読み込み中...
読み込み中...
第3話 / 全15話
王宮の空は高く、下層街よりも遠かった。
塔の上にある展望廊には白い石柱が等間隔に並んでいる。床は磨き込まれ、魂魄灯の青白い光を薄く映していた。手すりの向こうには夜空が広く開けている。
そこから見下ろす王都は美しい。
上層街には金色の魂魄灯が整然と並び、街路は碁盤の目のように伸びている。貴族の邸宅は白く、広場の噴水は淡い光を湛え、劇場街では看板のネオンが夜の中に花を咲かせていた。
そのさらに下。霧と煤と錆の向こうに下層街がある。
雑多な建物は歪み、複雑に絡まった配管がうねり、魂魄ランタンの光は細く頼りない。上層街の金色とは違う、青白く濁った光が湿った石畳の間に沈んでいた。
アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウスは、手すりに指を置いたまま、その光の差を見ていた。
背後には兵士が二人、侍従が一人、宮廷技師が一人控えている。誰も近くにはいない。兵士は剣の柄に手を置いたまま、視線だけを床へ落としている。侍従は外套を抱え、呼吸の音すら殺している。技師は記録板を胸に抱き、何か言いたげに口を開きかけては閉じていた。
アビスが振り返れば、全員が同時に頭を下げるだろう。それが王子への礼なのか、怪物への備えなのか、彼にはもう区別がつかなかった。
夜空を、魚たちが泳いでいる。王宮の空を泳ぐ魚は大きいものが多い。宮廷の者たちはそれを見て、王家の威光に引かれているのだと語る。
「大きな魂は大きな者のもとへ集まる、か」
王家は古くからそう信じてきたし、アビスも何度も聞かされてきた。
けれど今夜、彼の目は小さな魚たちの動きを追っていた。細い銀色の魚。青く光る稚魚の群れ。消えかけた糸屑のような魂。それらが不自然に揺れている。泳いでいるのではない。
「こちらに……引かれている?」
大魂魄炉の低い唸りが、塔の石材を通して伝わってくる。普通の者にはただの振動にしか思えないだろう。だがアビスには、それが魂の流れを乱す音だと分かった。
手すりの下を、小さな魚が一匹、よろめくように流れていく。
アビスは思わず手を伸ばしかけた。触れられるはずがない。魂は壁を抜け、人を抜け、鉄を抜ける。それでも、指が動いた。
その時、頭上を大きな影が通った。腹の白い、年老いた大魚だった。王宮の塔をすり抜けて、ゆっくりと泳いでいく。尾びれが一度動くだけで、周囲の魚たちが流れを乱された。
アビスは自分の胸元へ視線を落とした。そこに何かが見えるわけではない。だが、魂の奥深くで巨大なものがゆっくりと身じろぎする感覚だけはあった。
背後で衣擦れの音がした。宮廷技師が一歩だけ前へ出る。
「殿下。大魂魄炉の出力上昇試験は、予定通り安定領域に入りました」
アビスは振り返らなかった。
「安定?」
「はい。魂魄吸引効率は前回比で一〇八パーセント。下層域からの流入量も増加しております。炉圧も許容範囲内です」
「魚たちが乱れている」
技師の言葉が止まった。少し遅れて、取り繕うような声が返る。
「一時的な流向変化でございます。出力調整の際にはよくある反応です」
「あの小さな魂は、逆らえていない」
「雑魚魂は軽いですから。むしろ回収しやすくなるかと」
アビスの指が手すりの上で止まった。技師は自分の言葉に疑いを持っていない。彼にとってはそれが普通だった。雑魚魂。王宮では誰もがそう呼ぶ。さっき、よろめくように流れていった小さな魚を思い出す。なぜだかは分からない。それでも、胸にざらついた感触が残った。アビスは空へ目を戻した。
「演習場へ向かう」
「かしこまりました。すでに機体は準備されております」
技師はほっとしたように頭を下げた。アビスは展望廊を歩き出す。彼の足音が白い石の床に響くたび、控えていた兵士や侍女たちが道を開けた。近すぎた者は半歩下がり、すでに下がっていた者はさらに頭を垂れる。誰も彼の前に立たない。誰も彼の名を呼ばない。呼ぶ時はいつも、第一王子殿下か王家の剣だった。
