかった。作業台の上に置かれた小型炉は、青白い光を強めたり弱めたりしながら不機嫌そうな唸りを上げている。パーズはその前で片目の拡大レンズを下ろしたまま舌打ちした。
「また詰まった」
「また?」
レイは床に座り、古い魂魄管の束を仕分けていた。リサはその横で油染みのついた帳簿を整理している。昨日も詰まっていなかったかと聞くレイに、あれは十二番管で今回は九番管だとパーズが返す。似たようなものだろうと言うと右手と左足くらい違うと返されて、レイは意外と素直に納得した。その適当さに、リサが横から紙で頭を軽く叩く。
「なんとなくで生きてるよね、レイって」
「なんだ、悪口か?」
「ただの感想ー」
「もっと悪い」
パーズは二人のやり取りを聞き流しながら棚を開けた。木箱を引き出し、修理台帳をめくり、中を覗いて、また舌打ちする。
「ったく、これじゃ間に合わねぇな」
「なにが?」
「ダキアのとこの倅の呼吸器、定期点検の時期なんだが、いかんせん物が古い。早めに見といた方がいいと思ってな。今日中に取りに行く予定だったんだ」
レイは少し考えた。
「それじゃ、俺が行くよ」
「助かる。場所はわかるか?」
「いいや」
「そうか、ちょっと待ってろ」
そう言うとパーズは、油で汚れた紙片にダキアの家までの道順を書き込み、リサへ渡した。
「二人で行ってこい。第八区のカルダ商会は知ってるだろ? あの近くだ。替えの呼吸器を持っていくのを忘れるなよ?」
「第八区?」
リサは手早く鞄と水筒を持つと、紙片を受け取り、目を細めた。
「これ、六じゃない?」
「八だ」
横から覗き込んだレイが言う。
「俺には虫に見える」
「お前は黙ってろ」
水筒の湯冷ましを口に含んだばかりのリサは、それを噴き出した。
「きったねぇ!」
「あんたが笑わせるからでしょ!?」
「笑ったのはお前だろ」
「まったくもう、変なことばっかり言って」
パーズは工具を作業台に置き、少しだけ声を低くした。
「冗談はそこまでだ。第八区は今日は静かじゃねえ。余計なもんに首を突っ込むな」
「第八区って、そんなに荒れてるのか?」
「荒れてるってより、炉に放り込む寸前の圧縮魂魄みてえなもんだ。ちょっと突けば、はじけ飛ぶ」
リサの表情が少しだけ硬くなった。パーズはレイを指差す。
「特にお前は気をつけろ」
「最近、それ言われすぎじゃない?」
「言わせすぎなんだよ」
「分かってるって。呼吸器を預かって帰ってくるだけ。だろ?」
「その『だけ』ができた試しがねえ」
リサが深く頷いた。
「私は見張り役だから」
「お使いじゃないのかよ」
「お使い兼見張り。あと、あんたが変なものを拾った時の回収係」
「俺が荷物みたいになってる」
「たまに荷物より重いよ」
リサは笑った。
レイは言い返そうとして、やめた。パーズが真面目な顔をしていたからだ。
「いいか。第八区の装置は、第七区のとは違う。古い回収管に無理やりつないでる。流れが荒れてるって話もある」
「魚が?」
「魚も、機械も、人もだ」
パーズは作業台の小型炉を軽く叩いた。青白い光が、赤く一度だけ瞬いた。リサが息を止める。すぐに光は戻った。何事もなかったように、炉は低く唸り続けている。
「今の……」
「見間違いってことにしとけ」
パーズはそう言った。けれど、誰も笑わなかった。
第八区へ向かう道はいつもより人通りが少なかった。店が閉まっているわけではない。露店は出ている。屋台もある。洗濯物は路地に渡された線にぶら下がり、子供たちも建物の隙間で走り回っている。それでも、街の音が少し足りない。呼び込みの声は低く、笑い声は短い。誰かが空を見上げると、隣の者が肘でつついてやめさせる。
頭上では小魚たちが低く泳いでいた。看板の高さではなく、人の肩先をすり抜けるほど低い。リサの首を淡い青の小魚が通り抜けた。触れたわけではない。それでもリサは首筋を撫でられたように肩をすくめた。
