読み込み中...
読み込み中...
第3話 / 全8話
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月三日。
春の光は日ごとに柔らかさを増し、畑の麦は少しずつ穂を伸ばしていた。
朝露に濡れた緑が眩しく、風が吹くたびに麦の葉がさわさわと音を立てる。
美桜は鍬を手にしながら、何度も道の向こうへ目をやった。
――今日も、来てくれるだろうか。
昨日までなら、そんなことを考える自分を恥ずかしく思ったかもしれない。
けれど、今は違った。
作業の合間に交わした短い言葉。
ほんの少しの笑顔。
それだけのことなのに、美桜にとっては一日の中で何より大切な時間になっていた。
彼の姿を思い浮かべるだけで、胸の奥が温かくなる。
美桜は鍬を握る手に力を込めた。
土を掘り起こすたび、土の匂いが立ち上る。
けれど、心は落ち着かなかった。
何度目かに顔を上げたときも、道の向こうに湊の姿はなかった。
「……まだ、かな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
風が頬を撫でる。
麦の葉が波のように揺れ、その向こうに見える春の空はどこまでも青かった。
それなのに、美桜の胸には小さな不安が芽を出していた。
いつもなら聞き流してしまう遠くの音まで気になる。
人の足音がすれば顔を上げる。
軍用車の音が聞こえれば、胸が跳ねる。
しかし、何度待っても湊は現れなかった。
昼近くになっても、その姿は見えない。
「今日は……来ないのかな」
口にした途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
戦況が厳しいことは、町の誰もが感じていた。
ここ数日は、毎日のように基地から零戦が飛び立っている。
空を裂くエンジン音を聞くたび、美桜は無意識に空を見上げていた。
出撃の準備が進んでいる。
そんな噂も耳にしていた。
だからこそ、湊が来ない理由を考えることが怖かった。
――きっと、忙しいだけ。
そう自分に言い聞かせる。
――きっと、明日は来てくれる。
けれど、そう思おうとすればするほど、不安は大きくなった。
同じ頃。
基地の中では、湊もまた、美桜のことを考えていた。
朝から訓練が続いていた。
機体の点検、燃料の確認、装備の準備、模擬空戦、急降下訓練。
いつもと変わらない作業のように見えて、その一つひとつに緊張が張りつめている。
「村瀬少尉!」
呼ばれて、湊は振り返った。
「はい」
「昼からは急降下訓練を多めに頼む」
「了解しました」
返事をしながらも、湊の目は一瞬、基地の外へ向いた。
その先に、美桜のいる村がある。
――今日は、会えると思っていた。
昨日の別れ際、美桜が見せた笑顔が頭から離れなかった。
麦畑の中で、風に三つ編みを揺らしながら立っていた姿。
あの笑顔を、もう一度見たかった。
ほんの少しでいい。
言葉を交わすだけでもいい。
けれど、今日は基地を離れられそうになかった。
湊は腕時計に目を落とした。
時間だけが過ぎていく。
昼を知らせる合図が鳴った。
仲間たちが食事へ向かう中、湊は機体のそばに残った。
「……美桜さん、待ってるかな」
思わず口から漏れた。
誰かに聞かれたような気がして、湊はすぐに口を閉じる。
こんな時代に、自分が誰かを想うことが許されるのか。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど、それでも美桜に会いたいと思う気持ちは消えなかった。
むしろ、会えないと分かったことで、余計に強くなっていた。
――会いたい。
ただ、それだけだった。
午後になっても、訓練はより激しくなり、湊は基地を離れることができなかった。
上官からは都度新たな指示が出され、激しい訓練が続いた。
空は次第に傾き、陽の光が少しずつ赤みを帯びていく。
湊は空から落ち行く夕日を見た。
