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第4話 / 全8話
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月四日。
朝の光が麦畑を照らしていた。
夜露を含んだ麦の葉が風に揺れ、ところどころに残った水滴が、朝の陽を受けて小さく輝いている。
美桜は鍬を手にしながら、何度も道の向こうを見た。
昨日は、会えなかった。
それでも、今日はきっと来てくれる。
そう思っていた。
胸の奥には、昨日とは違う小さな期待があった。
その時――。
「白石美桜さん」
声がした。
振り返ると、見知らぬ若い兵士が立っていた。
美桜は驚いて、鍬を置いた。
「……はい?」
兵士は少し緊張したように、美桜の顔を確認した。
「白石美桜さん、ですね?」
「はい……」
兵士は懐から、一通の白い封筒を取り出した。
「村瀬少尉殿からです」
美桜の目が見開かれた。
「……湊さんから?」
「昨夜、お預かりしました」
その言葉に、胸が大きく高鳴った。
美桜は震える手で封筒を受け取った。
表には、見慣れた文字があった。
――美桜さんへ。
その文字を見ただけで、昨日の寂しさが嘘のようにほどけていく。
「ありがとうございます……」
兵士は小さく頭を下げると、来た道を戻っていった。
美桜はその背中を見送った。
手の中の封筒が、ひどく大切なものに思えた。
すぐには開けられなかった。
胸の鼓動が速すぎて、指先が震えている。
やがて美桜は畑の端にある木陰へ移った。
誰にも見られないように、そっと封を開く。
中には一枚の便箋。
そこには、丁寧な筆跡で短歌が綴られていた。
春の丘
港に咲ける 桜花
君を想えば 風に微笑む
最後に、小さく――
「湊」
と記されていた。
美桜はしばらく、何も言えなかった。
昨日、自分が書いた歌。
それに、湊が返してくれた。
たった一首の短歌。
けれど、その中には、昨日会えなかった時間のすべてが詰まっているように思えた。
「……読んでくれたんだ」
声にすると、涙が一粒、頬を伝った。
悲しい涙ではなかった。
美桜は慌てて涙を拭った。
朝の風が吹く。
麦の穂が一斉に揺れた。
その音を聞いていると、湊の声がすぐそばにあるような気がした。
「……今日、会える」
美桜は小さく呟いた。
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
午後。
作業を終えた美桜は、制服に着替えると町外れの桜並木へ向かった。
昨日、湊は来なかった。
けれど今日は、きっと来てくれる。
そう信じていた。
桜並木に近づくにつれて、風に乗って花びらが舞ってくる。
満開までもう少しの桜の枝から、花びらが一枚、また一枚と落ちている。
美桜はその下に立った。
胸元には、湊から届いた短歌。
何度も読み返した紙だった。
(今日こそ……)
その時だった。
遠くに人影が見える。
美桜は顔を上げる。
桜の枝の向こうから、一人の青年が歩いてくる。
略帽を深くかぶり、青褐色の軍服を身につけている。
陽の光を受けた軍服が、淡く光っていた。
見慣れた姿。
けれど、昨日会えなかった分だけ、その姿がひどく懐かしく感じられた。
「湊さん……!」
思わず声が出た。
青年が顔を上げる。
湊は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「美桜さん」
その声を聞いた瞬間、美桜の胸がいっぱいになった。
「来てくれたんですね」
「昨日、行けなかったから……今日は、どうしても」
湊は少し照れたように笑った。
「僕のほうこそ、昨日はすみませんでした」
「いえ……」
美桜は首を横に振った。
「手紙……ありがとうございました」
その言葉に、湊の表情が柔らかくなる。
「届いたんですね」
「はい」
美桜は胸元から便箋を取り出した。
「何度も読みました」
「……僕もです」
「え?」
「昨日いただいた歌です」
