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第一部 地域ローカルスーパー(下級神)編 / 第3話
閉店セール、二十一日目の朝。
開店準備をしていたら、タエさんが店の隅の祠に、饅頭をひとつ供えているのが見えた。いつもの掃除だけじゃない。線香まで立てている。
「タエさん、何やってんです」
「何って、お供えよ。今日、神様の命日でしょ」
……ああ、そうか。今日だったか。
自分の命日を人に教えられる神様というのも、なかなかいないと思う。しかも供え物が饅頭一個。安い一周忌だ。まあ、うちで売ってる饅頭だから、売上には計上されるんだが。
「線香、煙いんですけど」
「我慢しなさい。仏さんになっとったかもしれんのだから」
タエさんはそう言って、しわくちゃの手を合わせた。
俺は神様なので、拝まれると断れない。仕方なく饅頭の前に立って、一年前のことを思い出すはめになった。
……あんまり、思い出したくないんだけどな。
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一年前の俺は、都内の食品卸で営業をやっていた。
社名は言わない。言う価値もない。分かりやすく言えば、スーパーやコンビニに食品を卸して、断られて、頭を下げて、また卸す仕事だ。
俺のデスクの上には、いつも数字があった。
今月のノルマ、達成率、前年同月比。ホワイトボードには営業全員の成績が棒グラフで貼り出され、俺の棒はいつも真ん中より少し下にいた。真ん中より少し下というのは、一番詰めやすい位置らしい。下すぎると諦められるし、上なら文句がない。惜しいやつが、一番怒鳴りがいがある。
「御削ぃ、この廃棄ロスなんだよ」
課長の声は、今でも耳の奥で再生できる。
俺の担当先で売れ残った商品は、俺の見込みが甘かったせいだ、というのが課長の理屈だった。だから伝票の帳尻が合わない月は、俺が「自主的に」買い取った。誰に強制されたわけでもない。強制されたわけでもない、という形式だけが、きちんと整っていた。
ワンルームの部屋の隅には、自分で買い取った缶詰やレトルトが積んであった。賞味期限の切れたやつから、少しずつ食って処分した。味なんか覚えていない。数字を食ってるのと同じだった。
月の残業は百八十時間を超えていた。タイムカードは百八十時間を指していなかった。指さないように切ってから働くのが、あの会社の礼儀だったからだ。
今の俺なら分かる。あの頃の俺は、賞味期限が切れかけていた。人間にもあるのだ、そういうものが。切れる前は、自分では分からないというだけで。
そんなある日、課長より偉い誰かに呼ばれて、こう言われた。
「御削くん、君の親戚、四国でスーパーやってたよね」
父方の大叔父が、松山で小さなスーパーをやっている。入社時の身上書に書いた一行を、会社はちゃんと覚えていた。大叔父が倒れて店が立ち行かない、後継ぎもいない、ついては君、行ってあげたらどうか。籍はどうする、ああ、それは追って、という話だった。
追って、の続きは一度も来なかった。要するに、体のいい退職勧奨だった。
抵抗しなかった。悔しさより先に、「これで寝られる」と思った。そう思ってしまった自分に、一番がっかりした。
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みそぎ屋に着いた日のことは、よく覚えている。
シャッターは半分閉まり、店内の棚には商品が残ったまま、埃をかぶり始めていた。大叔父が倒れてから二週間、店は開いていなかった。
病院に見舞いに行くと、大叔父は思ったより元気に喋った。ただ、もう店には立てない体だった。
「零。店、頼めるか」
「……俺、経営なんてやったことないですよ」
「わしもなかったわ、五十年前は」
大叔父は笑って、それから店の権利書やら通帳やらの場所を教えてくれた。手続きは呆気ないほど簡単だった。判子をいくつか押して、俺は築四十年の赤字スーパーの店主になった。
その帰り道だった。
雨で、夕方で、交差点で、配送トラックがいた。
痛みの記憶はない。覚えているのは、濡れたアスファルトがやけに近くにあったことと、散らばった荷物――トラックから落ちた食品のパックが、雨に打たれていたことだけだ。
ああ、廃棄だな、と思った。
最後に考えたことが、それだった。
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目が覚めたら、店にいた。
正確には、店の隅の、小さな祠の前に立っていた。夜の店内。電気は点いていないのに、なぜか全部が見えた。
そして、頭の中に説明が流れ込んできた。誰の声でもない。強いて言えば、辞令に近い。この土地に祀られた神格の欠員につき、死亡した継承者をもって補充する。ドメインは「みそぎ屋」。信者数、零。付与される権能は一つ。
「賞味期限」
……は?
