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第6話 / 全15話
第七区の暴動から、一年近くが過ぎ、レイたちは十六歳になっていた。
白い光の噂は、今では酒場の与太話に混じる程度になっている。あの日、鉄塔が組み上がっただの、白い魚が光っただの、王宮の新兵器だの、下層街の神様だの。好き勝手に膨らんだ噂は、季節がひとつ変わる頃には別の噂に押し流されていた。
王宮の調査も、しばらくは続いた。けれど、何も見つからなかった。少なくとも、王宮が公に何かを掴んだという話は出ていない。その代わり、パーズ工房には別の厄介事が残った。黒い重装魔導機の定期調整である。月に一度。多い時は二度。王宮の紋章を刻んだ車両が、下層街の狭い通りを抜け、パーズ工房の裏手へ黒い機体を運んでくるようになった。
最初のうちは、周辺の住民も遠巻きに騒いだ。あれが第七区を鎮圧した魔導機だ。近寄るな。見たら目をつけられるぞ。今度はこの区を壊す気か。そんな声も多かった。だが、人間は慣れる。今では黒い魔導機が来ても、通りの人々は少しだけ足を止め、顔をしかめ、そしてまた自分の仕事へ戻る。もちろん、慣れたからといって歓迎されているわけではない。ただ、下層街の生活は何かを嫌っているだけでは回らない。飯を作り、部品を売り、壊れた魂魄管を直し、洗濯物を干し、魚の群れが建物の隙間を泳ぐ中で、今日も明日も生きていく。そして、そんな生活の隅で、パーズは王宮の面倒な機体を見続けていた。
「暴れ馬の手綱を締め直す仕事だな、こいつは」
それが、パーズの口癖になっていた。王宮技師に腕がないわけではない。むしろ、数値を整え、規格通りに戻すだけなら彼らの方が丁寧だった。だが、黒い魔導機は規格通りに扱えば済む機体ではない。操縦者であるアビスの魔導出力の成長が、機体の想定値を平然と踏み越えていくからだ。力を増やすための調整ではない。抑えるための調整。操縦者の頭が焼き切れないようにするための調整。その匙加減は、古い機体をいじり倒してきたパーズの方がうまかった。だから、今日もまた工房の裏手に黒い影が運び込まれていた。ただし、今日のそれはいつもとは違った。
「こいつぁ……派手にやったな」
パーズは機体を見上げ、低く唸った。黒い装甲の右肩が焼け焦げていた。砲身の付け根はわずかに歪み、脚部の反動吸収機構は外から見てもずれている。背部の放熱板は半分ほど変形し、外部魂魄管の一本には細かな亀裂が走っていた。機体全体から、熱の抜けきらない鉄の匂いがする。青黒い魔導光が、装甲の隙間でちらちらと瞬いていた。アビスはその前に立っていた。いつもの王宮服に、いつもの黒い髪。いつものように背筋は伸びている。だが、今日は少しだけ目元に疲労があった。
「すまない。出力を上げ過ぎた。何とかなるだろうか」
「何とかはなる」
パーズは機体の脚部を軽く叩いた。鈍い音がする。その音だけで、レイには嫌な予感がした。
「ただ、ちょっとかかるぜ。あと、リミッターも新造しておいた方がいいな」
「リミッターか」
「今のままだと、機体がお前の出力に負ける。機械が壊れるだけならまだいい。逆流したら、お前の頭の中身まで焼けるぞ」
「……そうか」
「命にもかかわってくる問題だ。悪いが、今日は残れるか?」
「私の責任だ。残ろう」
アビスはすぐに答えた。レイは、少しだけ拍子抜けした顔をする。王宮の人間なら、面倒なことは他人に押しつけるものだと思っていた。少なくとも、昔のレイならそう思ったはずだ。だが、一年も顔を合わせていれば、嫌でも分かってくる。
アビスは、偉そうではある。物を知らないところも多い。下層街の常識など、初めの頃は何も分かっていなかった。それでも、自分の失敗を他人のせいにはしない。そこがまた、レイには少し気に入らなかった。嫌いだと言い切れなくなるからだ。
「レイ、何ぼさっとしてる。工具」
「分かってるよ」
パーズに言われ、レイは工具箱を持ち上げた。リサはすでに、外部魂魄管の番号を確認している。
「右肩の三番管、予備ある?」