湊は少しだけ視線を落とした。
「何度も読みました」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
けれど、その沈黙は気まずくなかった。
言葉にしなくても、お互いの気持ちが分かるような気がした。
やがて湊が桜の枝を見上げた。
「綺麗ですね」
「はい」
「昨日、ここに来ようと思っていたんです」
美桜が驚いて湊を見る。
「昨日も?」
「ええ。でも、訓練が終わらなくて」
「……そうだったんですね」
美桜は少しだけ俯いた。
昨日、自分が一日中待っていたこと。
湊もまた、会いたいと思っていたこと。
それを知るだけで、胸の奥が温かくなった。
二人は並木道の端に腰を下ろした。
風が吹くたび、桜の花びらが二人の間を舞っていく。
美桜は隣に座る湊の横顔をそっと見つめた。
けれど、すぐに気づいた。
少し疲れている。
目の奥に、昨日までとは違う緊張があった。
「……湊さん」
「はい」
「何か……あったんですか?」
湊はすぐには答えなかった。
空を見上げる。
桜の枝の向こうに、淡い青空が広がっていた。
「訓練が、少し厳しくなってきています」
美桜は黙って聞いていた。
「基地でも、出撃の話が出るようになりました」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
出撃。
昨日も聞いた言葉だった。
けれど、湊本人の口から聞くと、その重さはまるで違った。
「……いつ、ですか?」
美桜の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「まだ、命令は出ていません」
湊はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも……そう遠くないのかもしれません」
美桜は膝の上で手を握りしめた。
行かないで。
そう言いたかった。
怖い。
帰ってきて。
そう叫びたかった。
けれど、それを口にすることはできなかった。
湊は戦うためにここにいる。
それを、美桜も分かっていた。
だから、代わりに尋ねた。
「……怖くないんですか?」
湊はしばらく黙っていた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「怖くないと言えば、嘘になります」
風が二人の間を通り抜ける。
「でも……僕は志願して、ここへ来ました」
湊は静かに続けた。
「覚悟はしています」
その言葉を聞いて、美桜は胸が締めつけられるような思いがした。
覚悟。
その言葉が、二人の間に見えない壁を作ったように感じた。
それでも、今だけはその壁を越えたかった。
美桜は顔を上げる。
「……また、来てくれますか?」
湊が美桜を見る。
「もちろんです」
そう言ったものの、その瞳にほんの少しだけ寂しさが浮かんだ。
「明日も……ここで会えたら嬉しいです」
「はい」
美桜は頷いた。
「私も来ます」
そして、少しだけ強く言った。
「絶対に」
湊は目を細めた。
「……絶対に、ですか」
「はい」
美桜は笑った。
「昨日、会えなかった分も……今日はいっぱい話したいです」
湊も笑った。
その笑顔を見ていると、美桜は胸の中にあった不安が少しだけ薄れていくのを感じた。
二人はそれから、たわいのない話をした。
麦畑のこと。
村のこと。
春になったら咲く花のこと。
美桜が子どもの頃に見た桜の話。
湊が故郷で見た春の景色。
戦争の話をしない時間が、二人には必要だった。
ほんの一時間ほど。
それだけの時間だった。
けれど、美桜にとっては、一日が一年になったように感じられた。
やがて陽が傾き始めた。
湊が立ち上がる。
「そろそろ戻らないと」
「……はい」
本当は、まだ帰ってほしくなかった。
でも、それを言えなかった。
湊は略帽をかぶり直す。
そして、少しだけ振り返った。
「また明日」
「はい。また明日」
湊は微笑んだ。
「じゃあ」
軽く帽子のつばに指を添え、歩き出す。