俺は待った。続きを待った。炎とか、雷とか、せめて金運とか、そういうまともな続きを。来なかった。それで全部だった。
信者数は零。神力もほぼ零。名前まで零。ここまで揃うと、笑うしかなかった。でもその夜は、まだ笑えなかった。
店の鏡に映った自分は、知らない男の顔をしていた。死んだときの顔とは違う、どこか古風な顔立ちの男。それが自分だと理解するのに、ずいぶんかかった。名前と権利書だけ継いだ店で、顔まで別人になって、俺はもう、戸籍の上でも見た目の上でも、どこにもいない人間になっていた。
朝まで、祠の前に座っていた。
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「――あんた、新しい神様かい」
朝一番にシャッターの隙間から入ってきたタエさんは、俺を見るなり、そう言った。
驚かなかったのかと後で聞いたら、「この店の祠は昔から拝んどったから、いつか誰か座るとは思っとった」と言われた。信心深い人間には、神格が視えることがある。俺の最初の信者は、俺が神になる前から、この店の神様を拝んでいた人だった。
「大将の代わりに来たんなら、まず、あれを何とかしなさい」
タエさんが指したのは、店の奥だった。
二週間、閉まったままだった店。冷蔵ケースの中で、商品が静かに死んでいた。牛乳、豆腐、総菜、精肉。棚の菓子パンには、うっすらとカビの緑。
廃棄の山だった。
俺は、雨の交差点を思い出した。散らばったパックを。部屋の隅の缶詰を。課長の声を。数字を食っていた日々を。俺の人生の後ろには、いつも廃棄の山があった。死んでまで、まだあるのか。
そのとき、視えた。
冷蔵ケースの牛乳の上に、浮かんでいた。
【賞味期限:三日超過】【操作可能】
……操作、可能?
手を伸ばした。ラベルに触れて、日付を、指でなぞるように戻した。ただそうできると、なぜか分かった。
【賞味期限:残り五日】
牛乳パックが、ほんのわずか、白さを取り戻した。
俺はしばらく、その場から動けなかった。それから、ケースの中の商品を、片っ端から確かめた。豆腐。戻る。総菜。戻る。精肉。戻る。菓子パンのカビの緑が、視界の中で薄れて、消える。
廃棄の山が、売り物の山に戻っていく。
「……嘘だろ」
呟いて、気づいた。頬が緩んでいた。
炎も雷も出ない。誰も殴れない。金も湧かない。ハズレ権能。けど――廃棄が、消せる。ロスが、ゼロになる。あの会社で、俺が毎月、自腹で買い取らされていたものが。俺の給料を、部屋の隅を、人生を埋めていったあの山が。
これ、俺が一番欲しかった力じゃねえか。
「よし」
俺は牛乳のパックを一本手に取って、誰もいない冷蔵ケースに向かって、こう言った。
「安心しろ。お前たちはまだ、廃棄対象じゃない」
言ってから、自分で笑った。神様になって初めて笑ったのが、商品相手の軽口だった。
たぶん、あの瞬間だと思う。折れかけの営業マンでも、轢かれた後継ぎでもない、みそぎ屋の神様――「零」が開店したのは。
その日、二週間ぶりにシャッターを全部開けた。タエさんがきゅうりを一本と、納豆を買ってくれた。
それが、俺の転生初日の全売上だった。
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「――で、いつまで饅頭の前で黙っとるの」
タエさんの声で、我に返った。線香は短くなっていた。
「いや、一周忌なんで。故人を偲んでました」
「あんたが故人でしょうに」
「そうとも言う」
俺は饅頭を下げて――神様なのでお下がりは俺のものだ――レジに戻り、いつもの電卓を叩いた。せっかくの命日だ。たまには、去年の数字と比べてやろう。
【一年前の月間残業:百八十七時間(記録上:七十二時間)】
【一年前の手取り:十九万三千円】
【自腹で買い取った廃棄ロス:累計約四十万円分】
【本日の売上:五万二千四百円(前日比プラス八パーセント)】
【本日の客数:三十四名】
【本日の廃棄ロス:零円】
どっちの数字がまともかなんて、電卓を叩くまでもなかった。
数字に殺された男が、数字に生かされてる。笑える話だ。だから俺は今日も、笑って店を開ける。
閉店セール二十一日目。本日も、無事閉店せず。
後書き
「閉店一年前」お読みいただきありがとうございました。数少ないシリアス回でしたが、零の原点、届いていれば嬉しいです。彼の軽口には、ちゃんと理由があるんですよね。
次回からはいつものノリに戻ります。みそぎ屋に、役所の人がやってきます。タイトルは「神様、それはコンプライアンス違反です!」……誰が誰に言うのかは、読んでのお楽しみ。
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