「三番なら昨日整理した棚の奥」
「八番と間違えないでよ、レイ」
からかうように付け加えると、レイはうんざりした顔をした。前に二度、八番の予備と取り違えたことがある。もっとも本人に言わせれば「一回半」らしい。すぐ気づいた分は数に入れない、というのがレイの言い分だが、リサに言わせればそれも立派な一回だ。
「まったく。雑なんだから」
リサは呆れた顔で言い、すぐにアビスへ向いた。
「ほらアビスもそこ触らない! まだ熱いから火傷するよ」
「確認しただけだ。この程度なら平気だ」
「手袋してても危ないってば」
そう言う男に限って、あとで痛い顔をするのだと決まっている。
アビスは少し黙った。リサは眉を寄せる。
「今、もう痛いんじゃないの」
「作業に支障はない」
リサはため息をついた。そういう言い方はいつも変わらない。事実かどうかではなく、平気かどうかを聞いているのに。だがアビスは答えなかった。
レイは横目でそれを見る。リサがアビスを気にかけるのは、別に今に始まったことではない。アビスが来るたび、リサは顔色だの、指先の震えだの、声の硬さだのにすぐ気づく。それを見ていると、レイの胸の奥で何かが小さく引っかかる。嫌な引っかかりだ。だが、もうその感覚にも慣れてしまった。慣れてしまったことが、さらに気に入らない。
「おい、王子」
「なんだ」
「壊した本人が熱い部品触って怪我したら、修理の手間が増えるんだよ。大人しくしてろ」
「私は王子ではなく、アビスだ」
「じゃあアビス。大人しくしてろ」
「……分かった」
アビスは一歩下がった。リサが小さく笑う。
「わお。珍しく素直」
「必要があれば従う」
「じゃあ、いつも必要あることにしとこうかな」
「それは困る」
「困るんだ」
リサが笑う。アビスは何か返そうとして、結局言葉を探せず視線を外した。レイはその様子を見て、工具を少し乱暴に置いた。
「レイ、音」
「悪い」
リサに注意され、レイは短く返す。パーズは作業台の前でそんな三人を見ていた。そして、煙草をくわえた。火はついていない。この一年で三人の距離は変わった。分かりやすく仲良くなったわけではない。レイとアビスは会えば言い合うし、リサはそのたびに二人を止める。だが、言い合える程度には近くなった。
「パーズさん、これで外部の仮止め終わり」
「こっちも三番管、交換した」
リサとレイが同時に言う。パーズは機体の右肩を見上げた。表面上は形になっている。少なくとも、これ以上勝手に歪むことはない。だが、本番はここからだった。
「よし。外はこれでいい。午後は中だ」
「中って、安定器?」
「安定器と逆流経路、それからリミッターの仮組みだ。お前らが手ぇ出すと、余計に時間がかかる」
レイが不満そうな顔をした。
「見てるくらいならいいだろ」
「お前は見ながら質問する。質問に答えてたら夜が明ける」
「じゃあ黙って見る」
「黙って見られるようになったら考えてやる」
リサが手を上げた。
「はーい、私は?」
「お前は、こいつらが黙ってられない時に止める役になる」
「うわ。確かに」
「納得すんなよ」
レイが言う。アビスも一歩前に出た。
「私は残るべきではないか。自分の機体だ」
「お前が一番駄目だ」
「なぜだ」
「今、中を開けた状態でお前が近くにいたら、機体が反応する。さっきから微妙に脈打ってやがる」
アビスは機体を見た。黒い装甲の奥で、薄い光が揺れている。
「……そんなに不安定か」
「不安定なのは機体だけじゃねぇ。お前もだ」
パーズの言葉に、アビスは口を閉じた。反論はしない。それが答えだった。
「夕方まで時間を潰してこい。その頃までには仮組みが終わる。調整はそれからだ。三人で散歩でもしてろ」
「散歩?」
アビスが聞き返す。リサは少し顔を明るくした。
「いいじゃん。アビス、工房と王宮車の往復ばっかりだし」
「それで十分だ」
「十分かどうかは、見てから決めなよ」
レイは面倒そうに肩をすくめた。
「その格好で出るなら、やめとけよ」
「この格好に問題があるのか」
「ありすぎる。ここじゃ、その服だけで揉め事の種だ」
