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第11話 / 全15話
赤潮は去っていた。
空は、何事もなかったように青白く戻っている。だが、街は戻らない。
崩れた壁、裂けた魂魄管、折れた看板、焼けた屋台。石畳にはまだ黒い水が溜まり、そこに魂魄灯の光が歪んで映っていた。
遠くから、誰かの泣き声が聞こえる。助けを呼ぶ声もある。瓦礫の間では、まだ火が燻っていた。
レイは、その中で立っていた。リサを地面に横たえたまま、足が動かなかった。
髪を整え、頬についた泥を親指で拭った。それで何かが変わるわけではない。分かっている。それでも、拭わずにはいられなかった。
リサは目を閉じていた。いつもなら、勝手に触るなとか、顔が暗いとか、また何か言ってくるはずだった。
何も言わない。それが、いちばんおかしかった。
「……行くんじゃなかったのか」
アビスの声がした。レイは振り向かなかった。
「置いていけるわけないだろ」
「ああ」
「急げって言わないのか」
「言えば、お前は怒る」
「分かってるじゃねぇか」
「リサと約束したからな」
レイは唇を噛んだ。
──喧嘩しないで。
最後の声が、まだ耳の奥に残っている。レイは、歯を食いしばるしかなかった。
「……そうだな」
レイはようやく顔を上げた。少し離れた場所に、アビスが立っていた。
黒い魔導機はその背後で膝をつくように傾いている。右肩の装甲は焼け焦げ、脚部からは細い煙が上がっていた。胸部の王家紋章にも傷が入り、青黒い光が装甲の隙間で弱く脈打っている。
下層街の人間たちは、遠巻きにそれを見ていた。近づく者はいない。そして、その黒い影を目印にして、瓦礫の向こうから二人が走ってきた。
「レイ!」
マルシアだった。その後ろに、工具袋を肩にかけたパーズがいる。パーズは息を切らしていた。普段なら、走るなど年寄りのすることではないと文句を言うはずの男が、顔色を変えて瓦礫を乗り越えてくる。
パーズはまず黒い魔導機を見上げ、反射のように舌打ちした。
「右肩、焼けてやがる。脚部の反動吸収もずれてる。胸部の炉圧逃がしまで……」
そこで、言葉が止まった。視線が、機体から地面へ落ちる。リサがいた。パーズの手から工具袋が落ちた。金属の重い音が、瓦礫の広場に響く。
「……リサ?」
返事はない。パーズは一歩近づいた。もう一歩。膝をつく。伸ばした手が、リサの肩に触れる前で止まった。
「おい」
パーズの声は、怒鳴り声ではなかった。かすれていた。
「返事しろ」
リサは答えない。
「いつもみてぇに、余計なこと言えよ」
マルシアが口元を押さえた。レイは、何も言えなかった。パーズはリサの前でしばらく動かなかった。怒るでもなく、泣くでもなく、ただそこにいた。やがて、低く息を吐いた。
「……何があった」
レイは唇を開いた。声が出ない。代わりに、アビスが答えた。
「赤潮だ」
パーズはアビスを見た。目が鋭くなる。だが、怒鳴らなかった。
「それは見りゃ分かる」
アビスは一度目を伏せた。
「リサの魂が、大魂魄炉へ引かれている」
パーズの顔から、別の色が消えた。マルシアも息を呑む。
「レイ」
マルシアが近づいてくる。
「あなた、怪我は」
「大丈夫」
「大丈夫な顔じゃないわ」
「……平気だよ」
マルシアは、レイの頬に手を伸ばしかけた。だが、途中で止めた。レイが、もう決めている顔をしていたから。
「どこへ行く気?」
レイはリサを見た。それから、王宮の方角を見る。
「大魂魄炉へ行く」
「何を言ってるの」
「リサは、まだ空に帰れてない」
マルシアの肩が震えた。