「うわ、今の嫌」
「触れないだろ」
「触れないけど、通った感じはするの」
分かる、とレイも小さく頷いたが、じゃあ嫌でしょと畳みかけられると、ちょっとだけとしか答えられなかった。ちょっとじゃない、すごく嫌、とリサは譲らなかった。
屋台の前で、親父が火の弱い炉を叩いていた。
「くそ、また火が落ちやがる」
串に刺した肉は、片側だけ焼けて反対側はまだ赤い。親父は客に頭を下げていた。
「今日は焼き物は無理だ。生焼けで腹壊されても困る」
「昨日もだろ」
「王宮に言え。こっちは炉を絞ってねえ」
別の店では、魂魄管の値札が書き換えられていた。リサがそれを見て眉を寄せる。
「高っ」
「昨日より?」
「かなり。どこも値上がりしてるなー」
パーズが見たら怒るだろうとレイが言うと、部品が高いからではなく高いのに必要だからだ、とリサは返した。理不尽だなとぼやくレイに、いつもじゃん、とリサは笑った。
歩きながら、レイは何度も空を見上げた。魚たちは泳いでいる。けれど、泳ぎ方が違う。群れがまとまらず、何かから逃げるように散っては戻る。小魚が一匹、古い看板の中へ逃げ込むように消え、そのすぐ後ろを赤黒い筋の混じった魚が横切った。レイは足を止める。リサがすぐに袖を引いた。
「見すぎ」
「今の、赤くなかったか」
「見たくない」
「見たくないってなんだよ」
「見たら、本当になる気がする」
リサはそう言ってから、少しだけ自分の言葉に驚いたような顔をした。レイは空から目を戻す。
「もう本当かもしれない」
「そういうこと言うから、あんたは生きづらいの。すぐ難しい方を見ようとするから」
「簡単な方ってどっちだよ」
「お使いだけして帰る方」
「それは確かに簡単だ」
「じゃあ、そうして」
リサは歩き出した。レイも続く。その時、通りの向こうから、泣き声が聞こえた。子供の泣き声ではない。大人の女が、喉が裂けるほど泣いている声だった。リサの足が止まる。レイも止まった。
「……行かない」
リサが言った。
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めた」
「でも、目的地はあっちだろ」
「迂回する」
「遠回りになる」
「遠回りするの」
リサの声は固かった。けれど、泣き声は途切れない。その上に、男たちの怒鳴り声が重なった。
「これで規定値内だとよ!」
「ふざけんな!」
「じゃあ、あの子はなんで死んだんだ!」
レイは黙って、声のする方を見た。リサは小さく舌打ちした。
「見るだけ」
「ああ」
「ほんとに見るだけ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「どんな顔なら信じるんだよ」
「今じゃない顔」
リサはレイの袖を掴んだまま、泣き声の方へ歩いた。
葬儀は狭い路地の奥で行われていた。葬儀と呼ぶには、あまりに小さい。錆びた配管の下に古い木箱を組んだ棺が置かれている。上には灰色の布がかけられ、その端に小さな玩具の歯車が乗せられていた。棺の横には、箱型の魂魄呼吸器が置かれている。灯りは消えていた。細い管だけが、もう誰にもつながらないまま、床に垂れている。
だが、人だけは大勢集まっていた。そして、母親らしき女が、棺にすがって泣き続けていた。
「昨日までは……昨日までは、息をしてたのよ!」
誰も慰められなかった。父親は少し離れた場所に立っていた。泣いていない。目は赤いのに、涙は出ていなかった。両手の拳だけが硬く握られている。周囲の男たちは怒りを隠そうともしていなかった。
「夜中に装置が鳴ったんだ」
「第八区の回収管が全部唸ってた」
「その途端、呼吸器が落ちた」
「王宮の連中は関係ねぇって言いやがった」
「関係ねぇわけがあるか!」