アビスは自分の服を見下ろした。上質な布、綺麗に整った襟、一目で王宮の者だと分かる仕立て。アビスにとっては普通だった。だが、下層街では違う。
「うーん、そうだな……」
レイはしばらく考え、工房の壁に掛けていた外套を取った。自分のものだ。裾は少し擦り切れている。肩口には古い油染み。袖の端にはリサが直した縫い跡がある。洗ってはいるが、下層街の埃と鉄の匂いが染みついている。レイはそれをアビスに投げた。
「これでも羽織れ。綺麗すぎる服は目立つ」
アビスは受け止めた。外套を広げる。王宮の衣装とは比べ物にならないほど粗い布だった。けれど、破れてはいない。使い込まれているだけだ。アビスは外套を羽織った。途端に王宮の気配が少しだけ薄れる。立ち方や顔立ちは隠せないが、それでも先ほどまでよりずっと下層街に馴染んで見えた。
「すまない。ありがとう」
レイは少し目を細めた。
「なんだ、お礼も言えるんじゃねぇか」
「礼を言うべき時は言う」
「じゃあ普段は?」
「言うべき場面が少ない」
「お前、それ本気で言ってんのか」
「本気だ」
「んだとコラ」
リサが笑って、二人の間に入った。
「はいはい。外に出る前から喧嘩しない」
「喧嘩じゃねぇ」
「レイの顔が喧嘩」
「顔で決めるな」
「だいたい当たるもん」
アビスは外套の袖口を少し見た。縫い直した跡がある。誰かが直したのだろう。リサかもしれない。そう思った瞬間、なぜか袖口から目を離しにくくなった。
「何見てんだよ」
「直してある」
「そりゃ、破れたら直すだろ」
「王宮では、破れたものは取り替える」
「もったいねぇな」
レイはそう言って工房の扉へ向かった。アビスはその背中を見た。もったいない。壊れたら直す。破れたら縫う。使えるものは使い続ける。王宮ではそういうことを考えたことがなかった。外へ出ようとしたところで、当然のように護衛が立ちはだかった。
「お待ちください。殿下を下層街へ護衛なしで出すわけには参りません」
外套を羽織ったアビスは、静かに言った。
「一人ではない。レイとリサがいる」
「なおさら問題です」
「おい、どういう意味だ」
レイが睨む。リサは肩をすくめた。
「まあ、分からなくもないけど」
「リサまで」
アビスは護衛を見る。
「心配は無用だ」
「無用ではありません。殿下に万が一のことがあれば、我々の首が飛びます」
「首は飛ばさせない」
「そういう問題ではありません」
護衛は一歩も引かなかった。アビスが何か言おうとした時、パーズが横から口を挟む。
「なら、お前らも外套でも羽織って離れてついて行け。王宮の鎧でぞろぞろ歩かれる方がよっぽど目立つ」
「しかし」
「ここは下層街だ。目立つ奴から厄介事を拾う。守りたいなら、まず目立つな」
護衛は苦い顔をした。だが、言っていることは正しい。結局護衛数名が外套を羽織り、一定の距離を置いて見守ることで落ち着いた。リサが小声で言う。
「結局ついてくるんだ」
「王子だからな」
レイが返す。アビスは少し申し訳なさそうにした。
「面倒をかける」
「自覚あんのか」
「少しは」
「少しかよ」
リサが吹き出す。
「ほら、行こ。夕方までなんでしょ」
三人は工房を出た。下層街を歩くアビスは、いつもより少しだけ遅かった。道が悪いからではない。見るものが多すぎるからだ。工房へ来る時、彼は王宮車両の窓越しにこの街を見ていた。そこから見える下層街は、狭く、汚く、複雑で、いつも少し暗い場所だった。だが、歩いてみると違う。屋台からは香ばしい煙が上がる。古い看板の下で、子供たちが欠けた歯車を転がして遊んでいる。水路沿いでは、女たちが洗い物をしながら噂話をしている。壁の穴から小さな魚が出てきて、店先の魂魄ランタンの周囲を泳いでいた。一見壊れかけた街だが、死んだ街ではなかった。
リサは顔なじみの屋台で串焼きを三本買った。レイが小銭を出す。アビスも懐に手を入れようとした。
「やめろ」
レイが止めた。
「なぜだ」
「ここで金貨なんか出したら、釣り銭じゃなくて騒ぎが返ってくる」
「騒ぎが返る?」
「面倒になるってこと」