「大魂魄炉に引かれてる。このままだと、リサの魂が燃料にされる」
「レイ」
「行かなきゃ」
マルシアは首を横に振りかけた。だが、言葉は出なかった。この顔をしたレイが止まらないことを、彼女は知っている。それがリサなら、なおさらだった。
パーズが、ゆっくり顔を上げる。
「見たのか」
「ああ」
「魂の海を?」
「見た」
パーズは舌打ちした。今度の舌打ちは、機械に向けたものではなかった。自分自身を噛むような音だった。
「……最悪だな」
レイは眉を寄せた。
「パーズさん?」
「勢いで王宮に突っ込むな。死ぬだけだ」
「じゃあ、どうしろってんだよ」
「死なねぇように突っ込む準備をするんだよ、馬鹿」
いつもの調子に近い声だった。だが、リサを見ないようにしている。それが、かえって痛かった。アビスが一歩前へ出た。
「王宮へは、私が通す」
「第一王子だからか」
「今は、それを使うしかない」
「王宮が素直に通すと思ってんのか」
「途中までは通せる。大魂魄炉管理区の内側は、分からない」
「最奥は王族だけじゃ無理だ。王命認証か、技官長認証が要る」
アビスがパーズを見る。
「なぜ知っている」
パーズは、瓦礫の上に落ちた工具袋を拾い上げた。中身の何本かが曲がっている。それを乱暴に戻しながら言った。
「俺が基礎を組んだからだ」
レイが顔を上げる。
「基礎って」
「大魂魄炉の基礎理論だ」
マルシアも、パーズを見た。風が吹いた。壊れた看板が、ぎい、と鳴る。パーズは鼻で笑おうとして、失敗したような顔をした。
「黒い魔導機も、あの炉の基礎理論も、最初の図面は俺が引いた」
「聞いていない」
アビスの声が低くなる。
「王宮が言うわけねぇだろ。追い出した技師の名前なんざ」
パーズは黒い魔導機へ目をやった。それは、壊れかけた獣のように瓦礫の中で沈黙している。
「魂魄炉をでかくすれば、街ひとつ動かせる。そう考えた。若かった。面白かったんだよ。理屈が組み上がっていくのが」
レイは何も言わなかった。パーズの声は淡々としていた。
「だが途中で気づいた。あれは炉じゃねぇ。海に穴を開ける装置だ」
パーズは、王宮の方を見た。
「止めた。図面も閉じた。危ねぇから使うなと言った」
「王宮は」
「やれと言った」
短い答えだった。
「断ったら、俺の机はなくなった。あとは別の技官どもが引き継いだ。理屈だけ持っていきやがった」
「パーズさんのせいじゃない」
レイは言った。言わずにはいられなかった。パーズは、リサを見た。
「そう言ってくれるのはありがてぇがな」
その声は静かだった。
「それで、こいつが帰ってくるわけじゃねぇ」
パーズは立ち上がって、顔を手の甲でこする。油と煤が頬に伸びた。
「いいか。炉は殴れば止まるもんじゃねぇ。止め方を間違えりゃ、下層街ごと吹っ飛ぶ」
「吹っ飛ぶ?」
「魂魄圧が一気に逆流する。圧縮された魂魄が逃げ場をなくして、管を裂く。大通りの魂魄管が全部破裂すりゃ、火どころじゃ済まねぇ」
アビスが頷く。
「制御区画があるはずだな」
「ああ。外殻、調圧、炉心前。三つ抜けなきゃ本炉には届かねぇ。外殻までは王族権限でいける。調圧から先は技官長か王命認証だ」
「壊せば」
「壊すなら順番を間違えるな。お前の力は便利だが、何でもかんでも粉にすりゃいいってもんじゃねぇ」
アビスは言い返さなかった。
パーズは工具袋を開いた。
「機体は動くか」
「動く」
「嘘つけ。右脚の反動吸収が死にかけてる。乗って数歩で倒れるぞ」
「問題ない」
「バカ。倒れて問題ないワケねぇだろ」
パーズは黒い魔導機へ歩いた。装甲の隙間へ工具を突っ込み、焼けた外部魂魄管を引き抜く。青黒い火花が散った。
