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第一部 地域ローカルスーパー(下級神)編 / 第18話
翌朝、俺は昨日の会計報告を書こうとして、やめた。
書こうとした、は正確じゃない。電卓の前に立って、指を置いて、それきり動かなかった。五分か、十分か。ドロワーの上のKiraが、何も言わずにこっちを見ていた。
指が、まだ震えていた。
昨日、この指で何をしたかは、覚えている。悔いてるのかと聞かれると、正直、分からない。もう一度同じ場面が来たら、俺はたぶん同じことをする。それが一番、怖かった。悔いてないことが、怖かった。
「神様、お茶」
タエさんが、湯呑みを置いてくれた。薙ぎ払われた棚の片付けを、朝から黙々と続けてくれている。俺は何か軽口を言おうとして――「大将の代にも、棚が飛んだことなんて」――途中で、やめた。続きが出てこなかった。軽口ってのは、心に在庫がないと出せないらしい。初めて知った。
奥の座敷では、葛の葉が眠り続けていた。姿の明滅は止まらない。間隔は、昨日よりさらに、伸びていた。
そんな午前中に、そいつは来た。
「――ひどい店だ。開店休業ですか」
風が、先に入ってきた。自動ドアが開く前から、店の中の紙という紙が、ざわ、と浮いた。入ってきたのは、恰幅のいい初老の男。仕立てのいいスーツに、支社長徽章。
「エターナル・リテール中四国地域支社、支社長の野分と申します。昨夜は、うちの対策室長が大変お世話になったそうで」
【対象:野分(上位神・嵐)】【賞味期限:残り∞】【操作:不能(神力残高不足)】
……不能。
昨日の消費期限で、俺の残高は底をついていた。七割引のときの比じゃない。視るだけで、こめかみが軋んだ。
「本題だけ言います。本日付で、当該地権および神域権の収用手続きが完了しました。合法的に、です。おたくの行政のお嬢さんが調べても、今回は瑕疵一つ出ませんよ。何しろ昨夜、うちは本社の上位神を一柱『消費』されましてね。神格の消滅は、太古の契約でも最重度の事案だ。おかげで神社庁への申立てが、実にスムーズに通りました」
「……手続きのために、鳴瀧を寄越したのか」
「人聞きの悪い。彼の独断です。ただまあ、結果は活用させていただく。それが組織というものです」
頭のどこかが、ぷつりと切れかけた。カウンターを掴んで、踏み出しかけた俺の体は――次の瞬間、店の壁まで吹き飛ばされていた。
風。ただの風だった。指一本、動かした様子もなかった。
「おっと。老婆心ですが、今のあなたは、シール一枚分の神力もない。それは商人としてどうかと思いますよ。在庫を全部、復讐に使い切るなんて」
野分は、一枚の書面を、風でレジの上に滑らせた。
「立ち退き勧告書です。期限は一週間。それを過ぎれば、この神域は嵐で更地です。……ああ、それとチューリング君なら戻ってきませんよ。無断帰宅で謹慎処分中です。優秀な子でしたがね、現場を見せると、ああなる」
風が、出ていった。
店内に、紙の落ちる音だけが、ぱさぱさと残った。
◇
「――羽田です!」
その日の夕方、翔が、スマホの画面を突き出してきた。
「穴守稲荷、調べたんです。くーちゃんさんの神社。あれ、分社なんですよ。総本社は東京の羽田にある。羽田空港のすぐそば! 昔、空港を作るときに鳥居だけどうしても動かせなかったっていう、有名な……えっと、とにかく、格の高い神様が今もいるはずなんです。狐神の総本社なら、くーちゃんさんの治し方も!」
「……翔、お前」
「オタクなめないでください。推しの神様のことは、調べるんです」
葵が、手帳を開いた。
「神域課のルートで照会します。……いえ、間に合わない。正式な照会は決裁に四日かかります。期限は一週間。往復と交渉を考えたら」
「じゃ、直接行くしかないですね」
俺は、レジの下から、店の現金袋を取り出した。昨日書けなかった売上の、その前の週の分。
「松山空港から羽田まで、飛行機で一時間半。日帰りできます。……店、頼んでいいですか。タエさん、翔。それと葵さ――椿木さん。葛の葉さんのこと」
「行ってらっしゃい。店は任せなさい」とタエさん。
「葵で、いいです」
え、と顔を上げたら、葵はもう手帳に視線を戻していた。
「呼び間違えるたびに言い直されると、時間の無駄なので。業務効率の問題です。……気をつけて、行ってきてください」
◇
羽田は、海と空港の町だった。
飛行機の腹が頭の上を掠めていく参道を抜けると、赤い鳥居の連なる社があった。穴守稲荷、総本社。松山の、あの寂れた分社とは違う。手入れされた社殿、並ぶ奉納幟、キツネの石像の群れ。
「――遠いところから、よう来たの。みそぎ屋の」
社殿の奥から、声がした。
現れたのは、白髪の、背筋の伸びた老婦人だった。ただし、瞳の奥に、金色の火が揺れている。名乗られなくても分かった。これが、格の違う神様というやつだ。ラベルを呼ぶ気にも、ならなかった。
