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第4話 / 全15話
パーズ工房の扉を出る前から、パーズは機嫌が悪かった。
いや、パーズの機嫌が良い日など滅多にないのだが、今夜は特に眉間のしわが深い。作業台の上には分解途中の小型魂魄炉が置かれている。古びた炉心部からは青白い光が弱々しく漏れていた。パーズはそれを片手で押さえながら、もう片方の手で油まみれの紙をレイへ突きつける。
「いいか。第七区の古物屋で、この型番の制御弁を受け取ってこい。それと、旧式魂魄管の継ぎ手。あれば古型の圧縮瓶用止め具もだ」
レイは紙を受け取り、目を細めた。
「字、汚くない?」
「読めりゃいい」
「読めないんだけど」
「心で読め」
「無茶言うなよ」
横からリサが紙を覗き込む。
「制御弁、継ぎ手、止め具。はい読めた」
「リサは心で読めるんだな」
「レイの目が悪いだけっしょ」
「ひっでぇ」
パーズは二人のやり取りを無視して、作業台の下から古い布袋を取り出した。
「それと、今日は余計なものは拾ってくるな」
レイは布袋を受け取る。
「余計なものって?」
「お前が『なんか使えそう』とか言って拾ってくる用途不明の部品だ」
「パーズさん、そういうの好きじゃん」
「俺が拾う分にはいい。お前が拾うと三倍の確率で面倒ごとがついてくる」
「今日、みんなひどくない?」
「事実じゃねーか」
リサがうんうんと頷く。
「事実だね」
「ひでぇ、味方がいない」
そして、パーズは少し真面目な顔をすると、声を低くした。
「それから、第七区は最近きな臭い。王宮直属の回収部隊が入ってる。回収業者と揉めるな。住民の喧嘩にも首を突っ込むな」
「分かってるよ」
「レイ、お前は特にだ」
そこでパーズは、わざわざレイを指差した。リサがすかさず、低い声を真似る。
「レイ、お前は特にだ」
「似てない」
「じゃ、レイの顔真似ー」
「俺、そんな顔してる?」
「してる。今も」
リサはレイの眉間を指でつついた。レイはむっとしたが、パーズの視線に気づいて肩をすくめる。
「分かった。余計なことはしない」
「お前の『分かった』ほど信用ならねえものはねぇ。王家が言う『民のため』よりもな」
「ひどいな」
「リサ。見張っとけ」
「はーい、任されました」
リサは胸を叩いた。パーズはまだ不安そうな顔をしていたが、やがて大きくため息をつく。
「用が済んだらすぐ戻れ。第七区で魚が変な動きをしてるって話もある」
その言葉に、レイは少しだけ顔を上げた。
「魚が?」
「見に行くなよ? 絶対に行くなよ?」
「そういわれると行きたくなる」
「フリじゃねぇぞ? これはまじめな話だ。見に行こうとする顔をするな」
「してない」
リサがまた頷いた。
「してる」
「してないって」
パーズは工具を掴み直した。
「んじゃ、ま、行ってこい。で、無事に帰ってこい。これが一番大事だ」
その言い方だけは、いつもの怒鳴り声より少しだけ重かった。レイは布袋を肩にかける。
「行ってくる」
「さっさと帰ってこい」
リサが扉を開けた。外の夜気が、工房の油と金属の匂いを押し返す。下層街には、今日も魚たちが泳いでいた。
第七区へ向かう道は、いつもより暗かった。
魂魄ランタンは灯っている。けれど、光が安定していない。青白い火が、細くなったり、急に膨らんだりを繰り返していた。壁の配管の中を流れる魂魄エネルギーも、時々詰まったように明滅する。
頭上では小さな魚たちが低いところを泳いでいた。普段なら看板や屋根の上あたりを漂っている小魚が、今夜は人の肩先をすり抜けるほど低い。逃げ場を探すように、右へ左へ揺れている。
レイはつい目で追った。リサが横から肘で突く。
「ほら、見ない」
「まだ何もしてない」
「してないけど、しそう」
「信用ないな」
「ある。助ける方に」
「それ、信用って言うのか?」
「言うよ。困った方の、だけどね」
レイは苦笑した。通りの端では、腰の曲がった老人が露店の布を片づけていた。いつもなら夜遅くまで干からびた薬草や古布を並べているのに、今日は早々に店じまいしている。リサが声をかけた。