リサが補足した。アビスは納得したような、していないような顔をする。
「金は同じではないのか」
「同じじゃないの。出す場所と出し方があるの」
リサは串焼きを一本渡した。アビスは受け取り、しばらく見た。紙に包まれただけの肉。王宮なら皿に乗って出てくるものだ。リサが言う。
「熱いよ」
「分かっている」
アビスは口に入れた。すぐに動きが止まる。リサが笑った。
「熱かった?」
「……王宮では、適温で出る」
レイが呆れる。
「串焼きくらい、自分で冷ませ」
「そうしよう」
アビスは少し息を吹きかけてから、もう一度食べた。今度は驚いたように目を動かす。
「おいしい?」
リサが聞く。アビスは少し考えた。
「味が強い」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
レイが言う。リサは声を上げて笑った。それから三人は古物市を覗いた。壊れた魂魄計、どこかの工房から流れた歯車。片方だけの手袋に、何か使い道の分からない金属筒。下層街では、誰かが不要になったものも、別の誰かには宝になる。アビスは足を止めることが多かった。レイはそのたびに説明した。雑な説明だったが、それでもアビスは真面目に聞いた。
「これは何だ」
「古い圧力弁」
「なぜ売っている」
「まだ使えるから」
レイの答えはいつもそっけない。この状態で使えるのかと聞けば「磨けばな」、磨けば本当に使えるのかと重ねて聞けば「物による」としか返らず、それは曖昧だと言えば「下層街はだいたい曖昧なんだよ」とはぐらかされる。
リサが笑う。
「あんたたち、なんだかんだ仲良いよね」
レイとアビスは同時に答えた。
「「よくない」」
リサはにやっとした。
「ほら、ぴったり」
「「偶然だ」」
「また合った」
二人の声が重なり、リサはさらに笑った。アビスは一瞬言葉を止めた。こんなふうに声が重なることが少し不思議だった。王宮では誰かと声が重なることなど滅多にない。皆、アビスの言葉を待つ。あるいは、アビスに命令を下す。だが、ここでは違う。リサは笑う。レイは遠慮なく言い返す。屋台の親父は値段を間違えたと怒鳴る。子供は走り回る。騒がしいが、なぜか嫌ではなかった。
日が傾き始めた。下層街の建物の影が伸び、路地の奥から青白い灯りが一つずつともり始める。魚の群れは低くなり、看板の間を泳ぐ光の線が濃くなっていった。護衛たちは少し離れた場所から三人を追っている。目立たぬ外套を羽織ってはいるが、動きが硬い。下層街の人間ではないことは見る者が見ればすぐに分かる。レイはちらりと背後を見た。それから、前を向いたまま小さく言った。
「……撒くか」
リサの目が一瞬で輝いた。
「乗った」
アビスは眉を寄せた。
「待て。それは護衛任務の妨害になる」
「嫌なら帰れ」
「たまには怒られてみなよ」
リサが笑う。アビスは少しだけ困った顔をした。
「怒られる前提なのか」
「うん」
「当然だろ」
レイまで頷く。アビスは二人を見た。
「なぜ当然のように言う」
「怒られるくらいで済むことなら、たまにはやっとけ」
「それは下層街の教訓か」
「レイの悪い癖」
リサがすぐ訂正した。レイは鼻を鳴らす。
「今しか見せられない場所がある」
その言葉にアビスは黙った。今しか見せられない場所。レイがそう言うなら、それはただの悪ふざけではないのかもしれない。アビスは背後の護衛を見た。彼らは真面目に任務を果たしている。それを撒くのは確かに褒められたことではない。だが、リサはもう走る気でいる。レイは路地の先を見ている。アビスは短く息を吐いた。
「……少しだけだ」
レイが笑った。
「決まり」
次の瞬間、レイが走り出した。リサも続く。アビスは半拍遅れた。護衛が声を上げる。
「殿下!」
その声で周囲がざわつく。その喧噪を背に三人は狭い路地へ飛び込んだ。レイは迷わなかった。屋台の布の下をくぐり、積まれた木箱を踏み台にして、錆びた階段へ飛び乗る。リサは軽い足取りで後を追う。アビスも続いた。だが、下層街の道は王宮の訓練場とは違う。段差は一定ではなく、足場は濡れ、配管が思わぬ高さで路地を横切っている。壁から飛び出した古い魂魄管が肘にかすった。