「レイ、そこの箱を開けろ。赤い封印紙のあるやつだ」
「これか」
「そうだ。触るときは手袋を着けろよ。中身は対魂魄圧仕様の防護布だ。素手で触ると指先が痺れる」
「言うの遅い!」
「まだ触ってねぇだろ」
「触りかけたんだよ」
「だから遅くねぇ」
レイは手袋を着け、箱を開けた。中には、黒灰色の布が畳まれていた。布というより、細い金属糸と魂魄繊維を編み込んだ外套だった。パーズが振り返る。
「お前が着ろ」
「俺?」
「大魂魄炉の近くは魂魄圧が高い。普通の服で近づいたら、立ってるだけで中身を引っ張られる」
「中身って」
「魂だよ」
レイは言葉を失った。パーズは外套を掴み、レイへ投げた。
「似合う似合わねぇは知らん。死ににくくなる」
「……ありがと」
「礼は帰ってから言え」
パーズは次にアビスへ向いた。
「お前は機体を使うな」
「なぜだ」
「さっきも言っただろ。数歩で倒れる。車両で戻れ」
「機体は」
「俺が応急でやる。あとで運ばせろ。炉心で使う前には間に合わせる」
「本当に間に合うかのか?」
「俺を誰だと思ってる」
いつもなら、そこに少しだけ笑いが混じる。だが、誰も笑わなかった。
「まぁ、ちょっとだけ手伝っていけや。そこ、押さえてくれ」
アビスは焼けた魂魄管を押さえた。パーズが眉を寄せる。
「強く握るなよ。割れる」
「分かった」
「分かったじゃねぇ。指先に力が入ってる」
「……こうか」
「そうだ。今は壊す場面じゃねぇ」
アビスは黙って頷いた。煤と血で汚れた手袋の指先が、細い魂魄管を支える。
少し離れたところで、マルシアはその手元を見つめていた。
その仕草に、ふいに別の男の姿が重なった。古い鍋の取っ手を直そうとして、力を入れすぎ、余計に曲げてしまった男。赤子に触れるのを怖がって、壊しそうで怖え。そう言った男。
マルシアの呼吸が止まった。アビスが、少しだけ顔を上げる。その角度。眉の寄せ方。何かを怖がりながら、それでも手を離さない顔。
「あなた……」
声が漏れた。アビスは作業の手を止めた。
「はい」
マルシアは一歩近づいた。けれど、それ以上は近づけなかった。
「もしかして」
アビスは、困ったような顔をした。驚きはしなかった。ただ、どう答えればいいのか分からない顔だった。
「ええ」
短い返事。それから、少し間を置いて続けた。
「そのようです」
「……そう」
「魂が、教えてくれました」
マルシアは、両手を握り込んだ。聞きたいことはあった。どこで育ったのか。痛い思いをしなかったか。誰に抱かれたのか。泣いた時、誰かが来てくれたのか。名前を呼んでくれる人はいたのか。それとも、ずっと一人だったのか。どれも聞けなかった。今、聞いてしまえば、きっと止めてしまう。抱きしめてしまう。行かないでと言ってしまう。だから、マルシアは息を吸った。無理に、笑った。
「そう」
もう一度、同じ言葉を言う。それから、アビスの目を見た。
「なら、あなたも無事に帰ってらっしゃい」
アビスの顔が、わずかに揺れた。王宮で彼に向けられた言葉は、いつも命令だった。行け。壊せ。守れ。やれ。迷うな。帰ってこい、とは言われなかった。アビスは背筋を伸ばした。
「はい」
それだけだった。マルシアは頷いた。そして、すぐにレイを見る。
「レイ。あなたもよ」
「分かってる」
「分かってない顔」
レイは息を詰めた。その言い方を、リサがよくしていた。分かってない顔。危ないことをする顔。面倒を拾う顔。何度も言われた。もう、言われない。レイは小さく頷いた。
「……約束する」
「リサちゃんだけじゃない。あなたも帰ってくるの」
「うん」
「うんじゃない。約束しなさい」
「約束する」
