読み込み中...
読み込み中...
第10話 / 全15話
世界が、白く弾けた。
音はなかった。ただ、光だけがあった。瓦礫の広場も、血の匂いも、壊れた魂魄管の火花も、遠くで泣く声も、全部が白い光に呑まれていく。レイはリサを抱いたまま、その光の中へ落ちた。いや、落ちたのか、浮いたのかも分からない。足元が消え、腕の中の重みも消えた。けれど、リサの魂だけは見えていた。爪の先ほどの、小さな魚。淡く、やわらかく、今にも消えそうで、それでも確かにそこにある光。
「リサ!」
叫んだつもりだった。声は水の中へ落ちたように、遠くへ広がっていった。
次の瞬間、レイは海の中にいた。いや、空と海、どちらでもあった。上も下も分からない。暗くも、明るくもない。
無数の魚が、音もなく流れている。青白い小魚。透き通った細長い魚。大きな影。遠くを泳ぐ、山のような巨大魚。
名前を持つ前の光も、名を失って還ってきた光も、同じ流れの中を泳いでいた。
レイは息を吸おうとして、息をしていないことに気づいた。体があるのかも分からない。手を見ようとしても、そこにあるのは自分の輪郭のような白い光だけだった。
「……ここは」
「分からない」
声がした。振り向くと、そこにアビスがいた。いや、アビスに見える何かだった。黒い外套も、王宮の服も、魔導機もない。ただ、漆黒の輪郭をまとった少年が、そこに立っている。彼の背後には、巨大なクジラの影がゆっくり尾を振っていた。レイは自分の背後を見た。小さな白い魚がいた。爪の先ほどに小さい。けれど、どこか強い輝きを秘め、どこまでも澄んでいる。その魚はレイのそばを一周し、また背後へ戻った。
「リサは」
レイが言う。
「さっき、確かに」
アビスも周囲を見回した。無数の魂の中に、淡い光がひとつ泳いでいる。
リサだった。
レイは走ろうとした。だが、足がない。手を伸ばそうとしても、距離が分からない。
リサの魂は、二人から少し離れた場所で、ゆっくり空の海へ向かっていた。帰ろうとしている。そう見えた。
レイは息を吐く。吐けないはずなのに、胸の奥が少しだけ緩んだ。せめて、帰れるのなら。そう思った。
その瞬間、海が歪んだ。リサの魂が、かすかに揺れる。上へ向かっていたはずの小さな魚が、横へ流された。いや。流されたのではない。引かれている。
「……リサ?」
レイが呟く。小さな魚は、抵抗するように尾を振った。だが、流れがある。見えない大きな流れがリサの魂をどこかへ引っ張っている。
アビスがその先を見た。遠く。海の底とも空の奥とも分からない場所に、巨大な光があった。青白い。けれど、濁っている。無数の魂がそこへ引き寄せられ、吸い込まれ、砕かれている。大魂魄炉。王都の心臓。魂を燃料に変える巨大な炉。
レイは手を伸ばした。
「やめろ」
届かない。リサの魂は、すぐには吸い込まれない。だが、少しずつ引かれている。ゆっくり。確実に。帰るはずの海から、引き剥がされるように。
「やめろ!」
レイの声に、海が震えた。その震えが、別の記憶を呼び起こした。
──でもさ
誰かの声がした。リサの声だった。海の中に、別の夜が開く。
レイは見覚えのある屋根の上にいた。いや、立っているように感じていた。下層街の夜景。青く点滅する魂魄管。壁の隙間から立ち上る湯気。その上を、魚たちが泳いでいる。隣では、リサが膝を抱えて空を見上げていた。
「もし、いつか私が魚になったらさ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「いいじゃん、話くらい」
「よくない」
「私は、ちゃんと空に帰りたいな」
レイは黙った。リサは膝を抱え、足先を揺らしている。そして、目の前を泳いでいた魚をつつくような仕草をした。
「こんな風に、空を泳ぐ方がいい。自由にさ」
「……当たり前だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、この街では当たり前じゃないよ」
レイは答えられなかった。記憶の中のリサは笑っていた。いつものように。けれど、その横顔だけは、少し大人びて見えた。