「あれ? 爺さん、もう閉めるの?」
老人は白く濁った目で空を向いた。
「今夜は、海が荒れとる」
レイも空を見た。魚は泳いでいる。ただ、その泳ぎ方がどこか落ち着かない。リサはわざと軽い声を出す。
「またそういう怖いこと言う」
「若い者は、灯りがついていれば安心する。だがな、灯りの下で魚が震えている夜は、ろくなことがない」
「じゃあ、私たちも早く帰る」
「そうしろ。特にそこの坊主はな」
老人の白い目がレイの方を向いた。レイは少しだけ背筋を伸ばす。
「なんで俺だけ?」
「そういう顔をしとる」
「どんな顔?」
「面倒を拾う顔じゃ」
リサが吹き出した。
「ほら、第三者からも言われた」
「そんな顔ある?」
「あるんじゃない?」
「ないだろ」
リサはレイの袖を引いた。
「ねえ。用だけ済ませて帰ろう。ほんとに」
「ああ」
レイは頷いた。その時、遠くの広場から怒鳴り声が聞こえた。リサの手に力が入る。
「行かない」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めたの」
レイは口を閉じた。怒鳴り声は一つではない。何人もの声が重なっている。金属を叩く音と、魂魄炉の低い唸りも混じっていた。目的の古物屋は、その広場の向こう側にある。リサは顔をしかめる。
「……迂回する?」
「遠回りになる」
「遠回りしよう」
「でも、パーズさんに急げって」
「急いで面倒に突っ込むのは違うでしょ」
正論だった。レイは頷きかける。しかし、広場の方から子供の泣き声が聞こえた。二人の足が、ほとんど同時に止まる。リサが目を閉じた。
「……聞こえなかったことに、できないよね」
「ごめん」
「謝るの早い」
「先に謝っといた」
「腹立つなあ」
リサは小さく息を吐き、レイの腕を掴んだ。
「見るだけ。危なかったら帰る。約束」
「分かった」
「その分かったは信用してない」
「じゃあ、どう言えばいいんだよ」
「私が引っ張ったら走る」
「……分かった」
「今のも半分くらいしか信用してないからねー」
二人は広場へ向かった。第七区の広場には、人だかりができていた。
広場の中央には大型の魂魄回収装置が据えられていた。傘を何枚も重ねたような金属枠が広がり、その内側に青白い光の糸が張り巡らされている。そこに小さな魚の魂が絡め取られ、圧縮瓶へ吸い込まれていた。
普段の小型装置より、明らかに出力が強い。周辺の魂魄ランタンが、装置の脈動に合わせて明滅している。
装置のそばには王宮直属の回収部隊がいた。揃いの灰色外套。腰には魂魄銃。胸には王宮認可の紋章。
その周りを、住民たちが取り囲んでいる。
「だから、出力を落とせって言ってるんだ!」
「うちの灯りが何度も落ちてる!」
「病人用の呼吸器まで止まりかけたんだぞ!」
「王宮の認可作業だ。下がれ」
回収部隊の隊長らしき男が、冷たい声で言った。
「大魂魄炉の出力維持に必要な回収である。妨害すれば反逆罪に問われる」
「反逆罪だと? こっちは生活が止まってんだ!」
「民のためじゃなかったのか!?」
「雑魚魂の回収に文句を言うな。都市全体の灯りを守るためだ」
その言葉で、住民のざわめきが怒りに変わった。
レイは人垣の端に立ち、装置の方を見た。
光の糸に絡め取られた小魚たちが、苦しそうに尾を震わせている。
圧縮瓶の中に吸い込まれた魚は、ぎゅっと縮み、青白い粒になる。そのたびにレイの胸の奥がざらついた。
一匹、白く弱った小魚が、光の糸から半分抜けかけていた。だが、装置の流れに逆らえずレイの近くまでふらふらと流されてきた。
レイの手が動く。リサが掴んだ。
「だめ」
「まだ何もしてない」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「かなり」
リサの声は、いつもより低かった。
「あれ、王宮直属だよ。今ここで変なことしたら、本当に連れていかれる」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃない」
レイは小魚から目を逸らした。それだけで、胸が少し痛んだ。その時、広場の反対側から女の叫び声が上がった。