王宮地下の魔導演習場は巨大な墓穴のようだった。厚い防壁に囲まれた空間は上層の華やかさとは無縁だ。床は黒い魔導合金で覆われ、壁には何層もの魂魄防壁が張られている。天井からは太い魂魄管が垂れ下がり、青白い光が絶えず脈打っていた。
演習場の中央にアビス専用の重装魔導機が待っている。
黒い機体だった。
人型ではあるが、人間に似せる気はほとんどない。脚部は太く、腕部は砲身と制御爪を兼ね、背部には大型の魂魄安定器が何本も突き出している。胸部装甲にはヴィザリウス王家の紋章が刻まれていたが、磨き上げられた紋章ですらこの機体の威圧感を隠せていない。王子の乗騎というより、怪物を運ぶための棺だった。
整備士たちが整列し、一斉に頭を下げる。
「第一王子殿下、搭乗準備完了しております」
アビスは機体を見上げた。
「今日の標的は」
「第一層に魔導合金板。第二層に魂魄防壁。第三層に複合装甲柱を設置しております。すべて前回より強度を上げました」
「また強度を上げたのか」
整備士の一人が、少し興奮した様子で答えた。
「殿下の出力成長が予測値を上回っておりますので。宮廷技師長も、今後はさらに高負荷の標的を用意すべきだと」
「そうか」
アビスは短く答え、昇降台に足を乗せた。この機体が彼の力を生み出しているわけではない。むしろ逆だった。人の身ひとつで放ててしまう破壊を、王宮の望む角度と範囲へ押し込めるためにこの黒い檻は造られている。
操縦席は機体の胸部にあった。装甲が左右に開き、内部の座席が現れる。座席というには硬く、拘束具というには丁寧に磨かれている。肩、腰、手首、脚を固定する黒い枠が並び、背中には魂魄接続針が十数本待っていた。
アビスはそこに座った。固定具が降りてくる。肩が押さえられ、手首が留められ、脚部が固定される。背中に冷たい針が触れ、皮膚の奥へ細く差し込まれた。
痛みはある。けれど、声を出すほどではない。
幼い頃は泣いた。泣くと、技師たちは困った顔をした。父は不快そうに眉を寄せた。侍女は目を逸らした。いつからか、アビスは泣かなくなった。
「魂魄接続、開始」
整備士の声が拡声管から響く。機体の内部に青白い光が走った。次の瞬間、アビスの奥にある漆黒が目を覚ます。心臓の鼓動とは違う。腹の底でもない。魂の一番深いところで巨大なものが尾を振った。その衝動には声の形すらなかった。ただ、魂の奥で巨大なものが口を開き、次に触れるものを待っている。アビスは息を整えた。
「標的を出せ」
「第一標的、展開します」
演習場の奥で分厚い装甲板がせり上がった。何層にも重ねられた魔導合金。表面には魂魄防壁の光が薄く膜を張っている。通常の魔導砲なら傷をつけるのがやっとだろう。アビスは操縦桿を握る。機体の右腕が持ち上がり、巨大な砲身が標的を向いた。漆黒の光が収束する。暗い。光であるはずなのに、周囲の灯りを吸い込むような黒だった。
「魂魄炉出力九十七%で安定、霊脈回路、全系統正常。反魂圧異常なし! 魔力逆流防止術式、完全展開! 角度調整完了、撃てます」
管制室の声。アビスは短く息を吐いた。
「発射」
漆黒の光線が走った。轟音はない。爆発もない。標的に触れた瞬間、魔導合金の表面が波打った。次いで、固い金属が細かな砂のように崩れ始める。防壁の青い膜は抵抗するように震えたが、一瞬後には糸をほどくようにばらばらになった。
管制室から歓声が上がった。
「第一標的、完全分解!」
「魂魄防壁、保持時間〇・七秒。前回よりさらに短縮!」
「出力、前回比一一二パーセント!」
「やはり第一王子殿下の魔導適性は歴代最高だ!」
アビスは操縦席の中でその声を聞いていた。褒められている。だが、その言葉は彼に向けられているようで、彼ではないものへ向かっている。彼らが見ているのは、少年ではなく、彼の兵器としての性能だった。