「だからさ、レイ。もし私が迷ってたら、ちゃんと空に帰してね」
「嫌だ。そういう約束はしない」
「頑固」
「そっちこそ」
リサは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「じゃあ、今のなし。でも、覚えてて」
「なしなんじゃないのかよ」
「なしだけど、覚えてて」
「無茶苦茶だ」
二人は笑った。笑い声が、海の中で遠く伸びていく。その時、記憶の夜に青白い柱が立ち上がった。王宮の塔の奥。夜空を貫くような光。
「何だ、あれ」
「王宮……?」
光の柱が脈打つ。空を泳いでいた小さな魚たちの動きが変わった。自然な泳ぎではない。上層街の方角へ、見えない手で掴まれたように流されていく。一匹の小魚が、レイのすぐ近くを通った。苦しそうに震えている。光が乱れている。レイは手を伸ばした。だが、届かなかった。小魚は上層街へ吸い込まれていく。低い唸りが、街の底から響いた。炉の音だった。
「なに、あれ……」
リサの声が震える。レイは空を睨んだ。その記憶を、アビスも見ていた。知らないはずの夜。知らないはずの会話。けれど、リサの「覚えてて」という声だけは、彼の胸にも落ちた。レイは、ようやく約束の意味を知った。
記憶が割れた。海が黒く揺れる。
次に流れ込んできたのは、もっと古い夜だった。まだアビスが、アビスという名前を持っていなかった頃。雨漏りの跡が残る天井。古い鍋を磨くランドの声。寝台代わりの板の上で笑う、若いマルシア。その時、家の外が騒がしくなった。電線の間を泳いでいた小魚たちが、いっせいに散る。布で塞いだ窓が内側から押されたように膨らむ。
「なんだ?」
天井を、大きな影が通った。夜空を覆うほどの漆黒の魚。魚というより、クジラに近い。屋根も煙突も電線も、その影に呑まれていた。
「クジラだ!」
「魂の定着だ! どこの家だ!」
漆黒のクジラは、ゆっくりとランドたちの家へ降りてきた。壁も屋根も関係なく、黒い魂が部屋を満たす。ランドは尻餅をつき、マルシアは腹を押さえた。クジラは彼女の腹へ吸い込まれていった。アビスは、その光景を外から見ていた。同時に、内側からも見ていた。名もない命の奥へ、漆黒が沈んでくる。
「おい、マルシア」
「なに」
「今の、うちの子に入ったのか」
「たぶん……」
「でかかったな」
「怖かった」
「でも、すげえ……すげぇぞ!」
ランドの声には、どうしようもないほどの興奮が混じっていた。歓声にも似た近所の声が漏れてくる。
「なあ、マルシア。聞いたか。王家にでも、だってよ!」
「声を落として」
「だって、すげえじゃねえか! 俺たちの子だぞ!」
マルシアは腹を抱きしめていた。その手の温かさが、アビスの魂の奥へ届く。まだ生まれていない。まだ顔もない。まだ名前もない。それでも、あの手は自分へ向けられていた。
場面が飛ぶ。
雨の夜。湯気の満ちる狭い部屋。リンキンがマルシアの手を握っている。ランドは部屋の隅でおろおろしていた。赤子の産声が響いた。リンキンが赤子を受け取り、布で包む。
「男の子だよ」
「見せて……」
マルシアは震える腕で我が子を抱いた。ランドは膝から崩れるように近づく。
「俺の……俺たちの子か」
「そうよ」
マルシアは泣きながら笑った。
「あなたの子よ」
「触ってもいいのか」
「父親でしょ」
「壊しそうで怖え」
リンキンが鼻を鳴らした。
「ふん。そんな柔な魂じゃないさ」
そこまでだった。雨音の向こうに、足音が混じる。
「ランド、扉から離れな」
扉が蹴破られた。黒い外套の男たちがなだれ込んでくる。下層街のならず者ではない。訓練された兵の足運びだった。
「なんだ、お前ら!」
ランドが殴り飛ばされる。
「やめて! この子に触らないで!」
マルシアが赤子を抱きしめる。リンキンの杖が男の膝を打つ。だが、別の男に突き飛ばされる。
「婆さん!」
ランドが起き上がろうとした隙に、赤子は奪われた。
「返して! お願い、返して!」
アビスは、その声の中にいた。布越しの冷たさ。母の腕から離れる寒さ。遠ざかっていく体温。男は別の赤子をマルシアの腕へ押し付けた。