リサの手に力が入る。レイは棺の横の呼吸器を見ていた。古い型だった。流れが少し乱れただけでも止まりやすく、パーズが見るたびに舌打ちする型だ。
だが、その呼吸器がここにあるということは。
レイは棺と呼吸器を見比べた。リサが紙片を見て頷く。
「あ、あの!」
レイは姿勢を正した。
「ダキアさん……ですか?」
「そうだが。なんだ」
「パーズ工房から来ました」
それだけですべて伝わったようだ。ダキアはレイの方を見て言った。
「パーズに伝えてくれ。修理はもう、必要なくなった」
「それって……」
「レイ」
首を横に振りながらリサが言った。頭を下げ、リサと共に後ろに下がる。その時、棺の上で淡い光が揺れた。小さな魚の形に見えた。けれど、それは青白くない。白く消えかけてもいない。薄い灰色の中に、赤黒い筋が混じっていた。魚は空へ昇ろうとして、何かに引かれるように横へ流れた。棺のそばから、路地の奥へ。そこには、広域回収装置へ続く太い魂魄管が壁に埋め込まれている。レイの手が動いた。リサが掴む。
「だめ」
「まだ何も」
「今はだめ。お願いだから」
その声は、いつもの小言ではなかった。レイは手を止めた。魚の光は、管の方へ流され、壁をすり抜けて消えた。母親はまだ泣いている。ダキアが低い声で言った。
「奴ら、こんなこといつまでやるつもりだ」
周りの男たちが黙る。ダキアは、光の消えた呼吸器を見下ろした。
「王宮の技師が言った。装置は規定値内。因果関係は確認されていない。呼吸器の故障は、所有者の管理責任だと」
彼は笑った。だが、震えた声は、笑いにはならなかった。
「俺たちが悪いらしい」
ダキアは呼吸器を蹴りかけ、途中で足を止めた。
「こんな古いものしか買えなかった。交換部品も、間に合わなかった。もっとまともなものを買えていれば……」
声が震えた。
「だから、あの子が死んだのは俺たちのせいなんだと」
「違うだろ!」
男の一人が叫んだ。
「悪いのは王宮だ!」
「装置を止めろ!」
「第七区でも同じことが起きたんだ!」
「次はうちだぞ!」
怒りが路地に満ちていく。その時、重い足音が聞こえた。人のものではない。金属の足が、石畳を踏む音。通りにいた人々が、いっせいに振り返った。
路地の入口から見える広場の向こうに、黒い重装魔導機が立っていた。王宮の紋章を胸に刻んだ、漆黒の機体。巨大な腕。砲身を兼ねた右腕。背部に並ぶ魂魄安定器。下層街の建物より高いその機体は、ただ立っているだけで周囲の空気を押し潰すようだった。機体に搭載された拡声器から、アビスの声が響く。
「そこの者たち、ここは周囲一帯に集会の禁止令が出されている。直ちに解散するように」
「王宮の剣だ……」
誰かがつぶやいた。
「俺たちは葬儀をやってんだ! 集会じゃねぇ!!」
誰かが叫んだ。
「ただ葬儀をやってる俺たちを消す気か!?」
リサが息を呑む。レイも黒い機体を見上げた。魔導機の胸部装甲が左右に開く。中から、黒い外套をまとったアビスが姿を現した。護衛と回収部隊の兵士が慌てて制止しようとする。
「殿下、危険です。機内にてご命令を」
「降りる」
「しかし、住民は興奮しており――」
「だから降りる」
アビスは昇降台から石畳へ降りた。黒い魔導機は、その背後に控えるように膝を落とす。砲身は下げられている。だが、それでも住民たちは一歩退いた。アビスは路地へ入る前に、棺を見た。泣き続ける母親。動かない呼吸器。父親の拳。アビスの顔から、少しだけ血の気が引いた。回収部隊の隊長が進み出る。
「殿下。認可済みの回収作業中、住民が妨害を行う恐れがあります。速やかな排除命令を」
アビスは隊長を見た。
「私は妨害活動と聞いてきた。この葬儀は、妨害か」
「いえ。しかし周辺住民の感情が高ぶっており、作業継続に支障が」
「作業を一時中断しろ」
隊長が目を見開く。
「しかし、殿下。王宮の認可作業であり、装置は規定値内――」