「第二標的、展開──」
こうして、演習という名の実験は鐘の音とともに終了する。管制室はまた歓声に包まれた。
「素晴らしい!」
「これなら暴動鎮圧どころか、城塞攻略にも投入可能です」
「単騎で一個師団に相当するな」
拘束具が外れる。接続針が背中から抜ける。アビスは前に倒れそうになり、座席の縁を掴んだ。頭が割れるように痛む。体の内側に潜む魂が、まだ餌を求めている。
足りない。もっと壊せ。もっとほどけ。もっと喰わせろ。
アビスは座席の縁を掴んだ。指先に力が入り、黒い金属がわずかに軋む。
やめろ。声に出したつもりだったが、喉は動いていなかった。
三歳の頃のことは覚えていない。ただ、王宮の者たちがその話を避けることだけは知っている。厳格な教育係がいた。泣くことを許さず、姿勢を崩すことを許さず、王子にふさわしくあれと繰り返した男だったらしい。
ある日、その男は消えた。
血も、悲鳴も、遺体も残らなかった。椅子と、開いたままの教本と、床に落ちた白い手袋だけが残っていたと聞かされた。
五歳の時のことは少しだけ覚えている。若い教師だった。魔法という言葉が、すでに古い伝説の中にしか残っていない世界で、それでも彼はアビスの力を魔法と呼んだ。怖がらなかった。少なくとも、最初は。
「殿下、力を押さえ込むのではありません。流れを細くするのです」
そう言って、何度も紙に図を描いた。魂魄管の流れにたとえたり、水路にたとえたり、弦を弾く指先にたとえたりした。どれも正しいかどうか分からなかった。失われた技術を二人で手探りしていた。その日も教師は笑っていた。アビスはその笑顔が好きだった。
「大丈夫ですよ、殿下。今日は、昨日より少しだけ上手くいっています」
次の瞬間、その笑顔がほどけた。肉が裂けたのではない。骨が砕けたのでもない。そこにいた人間が、人間の形を保てなくなり、黒い光の中で砂よりも細かく崩れていった。
アビスはその後の自分の声を覚えていない。覚えているのは、床に落ちた教師の眼鏡と、扉の外に走っていった侍女が吐いた音だけだった。
それから先は、事故では済まなくなった。王の命令で消した者がいる。何人か。いや……違う。何人も、だ。
反逆を企てた貴族。捕らえられた密偵。王家へ刃を向けたと告げられた男たち。名前を知らない者もいた。罪状を聞く前に、アビスの姿を見て震えていた者もいた。
皆、最後には同じだった。黒い光に触れ、形を失う。悲鳴が途切れる。後には何も残らない。
だから王宮の者たちは、アビスを見ると道を開ける。誰も彼の前に立たない。誰も、必要以外は話しかけない。誰も。誰も。誰も……
「殿下、お加減が」
整備士の声で、アビスは現在へ戻った。彼は息を整え、座席からゆっくり身を起こした。
「問題ない」
また、その言葉を選んだ。整備士はそれ以上踏み込まなかった。踏み込める者など王宮にはほとんどいない。演習場の扉が開いた。
金と黒の外套をまとった男が、数名の近衛を従えて入ってくる。国王ダウジル・ヴァス・ヴィザリウス。演習場にいた者たちが一斉に膝をついた。アビスも機体から降り、片膝をつく。
「父上」
「見事だ、アビサリウス」
ダウジルは満足げに言った。
「お前こそ、ヴィザリウスの剣だ!」
「はっ。ありがたき幸せ」
アビスは頭を下げる。剣。その言葉は褒め言葉として与えられた。父から息子へではなく、王から兵器へ。ダウジルは崩れた標的の残骸を眺め、口元に薄い笑みを浮かべる。
「これほどの力が王家にある。それだけで、諸侯は余計な考えを持たぬ。諸国も軽々しくヴィザリウスを侮れぬ」
「力は、民を守るためにあるものと教わりました」
「その通りだ」
ダウジルは頷いた。
「民を守るためには、壊さねばならぬものもある」
アビスは顔を上げた。父の表情は穏やかだった。怒っていない。声を荒げてもいない。だからこそ、言葉は冷たく演習場の床へ落ちた。