この空の下に、美桜がいる。
そう思うだけで、胸の奥が痛くなった。
「今日は……無理か」
小さく呟く。
会いに行けない。
その事実が、思っていた以上に苦しかった。
湊は一瞬操縦桿から手を離し、ポケットに触れた。
そこには、美桜からもらった小さな紙片が入っていた。
何気ない言葉を書いただけのものだった。
けれど、湊にとっては大切なものだった。
紙を指先で確かめる。
そして、そっと胸元へしまった。
「明日は……必ず」
誰に誓うでもなく、湊は呟いた。
夕方。
美桜は家へ戻った。
一日中待っていたのに、湊は来なかった。
何か悪いことがあったのではないか。
出撃したのではないか。
そんな考えが浮かぶたび、美桜は首を振った。
「違う……きっと、忙しかっただけ」
そう言い聞かせる。
けれど、胸の奥にできた不安は消えなかった。
家の中は静かだった。
美桜は机の前に座る。
行灯に火を灯すと、薄暗い部屋に淡い光が広がった。
紙を一枚取り出す。
筆を手にした。
けれど、何を書けばいいのか分からない。
筆先が紙の上で止まる。
(あの人に、何を伝えればいいの……)
会いたい。
ただ、それだけだった。
でも、その一言を書くのは、あまりにも恥ずかしかった。
何度も書きかけては筆を置く。
やがて美桜は、胸の奥にある想いを短歌に託すことにした。
静かに墨を含ませ、筆を走らせる。
港路に
咲き待つ桜 春の風
君を迎えむ 波に祈りて
書き終えると、美桜はしばらくその歌を見つめた。
胸の奥にあったざわめきが、ほんの少しだけ静かになる。
けれど、会えなかった寂しさまでは消えなかった。
「……明日は、来てくれるよね」
誰もいない部屋で呟く。
返事はない。
美桜はその歌を便箋にしたため、丁寧に折り畳んだ。
小さな封筒に入れる。
そして、宛名のところに筆を走らせた。
――湊さんへ。
その文字を見つめると、胸が熱くなった。
自分からこんなものを渡すなんて。
恥ずかしくて、少し怖い。
けれど、このまま何もしなければ、きっと後悔する。
美桜は立ち上がった。
まだ外は暗くなっていない。
胸元に封筒を忍ばせ、家を出た。
夕暮れの道を、美桜は基地へ向かって歩いた。
道端には菜の花が咲いている。
風に揺れる黄色い花が、春の訪れを告げていた。
けれど、美桜の瞳にはその美しささえ、ほとんど映っていなかった。
基地が近づくにつれ、足取りが重くなる。
本当に渡していいのだろうか。
迷惑ではないだろうか。
もし、湊に何かあったら――。
そこまで考えて、美桜は首を振った。
「……だめ」
怖くても、ここまで来た。
引き返したくはなかった。
門の前には見張りの兵士が立っていた。
美桜は深く息を吸う。
「すみません……」
兵士が怪訝そうに振り向いた。
美桜は胸元から封筒を取り出す。
「村瀬少尉に……これを、お渡しいただけませんか」
兵士は封筒を受け取った。
表には、ただ一言。
「湊さんへ」
そう書かれていた。
兵士は一瞬、美桜の顔を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……確かに預かりました」
「ありがとうございます」
美桜は深く頭を下げた。
胸の奥に、小さな灯がともる。
(届いて……)
門を離れながら、もう一度だけ振り返る。
けれど、そこに湊の姿はなかった。
美桜は寂しそうに微笑んだ。
「……明日は、会えるかな」
その声は、夕暮れの風に溶けていった。
その頃、湊は基地の兵舎へ戻っていた。
一日の訓練を終え、疲れた身体を椅子に預ける。
会えなかった。
それだけのことなのに、妙に心が落ち着かなかった。
美桜は今日も麦畑で待っていただろうか。
自分を探して、何度も道の向こうを見ていたのではないか。
そう考えると、胸が締めつけられる。
その時だった。
「村瀬少尉殿」
声をかけられ、湊は顔を上げた。
先ほど門にいた兵士だった。
「何だ?」