「もう止めて! この子の呼吸器が!」
見ると、痩せた女が小さな魂魄器を抱えている。古い箱型の装置で、細い管が布に包まれた子供の口元へ伸びていた。箱の中の青い灯りが消えかけたり戻ったりしている。女は泣きそうな顔で回収部隊へ駆け寄った。
「お願い、少しだけ出力を落として! この子、これが止まると息が――」
「装置に近づくな!」
兵士が女を押し返す。女はよろめき、魂魄器を抱え直した。レイの足が動きかける。リサの手に力が入った。
「レイ」
「……大丈夫。まだ行かない」
「まだって言った」
「言ってない」
「言った」
言い合っている間にも、回収装置の音が高くなっていく。光の糸が震え、圧縮瓶の一本が嫌な音を立てた。レイはそちらを見た。
「まずい」
リサが顔をしかめる。
「何が」
「あの瓶、ひびが入ってる」
「前にもあったろ? まったく、管理体制はどうなって──」
次の瞬間、圧縮瓶の側面から赤い光が漏れた。作業員が振り返る。
「おいッ! 止めろ! 圧が上がりすぎて――」
言い終わる前に、瓶が割れた。爆発ではない。だが、圧縮されていた魂魄エネルギーが一気に噴き出し、青白い火花となって広場へ散った。
作業員が腕を押さえて倒れる。近くにいた住民も数人、吹き飛ばされた。泣き声と怒鳴り声が飽和する。さらに誰かが叫んだ。
「だから止めろって言っただろ!」
石が飛んだ。回収装置の外枠に当たり、金属音が広場に響く。それが合図になった。
「下がれ!」
回収部隊が魂魄銃を構える。住民たちも鉄パイプや工具を掴んだ。恐怖と怒りが、押さえきれずに広がっていく。隊長が通信器を掴む。
「第七区にて住民多数が回収作業を妨害。回収装置破壊。作業員負傷。暴動へ発展中。至急、応援を要請する」
リサはレイの腕を引いた。
「もう行くよ」
「でも」
「今の聞いたでしょ。王宮に連絡が行った。ここにいたら本当にまずい」
レイは頷こうとした。だが、倒れた作業員のすぐそばで小さな子供が泣いていた。青白い火花を散らす魂魄管が壁から外れかけている。今にも倒れそうだった。レイの足が止まる。
「レイ」
「分かってる」
「分かってない顔」
レイは走り出した。リサが短く舌打ちして追いかける。外れかけた魂魄管は熱かった。熱い、というより指先の内側を針で刺されるような痛みが走る。乱れた魂魄エネルギーが管の中で暴れている。レイは両手で管を押さえ、倒れないように支えた。
「おい、そこ離れろ!」
回収部隊の兵士が怒鳴る。
「子供がいる!」
レイは叫び返し、泣いている子供へ顎をしゃくった。リサが子供を抱き上げる。
「こっち!」
子供は泣きながらリサの服を掴んだ。リサは子供を近くの女に預け、「この子お願い!」と叫んだ。レイの掌からほんの薄く白金色の光が漏れかける。リサはそれを見逃さなかった。子供を抱えたまま、片手でレイの手に持っていたハンカチをかぶせる。
「手を出しすぎない!」
「今、出してない」
「出そうとしてた!」
レイは管を壁際へ押し戻し、近くにあった鉄片を噛ませて仮止めした。不格好だが、倒れるよりはましだ。倒れた作業員が呻いた。腕が青白く焼けている。レイは反射的に手を伸ばしかけた。リサが睨む。
「治すな」
「でも」
「見られたら終わるよ」
レイは唇を噛んだ。治せば楽になる。痛みも、焼けた皮膚も、たぶん戻せる。けれど、周囲には回収部隊がいる。王宮の紋章をつけた兵士がいる。今力を使えば、間違いなく見られる。レイは作業員の肩を掴んだ。
「動かすぞ。痛かったら叫んで」
「もう痛えよ……!」
「じゃあ、そのまま叫んで」
「お前、雑だな!」
「悪い」
レイは作業員を引きずり、壁際へ移した。リサは近くの女へ叫ぶ。
「布! 水! 何か巻けるもの! ありませんか!?」
「え、あ、これ……!」
住民の女が震えながら古い布を差し出す。リサは受け取り、作業員の腕へ巻いた。
「痛いけど我慢して!」
「お嬢ちゃん、医者か」
「違う! でも放っとくよりマシ!」