「王宮育ち、足元見ろ!」
レイが前から叫ぶ。
「見ている」
アビスは答えた。直後、足元の細い配管に靴先が引っかかった。体が前へ傾く。倒れる。そう思った瞬間、リサが振り返った。迷いなく手を伸ばす。
「アビス!」
アビスは咄嗟にその手を掴んだ。リサの手は思ったより小さかった。だが、その手はしっかりとアビスを支えてみせた。リサは体重を後ろにかけ、アビスの体勢を引き戻す。アビスは踏みとどまる。倒れなかった。レイが少し先で振り返り、舌打ちした。
「おいおい、王宮の訓練じゃ配管は避けてくれないのかよ」
「今のは足場が悪かった」
「足場じゃねぇ。街だ」
リサはアビスが立てているのを確認すると、すぐに手を離した。
「大丈夫?」
「ああ」
「じゃ、走るよ!」
リサはまた駆け出す。アビスは一瞬だけその場に残った。いま掴んでいた手を見る。手袋越しではない。リサの手の温度がまだ指先に残っている気がした。ほんの一瞬だった。しかしその一瞬が残っているのだ。
「アビス、置いてくよ!」
リサの声で我に返る。アビスは手を握り、すぐに走り出した。レイは前を向いたまま、もう一度だけ小さく舌打ちした。理由は分かっているようで、分かっていない。ただ、リサがアビスの手を取ったのを見た瞬間、妙に面白くなかった。それだけだった。三人はさらに上へ向かう。看板の裏を抜け、壊れた連絡橋を飛び越え、古い搬送レールの上を走る。護衛の声は遠ざかっていった。アビスは途中から動きに慣れてきた。足場の悪さを読む。レイの動きを見る。リサの跳ぶ位置を覚える。すると、体は自然についていった。レイは横目でそれを見た。やはり、身体能力は高い。口には出さない。出せば負けた気がする。
「こっちだ!」
レイが最後の階段を駆け上がった。リサとアビスも続く。錆びた扉を押し開けると、急に視界が開けた。そこは、スラムで一番高い廃ビルの屋上だった。古い輸送施設の跡らしい。かつては上層街と物資をやり取りしていた建物だと言われている。今は使われず、階段も一部崩れ、子供でもそう簡単には登ってこられない。屋上の床にはひびが入り、錆びた鉄骨が柵の代わりに残っている。風の音が強い。
だが、そこから見える景色は、下層街のどこにもないものだった。赤紫に染まり始めた空。その下で、青白い魂魄ランタンが灯っている。細い路地は迷路のように折れ曲がり、屋台の煙が低く漂い、ネオン看板が水に濡れたように光っている。建物の間を、小さな魚の群れが泳いでいた。魚たちは夕暮れの光を受けて、青とも白ともつかない尾を引いている。遠くには王宮の尖塔が見えた。いつもは高く、遠く、下層街を見下ろしているように見えるそれも、ここからは夜空の海に浮かぶ影の一つに過ぎなかった。
リサが息を呑んだ。
「レイ……こんないいとこがあるなら、もっと早く教えなさいよね」
レイは少しだけ目を逸らした。
「別に、隠してたわけじゃねぇよ」
「隠してたでしょ」
「一人で来る場所だったんだよ」
リサは一瞬黙った。その言葉が、ただの言い訳ではないと分かったからだ。ここはレイの場所だった。誰にも邪魔されず、下層街を見渡せる場所。狭い路地の中で生きてきたレイが、たぶん一人で空を見ていた場所。
アビスは屋上の端に立ち、何も言えなかった。下層街を、こんなふうに見たことはなかった。王宮から見下ろす下層街は、汚れた区画だった。地図の上では、治安の悪い地域だった。報告書では、暴動の火種だった。
だが、ここから見る街は違った。壊れていて、古くて、貧しい街だった。雑多で、危うくて、どこもかしこも継ぎ接ぎだらけ。それでも、灯りがある。煙がある。声がある。人がいる。そして、魚が泳いでいる。
レイが横目で聞いた。
「いいだろ?」
アビスはしばらく答えなかった。答えられなかった。やがて、短く言う。
「……ああ」
それだけだった。それだけで十分だった。三人はしばらく黙って景色を見ていた。