「一時中断しろと言った」
声は荒くなかった。だが、隊長は口を閉じた。アビスはダキアの方へ向き直る。何を言うべきか、彼自身にも分からなかった。謝罪、弁明、命令。どれも違う気がした。ダキアが、ぐしゃぐしゃになった顔でアビスを見た。
「あんたが壊すのは、壁や鉄だけじゃないんだな」
護衛が腰の武器に手をかける。アビスは片手で制した。
「よい」
ダキアは、それ以上何も言わなかった。母親は棺にすがったまま、泣き続けている。
アビスは一歩だけ近づき、そこで止まった。王宮の第一王子が、下層街の子供の棺の前で立ち尽くしている。住民たちは誰一人として頭を下げず、拍手もしなかった。棺の脇では、光を失った魂魄呼吸器が沈黙している。
灰色の布から落ちかけていた花を、アビスは拾い上げた。何も言わず、棺の上へ戻す。
広場の回収装置が、不意に低く唸った。作業は止めたはずだった。だが、装置に接続された太い魂魄管の中で、青白い光が逆流するように脈打つ。回収部隊の技師が顔色を変えた。
「隊長、流量が落ちません」
「停止命令は出しただろう」
「停止しません。装置の奥から、逆に吸われています――」
言い終わる前に、広場の魂魄ランタンが一斉に赤く瞬いた。住民たちがざわめき、空の魚たちが乱れた。小魚の群れが、何かに追われるように建物の中へ逃げ込む。路地を泳いでいた腹の白い大魚が、突然向きを変え、壁をすり抜けて消えた。その後に、赤黒く濁った小魚が現れた。泳いでいるというより、暴れていた。
尾びれが裂け、鱗の隙間から赤い泥のような光が漏れている。魚は回収装置の方へ引かれかけ、そこから逃げようと、めちゃくちゃに身を捩った。レイは反射的に動いた。
「レイ!」
リサの声が背中に届いた時には、もう指先が魚に触れていた。いつもの感触ではなかった。温かくも、弱々しくもない。冷たい泥を手のひらに押し込まれたような痛みが、指先から腕へ走る。
「っ……!」
レイは膝をついた。掌に、赤黒い筋が浮かぶ。魚はレイの手の中で震えた。
助けを求めているのではなかった。
怒りと飢え。帰りたいのに帰れない苦しみ。奪われ、裂かれ、燃やされた記憶が、冷たい泥のように頭の奥へ流れ込む。
戻せ。
戻せ。
戻せ――。
リサがレイの手を掴み、無理やり引き離す。
「離して!」
魚は空中で一度大きく跳ね、壁をすり抜けて消えた。レイは荒く息を吐く。リサが彼の手を見る。
「何これ……」
赤黒い筋は、すぐに薄くなっていった。だが、完全には消えない。掌の皮膚の奥に、細い汚れのようなものが残っている。
「いつもの魚じゃなかった」
レイは言った。
「弱ってるんじゃない。あれは……」
言葉が出なかった。
その少し離れた場所で、アビスが頭を押さえた。漆黒のクジラが、魂の奥で尾を振る。痛みが頭蓋の内側を叩いた。アビスは一歩よろめき、壁に手をついた。
「殿下!」
護衛が駆け寄る。アビスは「問題ない」と言おうとした。だが、声が喉で潰れた。視界が赤く揺れる。葬儀の棺。泣く母親。消えた呼吸器。赤黒い魚。王宮の装置。住民の怒り。それらが一つに混ざり、頭の中で低く唸る。もっと壊せ。もっと消せ。もっと喰わせろ。漆黒の奥から、そんな衝動が浮かび上がる。違う。今は違う。壊すために来たのではない。アビスは壁に爪を立てた。石材が小さく軋む。
「誰か、水を!」
リサが叫んだ。護衛たちは動きかけたが、周囲の住民を警戒して視線が散る。その時、人垣を割って、マルシアが進み出た。大きな買い物袋を抱えていた。レイが顔を上げる。
「母さん?」
マルシアはレイを見たが、すぐにアビスへ視線を戻した。
「レイ? ちょっとこれ、持っててくれる?」
彼女はそう言うと、買い物袋をレイに押し付けた。
「どいてちょうだい」
マルシアは護衛に言った。
「こんなに顔色が悪い子を、立たせたままにするんじゃないよ」