その間にも広場の奥では住民と回収部隊の押し合いが激しくなっている。魂魄銃が空へ向けて撃たれた。青い光弾が看板を撃ち抜き、火花が散る。落ちた看板の破片が露店の布を巻き込み、そこへ倒れたランタンの火が移った。赤い炎が上がる。魂魄灯の青と混ざり、広場の光が濁った紫に揺れた。煙が広がる。レイは咳き込みながら、倒れた老人を見つけた。人の波に押され、壁際で動けなくなっている。
「リサ、あっち!」
「今度は何!」
「爺さん!」
「もう!」
二人で老人を抱え、路地の入口まで運ぶ。老人は白く濁った目を空へ向けたまま、掠れた声で言った。
「海が……怒っとる……」
「怒ってるなら、爺さんも早く逃げて」
リサが乱暴に言う。老人は笑ったのか、咳き込んだのか分からない声を漏らした。広場の別の端では子供たちが泣きながら固まっている。親とはぐれたのか、動けなくなっているのか。リサが叫んだ。
「こっち! 裏路地に入って! 振り返らない!」
子供の一人が転ぶ。リサが手を伸ばす前に、レイが抱き上げた。
「大丈夫。足は?」
「いたい……」
「じゃあ、泣きながら走れ」
「え?」
「泣いてもいいから、走れ」
子供はしゃくり上げながら頷いた。リサがレイの背中を叩く。
「変な励まし方しない!」
「でも走った」
「そうだけど!」
軽口を交わしてはいるが、二人とも息が上がっていた。広場の向こうでは住民たちが廃材を積み始めている。古い鉄板、折れた看板、壊れた屋台の骨組み。回収部隊との間に即席の防壁ができていく。
「近づけるな!」
「装置を止めさせろ!」
「撃つな! こっちには子供がいる!」
回収部隊も引かない。
「反乱者どもを押し戻せ!」
「装置を守れ!」
「王宮に逆らう気か!」
魂魄銃の光がまた走った。今度は地面を撃つ。石畳が砕け、破片が飛び散る。レイの頬に小さな傷が走った。リサがそれを見て顔を変える。
「レイ、もう無理」
「まだ人が」
「もう無理!」
リサは今度こそ、レイの腕を強く掴んだ。
「これ以上いたら、私たちも巻き込まれる。王宮が来る。兵士だけじゃない、もっと悪いものが来る」
レイは広場を見た。倒れた老人は運んだ。泣いていた子供たちは逃がした。怪我人も壁際へ移した。それでも、まだ怒号は止まらない。火は広がっている。空の小魚たちは乱れ、魂魄ランタンは何度も明滅している。レイは歯を食いしばった。
「……分かった」
その時、地面が震えた。ズン……ズン……と、重い足音が煙の奥から近づいてくる。リサの手が凍ったように止まった。
「……遅かった」
リサが舌打ちして言った。同時に、広場の人々が一斉に振り返る。煙を割って、黒い重装魔導機が現れた。それは下層街の建物よりも大きく見えた。漆黒の装甲と、腕に据えられた砲身と、胸に刻まれた王家の紋章が、広場にいる人間の息をまとめて奪った。
──王宮が歩いてきた。
レイにはそう見えた。リサが小さく呟く。
「第一王子の機体……」
「あれが?」
「あんた、知らないの?」
「そりゃ、見たことないからな」
「普通は見ないよ。見なくていいやつ」
周囲の住民がざわめいている。
「黒い魔導機……」
「あれが王家の剣……」
「逆らったら消されるぞ」
黒い魔導機の砲身の奥で、暗い光が脈打っている。それは光なのに、周囲の灯りを吸い込むように見えた。レイは背筋が冷えるのを感じた。機体から拡声器越しの声が響く。
「全員、武器を下ろせ」
想像していたのと違う。レイは一瞬目を瞬かせた。もっと冷たい声か、もっと怒鳴るような声を想像していた。けれど、その声は思ったより若く、低く押さえられていた。だが、機体の威圧感が強すぎる。声の違和感はすぐに広場の恐怖に呑まれた。住民の一人が叫ぶ。
「ふざけるな!」
「俺たちの魂を返せ!」
別の男が続く。
「回収装置を止めろ!」
回収部隊の兵士が、黒い機体へ向かって叫んだ。
「殿下! 反乱者を排除してください!」
黒い魔導機が砲身を上げる。レイの喉が詰まった。人を撃つのだと思った。リサも息を呑み、レイの腕を引く。
「見てる場合じゃない」
しかし砲身は、人ではなく、住民と回収部隊の間に積まれた廃鉄の防壁へ向いた。
黒い光が収束する。
何かを焼く力には見えなかった。
黒い光が走った。
廃鉄の防壁が、音もなく崩れていく。焼けたのでも、潰れたのでもない。まるで、最初からそこに何もなかったかのように形が消えていく。