「違う……この子じゃない……この子じゃないのッ!」
床に金貨が散らばる。魂魄ランタンの青い光を受けて、金貨は濡れたように光った。ランドの足が止まる。
「これだけあれば」
声が漏れた。
「これだけあれば、出られる」
「何を言ってるの」
「下層街から出られる。借金も返せる。いや、返さなくてもいい。どこか遠くへ行ける。飯だって毎日食える。お前に薬だって……」
「私たちの子が奪われたのよ!?」
リンキンの杖が床を叩く。
「馬鹿者!」
「痛えなババア!」
「外の音を聞け!」
雨の向こうから、低い笑い声と金属を引きずる音がした。
「その金は報酬じゃない。餌だよ。お前らを殺すための餌だ」
窓の外には、武器を持ったならず者たちがいた。
「あの家、金だらけだ」
「王宮も見逃すって話だ。早い者勝ちだろ」
ランドの顔から血の気が引いていく。さっきまで未来に見えていた金貨が、罠に変わる。
「俺は……ほんと、どうしようもねえな」
板が叩かれ、壁が揺れた。ランドは金貨を両手で掴み、窓から外へ投げる。
「ほらよ!」
金貨が雨に散る。
「金だ!」
「拾え!」
「欲しいんだろ! 全部くれてやる!」
ランドはマルシアへ振り返った。
「マルシア、逃げろ」
「嫌……あの子が……」
「分かってる!」
その声は、マルシアだけではなく、自分自身へも向けられていた。
「分かってる。でも今ここにいたら、お前まで死ぬ。行け!」
「でも、この子は、私の子じゃない!」
ランドは、マルシアの腕の中の赤子を見た。憎くないはずがない。だが、床へ転がされる赤子を想像した瞬間、彼の喉が詰まった。
「置いていけねえだろ」
「どうして」
「俺たちの子を奪った連中と、同じになっちまう」
ランドは古い工具を掴んだ。足は震えていた。死にたくない顔だった。それでも、扉の前へ立った。
「マルシア」
「何よ」
「すまねえ」
扉が破られる。金貨の音。男たちの怒声。ランドの叫び。
「こっちだ! 金はここだ!」
マルシアが雨の中へ転がり出る。ランドの声が、一度だけ届いた。
「走れ!」
そこで、アビスの喉が詰まった。見ていたのではない。奪われていた。自分は、あの家から奪われた赤子だった。ランドとマルシアの子。まだ名前を付けられる前に、王宮へ連れていかれた子だった。
「……俺、なのか」
声が震えた。
「これは、俺の……」
膝が折れる。海の中に床などない。それでも、アビスはそうするしかなかった。
「母、さん……」
言葉は、雨の記憶の中へ落ちていった。
次に開いたのは、王宮の夜だった。磨き上げられた白い石壁。魂魄灯の淡い光。厚い硝子越しに見る魚たちは、下層街より遠く、整えられた絵画のようだった。若いルナリアスが、広い寝室の窓辺に立っている。
「お体に障ります。そろそろお休みくださいませ」
「もう少しだけ」
寝室の扉が開いた。ダウジルが、数名の重臣を連れて入ってくる。
「まだ起きていたのか」
「陛下」
「よい。今夜は宮廷魔導師どもが騒がしい。空の流れが良いらしい」
ルナリアスは、腹に手を当てた。
「良い流れなら、きっと良い子が来てくれますね」
「当然だ。王家には、王家にふさわしい魂が宿る」
「お名前はどうなさいますか?」
「名などどうでもよい。そなたが考えよ」
「では、以前から考えていた名がありますの」
「言ってみよ」
「レイスティン」
「……ふむ。悪くはない」
その言葉の直後、彼女の腹の奥に小さな熱が灯った。天井を、何かがすり抜けてくる。爪の先ほどの魚。小さい。だが、白金色の光を帯びたその魚は、部屋に満ちる魂魄灯の青を押しのけるように輝いていた。魚はルナリアスの前で一度だけ円を描き、彼女の腹へ吸い込まれる。
「来てくれた……」
目から涙が零れた。レイは、その光を知っていた。掌で消えかけの魚を掬った時に見える光。傷ついたものが、もう一度形を取り戻す時の光。それは弱さではなかった。だが、ダウジルの眉は寄っていた。
「今のは何だ」
「魂の定着でございます。王妃殿下に、御子が……」