「下層街で、魂魄回収への抵抗が増えている」
技師たちが互いに目を伏せる。ダウジルは続けた。
「大魂魄炉の維持には、一定量の魂魄が必要だ。上層街だけでは足りぬ。工場区も軍も、王宮の防壁も、すべて炉によって保たれている」
「下層街からの回収量を増やすのですか」
「すでに増やしている」
アビスの指が、外套の内側でわずかに曲がった。
「それで抵抗が」
「秩序を理解せぬ者は、どこにでもいる」
「下層街の者たちにも生活があるのではありませんか」
近衛の一人が顔を上げかけた。演習場の空気が少し固くなる。ダウジルはアビスを見た。怒鳴りはしなかった。むしろ、浅く笑った。
「彼らの生活を守るために、秩序があるのだ。秩序を守るためには力が要る。その力を維持するための大魂魄炉だ」
「……」
「炉を止めればどうなる。浄水塔は三日で腐る。病院区の魔導器は今夜にも止まり、死なずに済む者が死ぬ。工場区が沈黙すれば、上層の食卓だけでなく下層の配給も滞る。国が乱れて他国が攻めてくれば、貧しいものから殺される。下層街の反発を恐れて炉を緩めるなど、王の判断ではない」
正論の形をしていた。少なくとも、この王宮の中では。
「だが、回収量を急に増やせば、下層の反発は強まります」
「だからお前がいる」
ダウジルは、アビスの肩へ手を置いた。父の手だった。けれど、その温度は遠い。
「お前は王家の象徴だ。黒き破壊の力を宿した第一王子。お前が姿を見せるだけで、多くの者は膝をつく」
「膝をつかぬ者は」
「王家へ刃を向けた者として扱う」
アビスは何も言わなかった。ダウジルの手が肩から離れる。
「必要なことだ。わかるな?」
「はい」
「備えておけ。下層街の騒ぎは、近いうちに大きくなる」
「……はい」
「その時は、迷うな」
ダウジルは演習場を去っていった。近衛たちの足音が遠ざかる。アビスはしばらくその場に立っていた。こぶしを握り、目を伏せた。それが彼に与えられた役割だった。
演習場から自室へ戻る途中、アビスは王宮北翼の回廊を通った。そこは貴族の出入りが多い区画で、壁には歴代王族の肖像画が並んでいる。重厚な額縁。白い肌。金や銀の髪。整った目鼻立ち。血統の正しさを証明するために飾られた顔たち。
その前に、一人の女性が立っていた。現王妃フローリア・ヴァス・ヴィザリウス。淡い紫のドレスをまとい、髪を美しく結い上げている。年齢を感じさせない白い指が扇の柄に添えられていた。
彼女の隣には、少年が一人。第二王子メイガス。アビスより年下だが、背筋はよく伸び、制服の着こなしにも乱れがない。冷静な目で肖像画とアビスを見比べていた。アビスは足を止め、一礼する。
「王妃殿下。メイガス」
「ごきげんよう、アビサリウス殿下」
フローリアは優雅に微笑んだ。王妃でありながら、彼を息子とは呼ばない。アビスもそれを求めたことはなかった。
「演習であったとか。地下からこちらまで、ずいぶん大きな振動が届きました」
「ご迷惑をおかけしました」
「あら、責めているわけではありません。王家の力が健在であることは、頼もしいことですもの」
言葉だけなら穏やかだった。しかし、彼女の視線はアビスの顔の上を滑るように動いている。彼の中の王族らしさがどこかを探している。あるいは、その欠落を。
「殿下を見るたび、魂というものの不思議を思いますわ」
フローリアは、壁の肖像画へ目を向けた。
「血よりも、宿ったものの方が人を変えるのでしょうね」
メイガスの視線がわずかに母へ向いた。アビスは返答に困った。似ていない。その言葉は直接言われなくても分かる。幼い頃から何度も遠回しに浴びせられてきた。偉大な魂の影響でしょう。黒き破壊の力が肉体にも気配を与えたのでしょう。宮廷魔導師たちはそう説明した。だが、アビス自身がそれで納得できたことはない。
「魂の格が、外見にも影響を与えることはあると聞いております」