リサは古い鉄骨に手を置き、風に髪を揺らしている。レイは少し得意げな顔を隠そうとして、隠しきれていない。アビスはレイの外套を羽織ったまま、街を見下ろしている。その横顔をレイがふと見た。アビスの口元がわずかに緩んでいた。
「お前、普段笑わないよな」
アビスは景色を見たまま答えた。
「必要が無いからな」
「でも、今お前、笑ってるぜ」
「……[tatechuyoko]!?[/tatechuyoko]」
「初めて見た」
アビスは反射的に自分の口元へ手をやった。リサが笑う。
「いいじゃん」
アビスは顔をそらした。
「……別に」
レイがにやりとした。
「照れたな」
「照れたね」
リサも同じように頷く。アビスは眉を寄せた。
「照れていない」
「照れてる奴はだいたいそう言う」
「そうそう」
「……二人とも、うるさい」
そう言いながら、アビスはまた街を見た。
工房へ戻った時、当然ながら全員に怒られた。
「殿下! どこへ行かれていたのですか!」
護衛の声は、怒りと安堵で震えていた。アビスは静かに答える。
「街を見ていた」
「我々を撒いてまでですか!」
「……それについては、悪かった」
護衛は一瞬、言葉に詰まった。アビスが素直に謝ったからだ。だが、それで怒りが消えるわけではない。
「悪かった、で済む話ではありません!」
横ではパーズがレイを睨んでいた。
「お前が言い出したな」
「なんで分かるんだよ」
「顔に書いてある」
「何でも顔で決めんな」
リサが手を上げる。
「私も乗ったよ」
「お前は止めろ」
「でも楽しかった」
「反省しろ」
「はーい」
「返事が軽い」
レイはそっと目を逸らした。
「でも、ちゃんと戻ってきただろ」
「戻ってくりゃいいってもんじゃねぇ」
パーズはレイの頭をげんこつで叩いた。
「いってぇ!」
「痛くしたんだよ」
その時、工房の入口にマルシアが立っていた。
「……何の騒ぎ?」
「母さん」
レイが振り返る。マルシアは包みを抱えていた。夕食の差し入れだろう。工房に来ること自体は珍しくない。彼女はまず、レイを見た。少し埃をかぶっている。髪も乱れている。何かやったのはすぐに分かった。次にリサを見る。リサも同じような状態で、少しだけ気まずそうに笑っている。
そして最後に、アビスを見た。その瞬間、マルシアの視線が止まった。アビスは、レイの古い外套を羽織っていた。王宮の服はその下にある。だが、くたびれた外套が肩を覆い、埃のついた裾が膝の近くで揺れている。袖口には古い縫い跡。肩には油染み。その姿は、いつもの王宮の第一王子とは違って見えた。下層街を走ってきた少年。どこかの路地から、友達と一緒に帰ってきた少年。そう見えた。
アビスは護衛の言葉に少し眉を寄せていた。その横顔を見た時、マルシアの胸の奥で、何かがトクンと小さく鳴った。懐かしい。そう思いかけて、マルシアは戸惑った。目の前にいるのは、王宮の少年だ。自分が知っているはずなどない。それなのに、胸の奥だけが、遠い昔を覚えているようだった。護衛がさらに厳しく言う。
「殿下はご自身の立場をお分かりですか。もし何かあれば――」
アビスは少しだけむっとした顔をした。その顔を見た瞬間、マルシアは息を詰めた。遠い昔、誰かが同じような顔をした気がする。意地を張って、言い返したいのをこらえて、けれど本当は少し傷ついているような顔。誰だっただろう。思い出せそうで、思い出せない。アビスが低く言った。
「……すまない」
その声は静かだった。怒っているのでも、ふてくされているのでもない。ただ、自分が誰かを困らせたと分かって、少しだけ悲しそうだった。その顔を見た瞬間、マルシアの頬に涙が伝った。自分でも驚いた。なぜ泣いたのか分からない。慌てて目元を押さえる。
レイが気づいた。
「母さん?」
「……何でもないわ」
「何でもないって顔じゃないだろ」
マルシアは無理に微笑んだ。
「少し、風が目に入っただけ」
「工房の中だけど」
「レイ」
「……分かったよ」
レイは納得していなかった。けれど、それ以上は聞かなかった。アビスもまた、マルシアを見ていた。なぜ泣いたのか分からない。けれど、その涙を見た瞬間、アビスの中にも言葉にできないものが落ちた。