兵士は一通の封筒を差し出した。
「これを預かっています」
湊は受け取った。
そして、表を見た瞬間、息を止めた。
――湊さんへ。
見慣れた文字だった。
胸の奥が、熱くなる。
「……美桜さん」
思わず名前がこぼれた。
会えなかった。
今日、一度も顔を見ることができなかった。
それなのに、美桜は自分のことを想ってくれていた。
湊は封筒を両手で持った。
すぐに開けることができなかった。
まるで、そこに美桜の想いそのものが封じ込められているように感じたからだ。
ゆっくりと封を開く。
中から、一枚の紙が現れる。
そこには、美桜の筆跡で短歌が綴られていた。
湊は一行ずつ、静かに目を通した。
港路に
咲き待つ桜 春の風
君を迎えむ 波に祈りて
読み終えた湊は、しばらく何も言わなかった。
やがて、紙を胸元にそっと当てる。
「……私も、会いたかった」
誰もいない部屋で、静かに呟いた。
その夜。
基地の中は静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のように消え、遠くから時折、機械の音だけが聞こえてくる。
湊は机の前に座っていた。
目の前には、一枚の便箋。
筆を持ったまま、しばらく何も書けなかった。
何を書けばいい。
そう考えるほど、言葉が出てこない。
美桜に会いたかった。
今日、会えなかったことが悔しかった。
それをそのまま書いてしまえばいいのかもしれない。
けれど、軍服を着て基地にいる自分が、そんな言葉を書くことにためらいがあった。
湊は一度筆を置いた。
窓の外を見る。
夜空には、春の薄い雲が流れていた。
その向こうに、美桜のいる村がある。
「……明日は、会えるだろうか」
小さく呟く。
そして、もう一度筆を取った。
短い言葉を書いては消す。
何度も書き直す。
やがて湊は、言葉では伝えきれない想いを、歌に託すことにした。
墨を含ませた筆先が、静かに紙の上を走る。
春の丘
港に咲ける 桜花
君を想えば 風に微笑む
書き終えた湊は、その歌をしばらく見つめていた。
最後に、名前だけを書く。
――湊。
筆を置く。
小さく息を吐いた。
封筒に便箋を入れ、丁寧に封をする。
本当なら、自分の手で渡したかった。
けれど、明日の朝から訓練がある。
湊は封筒を持って立ち上がった。
廊下へ出ると、顔見知りの若い兵士がいた。
「悪いが、頼みたいことがある」
「はい」
「明日の朝、村のほうへ行く用事はあるか?」
兵士は少し考えた。
「物資を届けに、近くまで行く予定があります」
「そうか」
湊は封筒を差し出した。
「その途中で、これを届けてほしい」
兵士が封筒を見る。
「誰にですか?」
湊は一瞬だけ黙った。
そして、静かに答えた。
「白石美桜という女性だ」
「分かりました、村の方に聞いてみます」
「……必ず本人に渡してくれ」
「はい」
兵士が封筒を受け取る。
湊はその手から離れた封筒を、名残惜しそうに見つめた。
「頼んだ」
「了解しました」
兵士が去っていく。
湊は一人、廊下に残った。
明日は会いたい。
今日会えなかった分まで、話したかった。
そして、できることなら――
美桜の笑顔を、もう一度見たかった。
その夜、美桜も眠れずにいた。
布団の中で何度も寝返りを打つ。
今日、会えなかった。
それだけなのに、こんなにも寂しい。
けれど、手紙は渡した。
湊の手に届いただろうか。
読んでくれただろうか。
恥ずかしさに胸が熱くなる。
美桜は目を閉じた。
「……読んでくれますように」
小さく呟く。
窓の外で、桜の枝が揺れていた。
一枚の花びらが、夜風に乗って舞っていく。
美桜はその花びらを見つめながら、いつの間にか眠りについた。
その頃、基地の灯りの下では、湊もまた明日のことを考えていた。
二人はまだ知らなかった。
明日の朝、一通の返歌が二人を再び結ぶことを。
春の夜は静かに更けていった。
この話はいかがでしたか?
この作品を評価する