アビスは、教えられた答えを返した。フローリアは、口元の弧を扇で覆った。
「ええ。便利な説明ですこと」
「母上」
メイガスが静かに言った。強く止める声ではない。けれど、それ以上踏み込むべきではないという合図だった。フローリアは目だけで息子を見て、微笑みを深める。
「そうね。失礼いたしました。殿下はお疲れでしょう」
メイガスが一歩前へ出た。
「兄上、演習の成果は聞いております。前回よりも出力が上がったとか」
「数値の上ではな」
「数値以外に、見るべきものが?」
アビスはメイガスを見た。弟はまっすぐこちらを見返している。嫉妬はある。警戒もある。だが、その目は母のように冷たいだけではなかった。何かを知ろうとしている目だった。
「出力が上がれば、制御も難しくなる」
「兄上でも?」
「俺だからだ」
メイガスは少し驚いたように瞬きをした。彼は、兄が自分の力を誇ると思っていたのかもしれない。フローリアが会話を切るように扇を閉じた。
「力がある者には、それにふさわしい責務がございます。殿下なら、きっと陛下のご期待に応えられましょう」
「努力します」
アビスは頭を下げ、その場を離れた。背中にフローリアの視線が刺さる。刃ではなく、細い針のような視線だった。振り返らずに歩く。
回廊の奥へ進むほど、肖像画の列が長く続く。白い顔。金の髪。青く薄い瞳。そのどれもが、アビスには似ていなかった。
自室に戻ると、侍従が湯と薬を用意していた。アビスは薬湯を口に含んだ。苦い。演習後の頭痛を抑えるためのものだが、完全に効いたことはない。侍従たちが下がり、扉が閉まる。ようやく部屋に一人になった。
「はぁ……」
アビスは上着を脱ぎ、大きなため息を一つつくと、鏡の前に立った。鏡に映るのは十五歳の少年だ。王家の正装は似合っている。肩章も、飾緒も、胸元の紋章も、着る者を選ぶように作られている。それなのに、鏡の中の顔だけがどこか別の場所から切り取られて貼り付けられたように見えた。
廊下に並ぶ肖像画の誰とも違う。黒い髪、茶色の眼、顔立ち。何より、そこにまとわりつく影が違っていた。
アビスは鏡に指を伸ばした。触れた硝子は冷たい。
ふいに、雨の音が聞こえた気がした。部屋の外は晴れている。王宮の窓には雨粒一つない。それでも、耳の奥で雨が降る。
ぽた、ぽた、と汚れた天井から落ちる水。煤けた木の板。女の泣き声。金属の匂い。金貨が床を転がる音。誰かが叫ぶ声。
走れ。
いや、今の声は何だった。アビスは額を押さえた。
幼い頃から何度も同じ夢を見る。夢の中で彼は王宮の白い天井を見ていない。豪奢な寝台も、香も、侍女の手もない。あるのは、雨漏りの跡が残る粗末な天井と、煤の匂いと、血に濡れた叫び声だ。
夢の中の女は泣いている。その声を聞くたび、胸の奥が痛む。
だが、目覚めると王宮の寝台にいる。絹のシーツ。清潔な天井。遠い空。
この夢を誰にも話したことはない。宮廷医に話せば検査される。父に話せば、弱さと見なされる。フローリアに知られれば、きっと笑う。メイガスには――。
アビスは考えを止めた。鏡の中の自分が、知らない誰かに見えた。
「俺は」
声に出してみる。続きは出てこなかった。何者なのか。その問いだけが、鏡の奥に沈んでいた。
夕食は王宮中央棟の小食堂で行われた。小食堂と呼ばれているが、下層街の家なら十軒は入りそうな広さがある。長い卓には白い布が敷かれ、銀の食器が並び、給仕たちは音もなく料理を運ぶ。
ダウジルが上座に座る。右にフローリア、その近くにメイガス。アビスは少し離れた席に案内された。
家族の食卓というより、会議の席だ。この雰囲気が何より苦手だった。
しばらくすると料理が運ばれてくる。香草を詰めた鳥肉、透明なスープ、焼き野菜、温かなパン。どれも美しく、完璧に整っている。
アビスはナイフを取った。頭痛はまだ残っている。まずくはないのだろうが、味はよく分からなかった。