マルシアは、ようやくレイの頬に触れた。泥と煤に汚れている。少し擦り傷もある。生きている。それだけで、手が震えそうになった。
「破ったら許さないから」
「うん」
「また、うんって言った」
「……約束する」
マルシアは手を離した。離したくなかった。だが、離した。パーズが工具をしまう音がした。
「よし。車両を呼べ。王宮の通信器、まだ動くだろ」
アビスは懐から小型の通信器を出した。王宮の紋章が刻まれている。煤けた広場の中では、それだけが妙に白く見えた。
「第一王子アビサリウスだ。王宮車両を一台、現在地へ回せ。護衛は最小限でいい」
通信器の向こうで、慌てた声がした。アビスは聞かずに続ける。
「命令だ」
通信が切れる。レイは受け取った外套を羽織った。重い。肩に沈むような重さがある。リサに似合わないと笑われそうだと思った。そう思った瞬間、胸が痛んだ。パーズはリサの前にしゃがんだ。レイが動く。
「俺が」
パーズは振り返らずに言った。
「俺が連れて帰る」
「でも」
「お前は魂を連れて帰れ」
レイは動けなくなった。
「レイ。それをよこせ」
「……これ?」
「リサをいつまでこのままにしとくつもりだ」
レイは着ていた方の外套をパーズに投げた。煤けて、土埃にまみれた古い外套。パーズは埃を軽く払うと、リサの遺体を丁寧にくるんだ。すぐに外套に血がにじむ。パーズがまた顔をこすると、さらに頬の油と煤が伸びた。そして、ゆっくりとリサを抱き上げた。壊れ物を扱うように。けれど、力なく崩れないように、しっかりと。
「こいつの体は、俺が見る」
レイは頷いた。喉が詰まって声が出なかった。パーズはリサの顔を見下ろす。
「まったく」
低く言う。
「最後まで、手の掛かる娘だ」
その声は震えていなかった。震えないようにしているだけだった。
やがて、王宮車両の低い駆動音が近づいてきた。黒塗りの車体が、瓦礫を避けながら広場へ入ってくる。護衛車両も一台だけついていた。兵士たちは降りるなり、アビスの姿を見て一斉に頭を下げる。
「殿下、ご無事で――」
「説明は後だ」
アビスは遮った。
「この者を同乗させる」
兵士の視線がレイへ向く。下層街の少年。煤と血に汚れ、防護外套を羽織っている。王宮車両に乗せるには、あまりにも場違いだった。
「しかし」
「命令だ」
「はっ」
兵士はそれ以上言わなかった。レイは車両へ向かう前に、もう一度振り返った。パーズがリサを抱いている。マルシアがその隣に立っている。壊れた下層街の空を、小さな魚たちが泳いでいる。その中に、リサはいない。まだ、帰れていない。
「待ってろ」
レイは呟いた。
「絶対、帰すから」
車両に乗り込む。アビスも隣に座った。扉が閉まる。外の音が少し遠くなった。車両が動き出す。窓の外で、マルシアが小さく手を握っていた。パーズはリサを抱いたまま、こちらを見ている。レイは拳を握った。アビスは、王宮の方角を見ていた。
「戻れば、私は王宮の者として扱われる」
「知ってる」
「お前は、下層街の不審者として扱われる」
「それも知ってる」
「それでも来るのか」
レイは窓の外を見た。壊れた街。青白い空。リサのいない場所。
「リサと約束したからな」
アビスは少しだけ目を伏せた。
「なら、私も行く」
「お前の王宮だろ」
「違う」
短い沈黙。車両は、下層街の坂を上っていく。白い王宮の塔が、遠くに見え始めた。アビスは静かに言った。
「今からは、敵地だ」
レイは、その塔を睨んだ。空では、小さな魚の群れが王宮の方へ引かれていた。二人を乗せた車両は、青白い夜の中を進んでいった。
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