住民たちが悲鳴を上げて後ずさる。回収部隊も驚いて足を止めた。
廃鉄の壁が消え、両者の間に隙間が生まれる。
よかった、とレイは思った。そのはずだった。
防壁の奥で古い鉄塔が軋んだ。レイは見た。黒い光の余波が鉄塔の根元へ触れていた。廃鉄の防壁と絡んでいた古い支柱の接合部が砂のようにほどけていく。鉄塔が傾いた。
「避けろ!」
黒い魔導機の拡声器が叫んだ。その声で、何人かが上を見る。広場の端。鉄塔の下。さっき圧縮瓶のそばで泣いていた子供がいた。預けたはずの子供が、混乱の中ではぐれたのだろう。瓦礫の陰で、動けなくなっている。
「避けろ!」
拡声器からもう一度声が出ると同時に、レイの体が動いた。リサが腕を掴む。
「レイ!」
「ごめん!」
振りほどく。考えていなかった。助けたいと決める前に、足が走っていた。
鉄骨が落ちる。子供を抱えて逃げるには、もう間に合わない。
黒い魔導機も動こうとしている。だが、脚部が瓦礫に引っかかり、重い機体は一瞬遅れた。
レイは子供へ飛び込んだ。小さな体を抱きしめるように覆いかぶさる。
上から、鉄骨の影が落ちてくる。
レイの手から、白金色の光が溢れた。小さな魚の群れのような光だった。
光は落ちてくる鉄骨に触れる。止めるでも、受け止めるでもない。
壊れた接合部がつながる。折れた支柱が別の鉄骨と組み直される。ばらばらに落ちてきた鉄骨が、子供を潰す形ではなく、覆い守る形へ変わっていく。
即席の鋼鉄のドーム。あるいは、鳥籠のような避難空間。
轟音が広場を揺らした。土煙が上がる。誰も、すぐには動けなかった。
「レ……!」
喉まで出た声を両手で押さえ込む。ここで名前を呼べば、王宮側に知られる。白金色の小魚のような光が煙の中で一瞬だけ舞った。見た者は少ない。だが、黒い魔導機は見ていた。管制の声が機体の内部で慌ただしく飛び交う。
「破壊魔導反応、残滓消失」
「構造崩壊、反転」
「対象鉄骨組成、再結合」
「未登録魔導反応を検知」
アビスは操縦席の中で息を呑んだ。自分の黒い光でほどけたものが組み直された。消えるはずだったものが形を取り戻した。煙の向こうに小柄な人影が見える。白金色の小さな光。子供を庇う腕。それだけだった。だが、それだけで十分だった。
アビスの奥で漆黒の衝動が一瞬だけ静まった。
土煙が薄れていく。
鉄骨の隙間でレイは咳き込んだ。腕の中の子供は泣いている。なら生きている。レイは子供の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。怪我は?」
「う、うえぇ……」
「よし、泣けるなら大丈夫。たぶん」
子供はさらに大きく泣いた。レイはほっとしたように息を吐く。その直後、リサが鉄骨の隙間へ駆け込んできた。
「バカ!」
「ごめん」
「謝るの早い! 逃げるよ!」
「でも、この子」
「分かってる!」
リサは周囲を見回す。子供の母親らしき女性が、煙の中をよろめきながら走ってきた。
「ああ、いた! いた……!」
リサは子供を女性へ押しつけるように渡した。
「この子連れて逃げて!」
「ありがとう、ありがとう……!」
「礼はいいから走って!」
女性は泣きながら子供を抱え、路地へ走った。その時、回収部隊の兵士が叫んだ。
「今のは何だ!」
「誰がやった!」
「白い光が見えたぞ!」
レイの体が固まる。リサが腕を掴んだ。
「走るよ!」
「でも」
「でもじゃない!」
二人は鉄骨の隙間を抜け、煙に紛れて路地へ駆け込んだ。
「王宮の連中の前で、なんであんなことしたの!?」
リサは走りながら怒鳴った。
「しかも第一王子の機体の前! 分かってる!? いや、分かってない顔してる!」
「子供がいたから」
「知ってる! 見てた! だから怒ってるの!」
「怒るところなのか?」
「怒るところ! 怖かったから怒ってるの!」
リサの手は震えていた。レイはそれに気づく。王宮に見つかったら、レイは連れていかれる。パーズが言っていた言葉が二人の間に落ちている。レイはリサの手を握り返した。
「ごめん」
「二回目」
「でも、助かった」