ダウジルは葡萄酒の杯を置き、口を開く。
「下層街の不穏な動きが増えている」
フローリアが眉をひそめた。
「またですか。あの者たちは、与えられた灯りが何によって保たれているかも理解しないのですね」
「理解していれば、反発などせぬ」
ダウジルは淡々と言う。
「回収部隊からの報告では、装置への妨害も起きている。小型炉用の魂魄を逃がす者もいるらしい」
アビスの手が止まった。小さな魂を逃がす。なぜか、その言葉に引っかかった。フローリアは小さく笑った。
「甘やかすから反抗するのです。下層街の者は、秩序よりも目先の感情を優先します。王家の慈悲を権利と勘違いしているのでしょう」
メイガスは黙っている。だが、時折アビスの反応を見ていた。ダウジルは続ける。
「炉の出力は落とせぬ。むしろ今後は増強する必要がある。商会連合も軍部も同じ意見だ」
「下層街から、さらに回収するのですね」
アビスが言うと、ダウジルの視線が向いた。
「不満か」
「確認です」
「必要な措置だ」
その言葉で終わらせるつもりなのだろう。フローリアが、アビスへ微笑みかけた。
「殿下ほどのお力があれば、下層街の暴動など一瞬でしょう。あの者たちも、身の程を知る良い機会になります」
銀食器の触れ合う音が止まった。アビスは、ナイフを置いた。
「民を脅すために力を使うのは、王家の務めではありません」
空気が冷えた。給仕の一人がわずかに手を震わせる。フローリアは笑みを崩さなかった。ダウジルはアビスを見た。怒りを露わにするわけではない。だが、その目には不快感がある。メイガスの手が皿の縁で止まった。彼はしばらく兄の横顔を見ていた。値踏みでも、嘲りでもない目だった。
「民を守るために、反乱を鎮める。それが王家の務めだ」
「鎮めることと、脅すことは違います」
「理想論だな。だが現実を見ず、理想だけで政治を動かせば国が亡ぶ。そのとき、しわ寄せが真っ先に来るのは下層の民なのだ」
「そうかもしれません」
アビスは視線を落とさなかった。ダウジルは、しばらく黙って彼を見ていた。フローリアが杯を持ち上げた。
「頼もしいお優しさですこと。ですが、優しさで炉は動きませんわ」
アビスは返さなかった。その時、扉の外が慌ただしくなった。近衛隊長が入室し、片膝をつく。
「陛下、急報でございます」
「言え」
「下層街第七区にて、魂魄回収部隊と住民が衝突。回収装置二基が破壊され、作業員に負傷者が出ております。火災も発生し、周辺区画へ混乱が広がっています」
フローリアが扇を閉じた。
「まったく、食事時に騒がしいことですわね」
ダウジルは眉を動かさずに問う。
「原因は」
「報告では、下層民による集団反乱と」
アビスは隊長を見た。
「回収装置に異常はなかったのか」
隊長は一瞬だけ詰まった。
「現場からは、装置の暴走についても断片的な報告がございます。ただ、詳細は不明です」
「不明なまま反乱と断じるのか」
ダウジルが口を開く。
「アビサリウス」
それだけで、隊長は黙った。ダウジルは杯を置く。
「鎮圧に向かえ」
アビスは立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「殺傷は避けます」
ダウジルの眉が寄る。
「反乱の芽を残すな」
「殺せば、さらに憎しみが残ります」
「判断は任せる」
許可とも、警告とも取れる声だった。アビスは一礼する。
「出撃します」
彼は食堂を出た。背後で、フローリアが静かに息を吐く。アビスの足音が遠ざかった後、彼女は側近にだけ聞こえる声で呟いた。
「あれほどの力、血が正しければ頼もしいのでしょうけれど」
メイガスは、その言葉を聞いていた。だが、何も言わなかった。
王宮地下格納庫は演習場よりもさらに深い場所にあった。
巨大な昇降路が口を開け、その周囲で整備士たちが慌ただしく走っている。警報灯が赤く回り、魂魄管の中を青白い光が高速で流れていた。