「葛の葉のことじゃろう。……座りなさい。油揚げは、そちらの分も用意してある」
縁側で、老狐は言った。
「あの子の神格は、削られたのではない。『同意なく干渉された』のじゃ。神格というものはな、この世との契約でできておる。それを土足で踏まれた。放っておけば、契約が解けて、この世から抜け落ちる」
「治す方法は」
「あるにはある。じゃが、その前に一つ、聞いておきたい」
老狐の金色の目が、俺を、まっすぐ射た。
「おぬし、昨夜、神を一柱消したの」
心臓を、掴まれた気がした。
「……はい」
「言い訳は」
「しません。仲間を撃たれて、頭が白くなって、やりました。もう一度同じ場面が来たら、たぶん、また止められません。……それでも、教えてください。あいつを助けたいんです」
沈黙が、長かった。参道の幟が、風にはためく音だけがしていた。
やがて、老狐は、ふ、と目を細めた。
「……葛の葉もな、昔、同じ目をしておったよ」
「え?」
「あの子は、人間の男に惚れての。山を下りて、幸せに暮らして――先に、死なれた。人間じゃから、当たり前のことじゃ。当たり前のことに、あの子は、耐えられなんだ」
老狐は、湯呑みの中の揺れる水面を見ていた。
「荒れたよ。それはもう、荒れた。悲しみが祟りに変わるのは、神格には一晩で足りる。あのままなら、あの子は土地ごと呪う祟り神に堕ちておった。……堕ちきらなんだのは、糸が一本、残っておったからじゃ」
「糸?」
「あの男が、最後まで肌身離さず持っておった、小さい守り袋よ。あの子が渡したものでな。それが今も、どこぞの店の祠に、残っておるそうな」
うちの祠の、あの守り袋。手に載せたとき、覚えのある重さがした、あれ。
――あのときと同じになってはいかん。
昨夜の言葉が、腹の底で、音を立てて像を結んだ。あのとき。祟りに堕ちかけた、あのとき。あいつは、瀕死の体で、俺が同じ崖から落ちるのを、止めたのか。
「……助けたいか」
老狐が、聞いた。
「助けたいです」
考えるより先に、声が出ていた。
「店の期限も一週間で、正直それどころじゃないんですけど。でも、あいつがいないと、うちの商工会、組合員が一人になっちゃうんで。それは組合じゃなくて、ただの俺なんで」
老狐は、しばらく俺の顔を見て――それから、声を立てて笑った。
「……いい目じゃ。あの男と、同じ顔をしておる」
「え?」
「なに、こちらの話よ」
老狐は懐から、小さな包みを取り出した。開くと、狐の刺繍の入った、真新しい守り袋だった。ほんのり、揚げたての油揚げみたいな、香ばしい匂いがした。
「油揚げ守りじゃ。総本社の神気を、たっぷり詰めてある。あの子の枕元に置いて、祠の古い守り袋と、並べてやりなさい。古い糸と新しい糸、二本あれば、あの子は戻ってこられる。……戻る場所が、あればの話じゃがな」
「戻る場所は、守ります。一週間あれば十分です」
「ほう。相手は支社長格の嵐じゃろう。勝てるのか、その残高で」
「勝ちます。……いや、違うな」
俺は、油揚げ守りを、胸ポケットにしまった。レシートより大事なものを入れる場所に。
「潰されないようにするんじゃなくて、あいつが戻ってくる店を開けとくんです。それなら、勝ち負けより簡単だ。開店は、うちの得意分野なんで」
◇
最終便で松山に戻ると、店の明かりが、まだ点いていた。
タエさんと翔が棚を直し、葵が座敷の枕元で、濡れタオルを替えていた。俺は油揚げ守りを、眠る葛の葉の枕元に置いて、祠から古い守り袋を持ってきて、隣に並べた。
明滅が――ほんの少しだけ、緩やかになった。気のせいかもしれない。でも、店を一年やってると分かる。売上ってのは、こういう「気のせい」の積み重ねから、戻り始めるんだ。
「ご主人、おかえり! ……あのさ、今日の報告、書く?」
「書く。書くよ、今日から再開だ」
俺は電卓の前に立った。指は、まだ少し震えていた。それでも、叩いた。
【本日の売上:一万二千百円(復旧作業中につき午後のみ営業)】
【本日の客数:十一名】
【本日の支出:航空券往復三万八千円、油揚げ(羽田奉納用・上等)千二百円】
【立ち退き期限:残り七日】
【くーちゃん:容態変わらず。ただし守り袋、二つになった】
「ご主人、赤字だよ、今日」
「知ってる。……いいんだよ。店も大切だけど、仲間も大切。商売人は欲張りなんだよ」
新装開店準備セール、二十八日目。本日も、閉店せず。――あと七日、何があっても、開け続ける。
後書き
「立ち退き勧告」お読みいただきありがとうございました。「商売人は欲張りなんだよ」、この一言を言わせるための二十エピソード目だった気さえしています。羽田の穴守稲荷は実在の神社です(鳥居の逸話も実話)。
次回、第一部のクライマックス戦。「敵対的TOB」。そしてあの人が、戻ってきます。どちら側として戻ってくるのかは……
☆で応援いただけると、決戦前の景気づけになります!
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