「そんなことは見れば分かる。余が聞いているのは、なぜあのような小魚だったのかということだ」
「陛下、とても美しい魂でした」
「美しい? 美しいだと!?」
ダウジルの声が冷える。
「王家の第一子だぞ。国中が待っている王位継承者だ。そこに、あのような雑魚が宿った」
「雑魚などではありません」
ルナリアスの声は震えていたが、退かなかった。
「命の大きさを、魂の大きさだけで決めるのですか」
「民はそう見る。貴族もそう見る。諸国もそう見る。王家の魂が小さいとなれば、ヴィザリウスの威信は落ちる」
「でも、この子は……」
「その腹の子は、国のものだ」
ルナリアスは言葉を失った。ダウジルは重臣たちへ命じる。
「他に大きな魂の定着がなかったか調べろ。今夜の流れなら、どこかに現れているはずだ」
重臣たちが去ったあと、ルナリアスは腹を撫でた。
「大丈夫よ」
誰にも聞こえない声で囁く。
「あなたは、私の子よ」
その声を聞いた瞬間、レイの奥で何かが震えた。まだ名前はない。けれど、確かに自分へ向けられた声だった。
場面が砕ける。王宮の密談。
「王家には爪の先ほどの雑魚が宿った。下層街には漆黒のクジラが宿った。民が知れば何と言う?」
「王家にふさわしい魂が、下賤の家に落ちた。ただそれだけのことだ。本来あるべき場所へ戻す」
「すり替えるのですか」
「言い方を選べ。王家に必要なものを迎えるだけだ」
「王妃殿下は……」
「知らせる必要はない」
そして、雨の夜の終わり。世界がうねるように場面を変えた。
王宮の絹の上に、漆黒の気配を宿した赤子が寝かされる。ダウジルは満足げに見下ろした。
「見よ。これこそ、王家の魂だ」
「御名を」
少しの沈黙。
「アビサリウス」
赤子が短く泣いた。
「アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウス。第一王子として育てる」
その場に、実母はいなかった。ルナリアスは地下へ連れていかれていた。湿った牢へ押し込まれ、冷たい床に座り込む。産後の体を抱えたまま、彼女は扉の向こうへ声を投げた。
「私の子を返して」
看守は答えない。
「お願い……あの子を……」
鉄の扉が閉ざされる。小さな窓から、ほんの少しだけ空が見えた。ルナリアスは震える指を伸ばす。
「生きていて」
声は石壁に吸われた。
「どうか、生きていて」
場面が、十六年分の暗闇を落とす。地下の部屋。ルナリアスは痩せていた。髪は乱れ、手首には拘束の痕がある。それでも、目は狂っていない。ただ、同じ言葉を抱えているだけだった。
「返して」
かすれた声。
「私の子を返して」
レイは声を出せなかった。王子だったからではない。血筋を知ったからでもない。自分を産んだ母が、ずっとこの闇の中で泣いていた。それを知ってしまったから。アビスも、何も言えなかった。自分に与えられた地位、名、服、魔導機、そして第一王子という呼び名。その全部が、二人の母の叫びの上に作られていた。
「……知らなかった」
アビスが呟いた。レイは答えなかった。知らなかった。その言葉だけでは、何も戻らない。けれど、アビスだけを責める言葉は出なかった。彼もまた、奪われた赤子だった。名前を付けられる前に、母から引き剥がされた子供だった。
海がさらに深くなる。二人は、記憶ではない場所へ流された。そこには無数の魂があった。生まれる前の魂。死んで還る魂。本来なら、ゆっくりと巡り、また新しい命へ向かうはずの流れ。
だが、その流れの一部が、歪んでいた。大きな渦。王都の中心から伸びる、巨大な引力。大魂魄炉。魂たちがそこへ吸い込まれていく。
小さな魚たちは抵抗もできず、流れを曲げられる。死者の魂も、生まれる前の魂も、区別なく炉へ引かれ、砕かれ、圧縮され、燃やされていく。
その光が王宮を照らし、噴水を動かし、都市を支えていた。
そのたびに、魂の海は少しずつ痩せていく。還るべきものが還れず、生まれるべきものが生まれられない。やがて、溜まり続けた怒りが赤く濁る。
『赤潮』。
悪意ではない。帰れず、燃やされ続けた魂の痛みだった。
戻せ。
戻せ。
戻せ!