アビス専用重装魔導機は出撃架台に固定されていた。演習時とは違う。背部には追加の魂魄管が接続され、脚部には降下用の緩衝装置が取り付けられている。右腕の砲身の奥では黒い光がすでに脈打っていた。
「殿下、出撃準備八割完了!」
「外部装甲固定!」
「魂魄安定器、接続確認!」
整備士たちの声が飛び交う。アビスが近づくと、彼らは一瞬だけ動きを止めた。視線が集まる。恐れ、期待、緊張。そのどれもがアビスの肌にまとわりつく。
「続けろ」
彼が言うと、整備士たちは慌てて作業へ戻った。昇降台で操縦席へ上がる。胸部装甲が開く。中に入ると、固定具が降りてきた。肩、腰、手首、脚。さらに首の後ろに暴走時用の補助固定枠が下りる。
王子を守るための装置だと説明されている。けれどアビスは知っている。これは、彼を逃がさないための枷でもある。
万一、破壊の衝動が制御を超えた時。彼が機体から出て、王宮そのものを壊さないように。
アビスは抵抗しなかった。慣れている。その言葉で片づけるしかないことが、王宮には多すぎる。
「魂魄接続、開始します」
背中に針が刺さる。視界が機体と重なる。
背中の針が沈んだ瞬間、アビスの奥で巨大なものが身じろぎした。海の底で、黒い尾が動くような感覚。それだけで、指先が冷える。
ふと、整備士の一人が身をすくめた。何かが見えたわけではない。ただ、機体に流れ込む魔導圧が格納庫全体の魂魄灯を一瞬だけ暗くしたのだ。別の整備士が胸の前で古い祈りの印を切った。
アビスは目を閉じた。壊すために生まれたわけではない。そう思っても、彼の力は破壊としてしか現れない。
五歳の時、教師は言った。力の向きを決めましょう。大きさではなく、形を決めるのです。それができれば、殿下の力はきっと誰かを守るものになります。
アビスは、その声をまだ覚えている。声だけは、消えていない。ならば。
「出撃経路を下層第七区へ」
「了解。上層街通過後、南西降下路より下層へ入ります」
「現場部隊へ通達。住民への直接攻撃を禁ずる。武器、障害物、回収部隊との接触線のみを破壊する」
通信士が顔を上げた。
「殿下、それでは鎮圧に時間が」
「命令だ」
短い声だった。格納庫の空気が沈む。
「……了解しました。現場部隊へ通達します」
胸部装甲が閉じる。機体の内側が暗くなる。次の瞬間、視界に外部映像が広がった。出撃架台が動き出す。巨大な扉が開く。王宮地下から上層街へ伸びる発進路の先に、夜の王都が見えた。
「第一王子殿下、出撃」
機体が動いた。上層街の道路は広く、滑らかだった。
アビスの重装魔導機が通ると、街路沿いの警備兵たちは一斉に敬礼する。貴族の馬車は道を譲り、夜会帰りの人々が窓越しに黒い機体を見上げた。
王家の紋章、漆黒の装甲、巨大な砲身。
彼らの顔に浮かぶのは、安堵と恐怖が混ざった表情だった。
あれがいれば安心だ。あれがこちらを向かなければ。
アビスは操縦席の中で、何も言わなかった。
機体は上層街を抜け、降下路へ入る。街の光が変わっていく。
金色の灯りが減り、青白いランタンが増えた。建物の壁は汚れ、配管が剥き出しになり、頭上のケーブルは密度を増していく。
空の魚たちが近い。上層街では遠くに見えた魂が下層へ降りるほど建物の隙間を泳ぐようになる。小魚が機体の装甲をすり抜け、腹の白い魚が砲身を横切り、遠くでサメのような影が尾を振った。
アビスは、外部映像の中の下層街を見つめた。初めて見るはずの景色だ。
王宮の外へ出ることはあっても、下層街の奥まで来る機会はほとんどなかった。幼い頃から危険だから近づくなと言われてきた。汚れている、秩序がない、魂の格が低い者たちが住む場所だと。
だが、胸の奥が妙にざわつく。
雨に濡れた屋根に煤けた壁。密集した電線と歪んだ窓枠。どれも知らない。知らないはずなのに、夢で何度も見た景色と重なる。
操縦席の奥で、内なる魂が低く唸った。アビスは息を詰める。