マルシアはすぐに目を伏せた。王宮の人間を、そんなふうに見つめてはいけない。そう自分に言い聞かせるように。
怒られる時間がようやく終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。パーズは内部修理を終え、簡易リミッターの仮組みも済ませていた。黒い魔導機の青黒い光は、来た時よりも落ち着いている。パーズは記録媒体をアビスに渡した。
「今日のところは動く。だが、高出力は使うな。仮組みだ。無茶すればまた歪む」
「任務次第だ」
「だったら、その任務の方を疑え」
アビスは黙った。パーズは続ける。
「次までに新しいリミッターを組む。月次調整も少し増やすぞ。面倒だが、お前が頭を焼くよりはましだ」
「手間をかける」
「分かってるなら壊すな」
レイが横から言う。
「無理だろ」
「努力はする」
「努力で済むのかよ」
リサがアビスを見た。
「努力より、ちゃんと休む。あと、痛い時は黙ってない」
「……分かった」
「今の間、絶対分かってないやつ」
「いや、今のは分かっている」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目」
リサがじとっと見る。アビスは少し困ったように視線を落とした。パーズはその様子を見て、火のついていない煙草をくわえ直す。少し離れたところでマルシアも三人を見ていた。リサがレイとアビスの間に入り、二人に何か言っている。レイは不満そうで、アビスは真面目に聞いている。マルシアは小さく笑った。
「まあ。リサ、モテモテね」
パーズは鼻を鳴らした。
「小僧ふたりは分かってねぇみたいだがな」
「ふたりとも?」
「片方はリサを見て妙な顔になる。もう片方はそれを見て、なぜか機嫌が悪くなる」
マルシアは口元に手を当てた。
「ふふ」
「リサはレイにベタ惚れだって、誰が見ても分かるだろ」
「ふふ。それが、あの子たちには分からないのよね」
「まだまだ青二才ってこった」
「可愛いじゃない」
「見てる分にはな。巻き込まれる方はたまったもんじゃねぇ」
パーズはそう言ってから、少しだけマルシアを見た。
「……お前、顔色悪いぞ」
「大丈夫よ」
「そうかよ」
パーズはそれ以上聞かなかった。マルシアが嘘をついていることくらい分かっている。だが、今聞いても答えは出ない。マルシア自身がまだ何に揺れているのか分かっていない顔をしていたからだ。
帰り際、アビスはレイに外套を返した。レイは受け取り、裾についた埃を見た。
「洗って返せよ」
「今、返したが」
「埃だらけだろ」
「走ったのは君たちのせいだ」
リサがすかさず言う。
「乗ったのはアビスでしょ」
アビスは少し考えた。
「……それもそうか」
「冗談だ。ほんと、真面目だな」
レイは呆れたように言い、外套を肩にかけた。アビスはその外套を少しだけ見た。ほんの短い時間だった。けれど、それを羽織っていた間自分は王宮の第一王子ではなかった気がする。ただ、レイとリサと一緒に街を走った少年だった。そんなふうに思うことが自分に許されるのかは分からない。だが、あの屋上から見た景色は確かに胸に残っていた。
リサが手を振る。
「じゃあね、アビス」
「ああ」
レイは軽く顎を上げただけだった。
「次は転ぶなよ」
「転んではいない」
「リサに助けられてただろ」
「踏みとどまった」
「はいはい」
リサが笑う。アビスは何か言い返そうとして、やめた。
言い返すより、その笑顔を見ていたかった。そんな自分に気づいて、すぐに視線を外す。
護衛が扉を開けた。アビスは車両へ乗り込む。窓の外で、パーズ工房の灯りが小さく揺れている。レイが外套を肩にかけ、リサがその横で何か言っていた。車両が動き出し、その灯りが小さくなっていく。アビスは、まだ指先に残る布の感触を確かめるように、外套のあった肩のあたりに軽く触れた。
そしてまた、ふっと小さく笑った。
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