「無礼な。殿下に近づくな」
護衛が遮ろうとする。アビスがかすかに手を動かした。
「……よい」
短い声だった。護衛は渋々下がる。マルシアは腰の小袋から布を取り出し、近くの店先に置かれていた水桶に浸した。絞ってから、アビスの額へ当てる。
冷たい布。粗い指。薬草と煤の匂い。
雨の音。煤けた天井。女の泣き声。抱きしめる腕。
知らないはずの記憶が、頭痛の奥で揺れた。
「すまない……」
アビスは掠れた声で言った。
「ありがとう、母さ――」
言葉が止まった。
アビスは、自分の口から出かけた音に目を見開いた。マルシアの手も、額の上で止まっている。
短い沈黙のあと、彼女は布を絞り直した。
「混乱してるんだよ。無理にしゃべらなくていい」
「……すまない」
「それも、今はいいよ」
アビスは目を開けた。目の前の女は、王宮の者のように怯えていない。媚びてもいない。ただ、苦しんでいる子供を見る目で彼を見ていた。その視線が、胸の奥に刺さる。離れた場所で、レイはその光景を見ていた。母が、アビスへ布を当てている。ひどく自然に。まるで、ずっと前からそうしてきたみたいに。レイの胸に、理由の分からない棘が残った。
「レイ」
リサが低く呼ぶ。レイははっとして、自分の掌を見た。赤黒い筋は、もうほとんど消えている。けれど、痛みは残っていた。奥に、まだ泥があるようだった。
回収部隊は、結局その日の作業を中止した。アビスの命令だった。だが、住民たちは彼に礼を言わなかった。父親は棺のそばに戻り、母親は泣き疲れてもなお、小さな棺から離れようとしなかった。男たちの低い声は、回収部隊が去ったあとも路地に残った。
怒りが消えたわけではない。ただ、今日はまだ燃え上がらなかっただけだ。
レイとリサは結局何もせず、工房へ戻った。パーズは説明を聞くと、一言「そうか」と言った。
「飯まで休んでろ」
それだけ言って、作業台へ戻った。
小型炉は、出かける前と同じように唸っていた。だが、その青白い光を、レイはもう綺麗だとは思えなかった。
夕方前、レイは工房を出た。誰にも声をかけなかった。向かったのは、古い廃ビルだった。第六区と第八区の境目にある、昔の集合工房の跡だ。壁はひび割れ、階段の手すりは半分落ち、屋上へ出る扉は錆びて閉まらない。レイは階段を上がった。上に行くほど、街の音が遠くなる。配管の唸りも、屋台の声も、泣き声も、怒鳴り声も、少しずつ薄くなっていく。
屋上へ出ると、下層街の空が広く見えた。煤けた建物の上を、魚たちが泳いでいる。いつもより低い。いつもより乱れている。レイは縁の近くに立ち、空を見上げた。掌の痛みは、まだ消えない。
「……ねえ、一人で行くなって言ったでしょ」
背後から声がした。振り返ると、リサが錆びた扉に手をつき、肩で息をしていた。
「ついてきただろ」
「そういうことじゃないの」
「じゃあ、どういうことだよ」
「行くなら、私も連れて行けってこと」
「だから、ついてきただろ」
リサは額に手を当て、大げさにため息をついた。
「ここまでしても気づかないんだから」
「何が?」
「聞こえてないならいい」
「なんだよ、それ」
「レイはそのままでいいってこと。ちょっと馬鹿だけど」
「ちょっと?」
「かなりって言った方がよかった?」
「遠慮しろよ」
リサは少し笑い、レイの隣に並んだ。屋上の縁には、古い看板の骨組みが残っている。そこに腰を下ろすと、眼下の路地が細い溝のように見えた。しばらく、二人は黙っていた。下では魂魄ランタンが点き始めている。青白い光が一つ、また一つと灯る。だが、そのうちのいくつかは、灯った直後に赤く瞬いた。
「今日の子さ」
レイが言った。
「うん」
「もっと早く俺が行ったら、助けられたのかな」
リサはすぐには答えなかった。風が、屋上に溜まった砂を少しだけ動かす。
「分かんない」