レイの掌が痛んだ。アビスの胸の奥で、漆黒のクジラが唸った。
その時、渦の手前にリサの魂が見えた。それが、ゆっくりと炉の方へ引かれている。
完全に吸い込まれてはいない。まだ、海へ帰ろうとしている。けれど、流れが強すぎる。リサの小さな尾びれが震える。
レイは叫んだ。
「リサ!」
手を伸ばす。届かない。アビスも手を伸ばす。
「戻れ!」
届かない。リサの魂は、少しずつ、少しずつ、大魂魄炉へ引かれていく。
レイは歯を食いしばった。助けられなかった。救えなかった。
それだけでも足りないのか。まだ奪うのか。
二度も。二度も、リサを殺すのか。
海の奥で、巨大な白い光が広がった。その中心に、爪の先ほどの魚がいる。小さい。だが、その光は海の底まで届いていた。
白い光が壊れた魂へ触れる。裂かれた流れがつながり、欠けた魚が形を取り戻していく。
レイは理解した。言葉ではなく、魂が知っていた。
レイスティン。
同時に、海の奥から漆黒のクジラが現れた。アビスの背後にいた影とは比べ物にならないほど大きい。空の海そのものを裂くような黒。
それが尾を振ると、魂を縛る鎖が砕けた。流れを塞ぐ壁が壊れ、その裂け目へ白い光が流れ込んでいく。
壊さなければ、解けない。
治さなければ、戻らない。
二人の力は、最初から一つの流れを取り戻すためにあった。
レイとアビスは、同時にリサの魂を見た。まだ、間に合う。まだ、消えていない。
「あんなもんが」
声が震える。だが、もう折れてはいなかった。
「あっちゃいけないだろ」
アビスは静かに頷いた。
「ああ」
漆黒の瞳が、大魂魄炉の渦を見据える。
「あってはならない」
リサの魂が、また少し引かれる。レイは叫びそうになる。だが、今この場所では届かない。分かってしまった。だから戻るしかない。現実へ。大魂魄炉のある場所へ。リサの魂を、空へ帰すために。
「リサを」
レイは言った。
「二度は殺させない」
アビスが答えた。
「当然だ」
白い魚が光る。漆黒のクジラが尾を振る。
そして、海が割れた──
レイは瓦礫の広場で目を開けた。現実の空は、もう青白く戻っていた。赤潮は消えている。だが、街は壊れていた。
壁は崩れ、魂魄管は裂け、どこかでまだ火が燻っている。遠くから、泣き声と助けを求める声が聞こえた。
腕の中には、リサの体があった。冷たくなり始めている。
レイは一度、きつく目を閉じた。今は、まだ終わっていない。リサはまだ空へ帰れていない。
レイはそっとリサを地面に横たえた。乱れた髪を整える。
「待ってろ」
小さく言う。
「絶対に帰すから」
アビスも目を開けていた。彼は黙って自分の両手を見ていた。王宮の手袋は破れ、指先には血と煤がついている。
「……見たか」
レイが言った。
「ああ」
アビスは頷く。
「全てではない。だが、十分に」
「俺もだ」
沈黙。互いに知ってしまった。レイは立ち上がった。膝が震えた。それでも立った。アビスも立ち上がる。黒い魔導機は少し離れた場所で煙を上げていたが、まだ動く。王宮は遠い。だが、行かなければならない。レイはリサをもう一度だけ見た。それから、アビスを見た。
「リサを、空に返す」
声は低かった。アビスは頷いた。レイは一歩踏み出す。
「行くぞ、アビサリウス」
アビスの目がわずかに揺れた。それでも、その名を否定しなかった。
「ああ」
彼はレイの隣に並んだ。
「行こう、レイスティン」
今度はレイが、その名を受け取った。
二人は行かなければならない。瓦礫の向こう。王宮へ。大魂魄炉へ。リサを空へ帰すために。壊された世界の流れを、取り戻すために。
この話はいかがでしたか?
この作品を評価する