美桜はその背中を見つめていた。
桜の花びらが風に舞い、湊の姿を少しずつ遠ざけていく。
見えなくなるまで、美桜はそこに立っていた。
(明日も、会える)
そう思った。
そう信じたかった。
けれど、胸の奥には小さな不安が残っていた。
夜。
美桜は机に向かっていた。
行灯の淡い光の中で、湊から届いた短歌をそっと広げる。
春の丘
港に咲ける 桜花
君を想えば 風に微笑む
指先で、最後に書かれた名前をそっとなぞる。
――湊。
たった一文字。
それなのに、その文字を見るだけで胸が熱くなる。
美桜は紙を折り畳み、胸元にそっと抱いた。
障子の向こうで、夜風が桜の枝を揺らしている。
花びらが一枚、また一枚と散っていく。
「……この言葉を、ずっと覚えていたい」
小さな声が、静かな部屋に消えた。
その頃、基地では湊が隊舎へ呼び出されていた。
夕暮れが鹿屋の空を赤く染めている。
滑走路の向こうでは発動機の音が絶え間なく響き、夜間訓練飛行の零戦の影が薄暗い空へと消えていった。
部屋には数人の搭乗員が集められていた。
誰も口を開かない。
ただ張り詰めた空気だけが部屋を満たしている。
やがて飛行隊長が静かに口を開いた。
「諸君に命令を伝える」
その一言で、空気がさらに重くなる。
湊は背筋を伸ばした。
隊長は手元の書類に目を落とし、ゆっくりと名前を読み上げていく。
一人。
また一人。
その度に短い返答が響く。
そして。
「村瀬湊少尉」
「はっ」
反射的に声が出た。
隊長の前へ進み出る。
差し出された一枚の紙を受け取った。
その瞬間、心臓が大きく脈打った。
視線を落とす。
紙の上には黒々とした文字が並んでいる。
そこには確かに記されていた。
――特別攻撃隊出撃命令。
湊の喉がわずかに動いた。
出撃予定日は四月七日。
あと三日。
頭ではいつか来ると分かっていた。
覚悟もしていたつもりだった。
しかし実際に命令書を手にした瞬間、その文字は鋭い刃のように胸へ突き刺さった。
隊長の声が聞こえる。
「諸君らの忠勇に期待する」
搭乗員たちは声を揃えて応えた。
誰一人として動揺を見せない。
それが海軍軍人としての務めだった。
だが、その胸の内までは誰にも分からない。
命令伝達が終わり、解散が告げられる。
湊は敬礼すると部屋を後にした。
夕陽に染まる廊下を、一人歩く。
窓の外には春の空が広がっていた。
数時間前。
桜並木の下で見た空と同じ空だった。
『明日も……ここで会えたら嬉しいです』
不意に、美桜の声が蘇る。
湊は立ち止まった。
そして、そっと胸ポケットへ手を入れる。
指先が一枚の紙に触れた。
美桜から受け取った短歌。
幾度も読み返した紙だった。
湊はそれを取り出し、夕陽の中で見つめた。
柔らかな文字。
そこに込められた想い。
先ほど受け取った命令書とはあまりにも対照的だった。
ひとつは生を語る言葉。
ひとつは死地へ向かう命令。
湊は静かに目を閉じた。
明日。
美桜に会う。
伝えなければならない。
けれど、どう伝えればいいのか分からなかった。
怖がらせたくない。
泣かせたくない。
それでも隠したままではいたくなかった。
「……困ったな」
小さく漏れた声は夕暮れの風に消えた。
遠くで発動機が唸りを上げる。
轟音とともに、一機の零戦が滑走路を駆け抜けていく。
湊はその姿を見送った。
三日後には、自分もあの空へ向かう。
そして帰ることはないのかもしれない。
そう思うと、不思議なくらい恐怖よりも先に浮かんだのは、美桜の笑顔だった。
『絶対に』
別れ際に言った言葉。
桜の花びらの中で見せた笑顔。
湊は短歌を胸ポケットへ戻した。
そして命令書を強く握りしめる。
明日だけは。
せめて明日だけは、彼女に会いたかった。
夜の鹿屋に飛行機の音が響く。
春の風は静かに吹き続けていた。
散り始めた桜だけが、二人に残された時間を知っているかのようだった。
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