「嘘でも、助けられたって言うかと思った」
「そんな嘘、あんたには効かないでしょ」
「効かないか」
「効かない」
リサは膝を抱えた。
「でも、そこにいたら、あんたは絶対に手を伸ばしてた」
「それで助けられなかったら?」
「たぶん、今よりもっと落ち込んでた」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、どうしようもないな」
「うん。どうしようもない」
レイは空を見上げた。
「どうしようもないって、嫌だな」
「嫌だね」
「リサは、そういう時どうする?」
「怒る」
「誰に」
「分かんない。王宮とか、装置とか、レイとか」
「俺も入るのかよ」
「入るよ。すぐ一人で抱え込むから」
「抱え込んでない」
「今、ここに一人で来たくせに」
「……それは」
「ほら」
リサは、勝ったような顔をした。レイは言い返せなかった。その時だった。遠くの空が、赤く染まった。夕焼けではない。太陽はまだ高い。赤くなったのは雲ではなく、魚たちが泳ぐ空の奥だった。
下層街の向こう、上層街のさらに先。遠い港の方角か、あるいはインプロスの方角か。空の海そのものが、内側から赤い泥を流し込まれたように濁っていく。魚の群れが一斉に乱れた。小魚たちは散り、大きな魚の影が身を捩る。サメのような細長い影が、赤い空の中を横切った。リサが立ち上がる。
「……何、あれ」
レイは答えられなかった。
空の色が変わったのではない。向こう側にある海へ、赤い泥が流し込まれていた。
しばらくすると、赤い濁りはゆっくり薄くなった。魚たちの動きも、少しずつ元へ戻る。やがて、空はいつもの青白い色に戻った。煤けた建物、古い看板、張り巡らされたケーブル。その間を、魚たちが泳いでいる。何もなかったように。
リサは小さく息を吸った。
「……今の、見た?」
「見た」
「夕焼けじゃ、ないよね」
「違う」
「だよね」
リサは笑おうとした。笑えなかった。
「戻った」
「うん」
「戻ったから、大丈夫ってことにする?」
「できると思うか?」
「できないよね」
二人は、赤い色の消えた空を見続けた。
屋上から降りると、廃ビルの前の路地にリンキンが立っていた。白く濁った目は、空ではなく、二人のいる方へ向いている。手には古い杖。その顔は、いつもよりずっと静かだった。
「レイか」
「ばあちゃん……」
「見たかい?」
レイは眉を寄せる。
「見えてないだろ」
「見えちゃいないさ」
リンキンは空を向いた。
「でも、空が赤く息を吐いたのは分かる」
リサがレイの袖を掴んだ。レイは一歩前へ出る。
「何が起きてるんだよ」
リンキンはすぐには答えなかった。遠くの魂魄ランタンが、ひとつ赤く瞬く。それを合図にしたように、別のランタンもまた赤く瞬いた。
「前兆だよ」
「何の」
「海が、怒りを堪えきれなくなっている」
リンキンの声は低い。脅すような声ではなかった。ただ、もう知っていることを告げる声だった。
「怒ってるって、誰に」
「帰る場所を奪われた魂は、いつまでも黙ってはいない」
「誰に怒ってるんだよ」
「奪った者全部にさ」
レイの掌が痛んだ。赤黒い魚に触れた時の、泥のような冷たさが蘇る。リサは何も言わない。リンキンは杖を握り直した。
「次は、戻らないかもしれないね」
その言葉の直後、頭上を大きな影が通った。大きな、サメのような魂だった。今まで見たどの魚よりも低い場所を泳いでいた。建物の壁をすり抜け、魂魄管を抜け、路地にいる人々の頭上を滑るように進む。腹の一部が、赤黒く濁っている。誰かが叫んだ。魂魄ランタンが一斉に明滅する。青白い光が、赤く瞬き、また戻る。
レイは空を見上げた。
リサの手が、彼の袖を強く掴んでいた。
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