リサは唇を噛んだ。しばらく黙った後、小さく言う。
「……うん」
二人は、狭い路地を走り続けた。
広場ではまだ混乱が続いていた。アビスは逃げていく二つの影を追いかけようとした。指が操縦桿にかかる。だが、すぐに視界の端で火が広がる。倒れかけた鉄塔の残骸。負傷者と逃げ遅れた住民。回収部隊と住民はまだ互いに睨み合っている。今ここで謎の人影を追えば、さらに犠牲が出る。アビスは奥歯を噛んだ。
「負傷者を運べ」
通信越しに命じる。回収部隊の兵士が戸惑った。
「殿下?」
「回収装置を止めろ。住民への発砲を禁ずる。火を消せ」
「しかし、殿下、反乱者が――」
「今は人命救助が先だ」
広場にいた兵士たちはすぐには動かなかった。アビスは声を低くした。
「二度言わせるな」
今度は兵士たちが動いた。回収装置の制御弁が落とされ、魂魄の吸引音が弱まる。数人の兵士が負傷者を運び、別の兵士が火消しに回る。住民たちは警戒したまま、それでも何人かは負傷者の搬送を手伝い始めた。
アビスはレイたちが消えた路地を見た。小さな魚がくるりと回って、壁の中に消えていく。アビスの眼には白金色の光の残像がまだ焼き付いたままだった。
パーズ工房に戻った時、レイとリサは泥だらけだった。扉を開けた瞬間、パーズの怒鳴り声が飛ぶ。
「なんでお前らは毎回、面倒を背負って帰ってくる!」
「まだ何も言ってない!」
レイが言うと、パーズは二人を上から下まで見た。
「その見た目で、何もなかったは通らねえ」
リサは息を整えながら、作業台に手をついた。
「王宮の魔導機が来た」
パーズの目が細くなる。
「第七区で揉め事が暴動になった。回収装置が暴走して、火が出て、鉄塔が倒れて」
「それで」
リサはレイを見た。
「レイがやった」
パーズの顔色が変わった。
「何をだ」
レイは自分の手を見た。何かをした感覚はある。けれど、それをどう説明していいか分からない。
「よく分からない。鉄が落ちてきて、子供がいて、気づいたら……」
パーズは無言でレイの手を掴んだ。火傷はないし、切り傷もない。ただ、指先にほんのわずか、白金色の光の残滓が残っていた。パーズは息を呑む。
「見られたか」
リサは黙った。それだけで答えになる。パーズは作業台を拳で叩いた。工具が跳ね、古い部品が床に落ちる。
「最悪だ」
レイは顔を上げる。
「でも、子供は助かった」
パーズは怒鳴りかけた。だが、口を開いたまま、言葉が止まった。レイがそういう人間だと知っている。代わりに低い声で言った。
「しばらく外に出るな。リサ、お前もだ」
「でも」
「でもじゃねえ。王宮の人間の前であんなもん見せたんだ。向こうは必ず探す」
レイは指先を握った。
「そこまで?」
「そこまでだろうがよ」
パーズは窓の外を見た。遠く、王宮の方角へ、黒い魔導機が戻っていくのが見える。下層街の屋根の上を青白い魚たちが乱れた流れのまま泳いでいた。パーズはほとんど呟くように言った。
「ここにもそのうち王宮が来るぞ」
黒い操縦席の中でアビスは自分の手を見ていた。何人も消してきた手。何度も壊してきた手。けれど今夜、その手が壊したものを誰かが戻した。通信士の声が入る。
「殿下、先ほどの未登録反応ですが、発生源の追跡は困難です。下層街の魂魄ノイズが多く、正確な座標は特定できません」
失われた技術。あの教師の言葉が浮かんだ。もし残っているとすれば、書庫ではない。古い機械と共に生き延びた人間の手の中だ。
「第七区周辺の工房を調べろ」
「工房、でございますか」
「魔導機械を扱える工房だ。古い技師がいるなら、なおいい」
通信士が慌てて復唱する。
「第七区周辺の魔導機械工房を調査。古参技師を優先。承知しました」
アビスは返事をしなかった。煙の向こうに白金色の小魚が泳いでいた。いや、実際に泳いでいたのかどうかは分からない。ただ、あの光は確かにあった。黒い光でほどけたものを、結び直した光。消えるはずだった命を、そこに留めた光。あれは何だったのか。アビスは答えを知らない。ただ、もう一度見たいと思った。
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