その時、機体の前を小さな白金色の魚が横切った。尾びれの縁だけ、光が薄く滲んでいる。ほんの爪の先ほどの、小さな光。青白い下層街の光の中で、それだけが柔らかく輝いていた。
アビスは反射的に目で追った。胸が痛んだ。理由は分からない。ただ、見失ってはいけないものを見た気がした。
「殿下、暴動区域に接近。対象多数。鎮圧許可を」
通信が割り込む。アビスは表情を戻した。
「殺すな。武器と障害物だけを破壊する」
「しかし、反乱者に甘い対応は……」
「命令を聞け」
沈黙。すぐに、通信士が答える。
「了解しました」
機体は下層第七区へ入った。煙が見える。
火災の赤が、青白いランタンの光を汚していた。怒号と悲鳴が響き渡り、魂魄銃の乾いた発射音がそれを塗りつぶしていく。
広場の中央で、住民と魂魄回収部隊が衝突している。
住民たちは鉄パイプや工具、板きれを手にしていた。誰も訓練など受けていない。怒りと恐怖だけで、回収装置へ押し寄せている。
回収部隊は機械兵を前に出し、魂魄銃で住民を押し返していた。足元には壊れた圧縮瓶が転がり、青白い光が漏れている。
小さな魂たちが、広場の上で乱れていた。
逃げ遅れた老人が壁際にうずくまり、子供を抱えた女が瓦礫の陰に隠れている。誰もが何かを叫んでいるが、声は混ざり合って意味を失っていた。
アビスの重装魔導機が、広場の端へ降り立つ。地面が沈み、石畳が軋む。
人々が一斉に振り返った。
黒い機体。王家の紋章。砲身の奥で脈打つ漆黒の光。
誰かが叫んだ。
「第一王子だ!」
別の声が震える。
「王家の黒い剣……!」
住民たちの動きが鈍る。回収部隊の兵士たちが、安堵したように後退した。アビスは操縦席の中で息を吐いた。怖がられている。いつものことだ。だが今夜は、その恐怖を利用しなければならない。
「全員、武器を下ろせ」
機体の拡声器を通して、声が広場へ響いた。住民たちはざわめいた。
「ふざけるな!」
「俺たちの魂を返せ!」
「回収装置を止めろ!」
回収部隊側からも声が飛ぶ。
「殿下! 反乱者を排除してください!」
アビスは砲身を上げた。狙うのは人ではない。住民と回収部隊の間に積まれた廃鉄の防壁。押し合いの中で、誰かが作った粗末なバリケードだ。だが今は、両者の距離を曖昧にし、互いの攻撃を誘っている。破壊するのは壁だけでいい。
「照準、廃鉄防壁」
補助士官が慌てる。
「殿下、そこは敵集団の目前です」
「分断する」
砲身の奥で、漆黒の光が収束する。
住民たちが息を呑む。回収部隊も身構える。
アビスは、操縦桿を握った。衝動が来る。
壁だけだ。人は壊さない。そう、壁だけだ。
黒い光が走った。
廃鉄の防壁に触れた瞬間、金属の板や古い柱が音もなく崩れ始めた。溶けるのでも、爆ぜるのでもない。結合をほどかれ、砂のように形を失っていく。
住民たちが悲鳴を上げて後ずさる。回収部隊も驚いて足を止めた。
廃鉄の壁は消えた。両者の間に、空白が生まれる。そのはずだった。だが、崩れた防壁の奥で、古い鉄塔が軋んだ。
アビスの目が細くなる。外部映像が拡大される。
鉄塔の根元。廃鉄の防壁と、古い支柱が一部接触していた。黒い光の余波が、腐食した接合部をほどいている。
「まずい」
鉄塔が傾き始めた。ゆっくりと。だが、確実に。広場の人々はまだ気づいていない。アビスは機体を動かそうとした。固定された重装機の脚部が崩れた瓦礫に引っかかる。
警告音。
視界の端に小さな影が映った。
鉄塔の下。逃げ遅れた子供が立っている。瓦礫の陰で泣きながら、動けずにいる。アビスの指が操縦桿を握り潰すほど強く締まった。
「避けろ!」
拡声器が叫びを広場へ叩きつける。子供が顔を上げた。鉄塔の影が、その小さな体を呑み込む。アビスは、もう一度叫んだ。
「避けろ!」
その声が届くより早く、鉄骨の群れが夜空を塞いだ。
この話はいかがでしたか?
この作品を評価する