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第8話 / 全11話
午前2時。
駅前に居酒屋が軒を連ねる街。
三階建てのマンション。
錆びたベランダの手すり。
黒ずんだ白い吹付けの壁。
チラシがあふれる集合ポスト。
入居審査で弾かれる従業員のための寮。
男に与えた夢。それを糧に光り輝く女たちの居城。
その一室。量産された化粧品の臭いが鼻腔に刺さる。
俺たちはカーテンの隙間から外を監視する。
ふらつきながら歩くスーツの男と青髪の女。
このマンションに入ってくる。
この青髪は、朔が監視していた、教官のお気に入り。
SNSの自撮りから、AIがこの部屋を特定。
俺は朔を見る。彼女が頷く。
男は朔の教官で確定。
朔と同じ身長の女衒は、駅のコインロッカーに保管中。
これで朔の計画通り、すべての条件が揃った。
額の汗を袖で拭う。
通路を不規則に叩く音が大きくなる。
金属の打撃音。鍵が回る。
俺は暗闇の中で朔を見る。
夜の街の光が映り込む。
廊下に明かりが灯る。
不規則な足音とアセトアルデヒド。
アルコールが人体で分解された結果が鼻先をかすめる。
リビングのスイッチに青髪の手が触れる。
その直前。
真横で発生する鋭い噴出音が胸に響く。
青髪が力を失い、床と衝突した振動が足裏に響く。
朔は、俺からトカレフを受け取る。
玄関の男は、靴を脱ごうとしていた。
サラリーマンとは違う、筋肉が生み出すシルエット。
日焼けによる深い目尻のシワ。
その目は、見開いていた。
「39号」
俺が耳をふさぐ直前。
男の低い声だった。
閃光と激しく肺を叩く鋭い衝撃。
耳をふさいでいても、鼓膜が痛い。
朔は跳ね上がる両腕を必死に抑えるが、体のバランスが崩れる。
床に、肉塊が二つ。
朔は手袋をしながら肉塊を蹴り、生命反応を確認。
すぐに、射入口にガーゼを詰めて止血。
ガーゼと肉の湿った粘着音。
咀嚼音にも似たそれが耳に刺さる。
続いて、弾頭が貫通した壁をチェックしている。
その間に、俺は周囲を確認。
隣の部屋の窓が開く音。
しばらく待つと、閉じられた。
屋外、通路ともに人が騒ぐ気配はない。
鉄の匂いが立ち込める部屋。
30分。音を消して待機する。
朔は玄関側。俺は窓側。
音のしない深夜の住宅街。
『39号』という男が残した音が、耳に残る。
聞いてはいけないのだろうと思う。
朔は聞く前に質問すらさせてくれない。
暗闇の中で、お互いの影が発する熱が心拍を安定させる。
俺と朔が同時に時計を見る。30分経過した。
朔が足をそっと動かす。
俺は静かに窓を少しだけ開ける。
外からの冷たい空気が足元を冷やす。
硝煙の臭いが抜ける。
「まずは、この青髪から……」
俺の目は、見開いていた女の目と合う。
俺たちの都合に巻き込まれた被害者。
静まり返った部屋に、朔の小さな声が響く。
「いじめ加害者、クソ女」
『クソ女』
その単語に、俺の時間が止まる。
朔を見ると、その顔はいつもの固定された表情。
俺は何かを考えていたような気が……
「そうだった、このクソ女がいじめてた子は……」
朔が作った資料。
自殺未遂に追い込まれていた、いじめの被害者。
この手の人間が被害者となる殺人事件は多い。
その場合、いじめられていた人間を当たるのが鉄則。
心療内科に通院歴のある人間を探す。
その数の多さは、この社会の医療インフラのすばらしさを教えてくれる。
朔が黒い袋を作っている間に、俺は床を拭く。
床の点検口を開ける。
高さ35センチメートルの隙間。
朔が服を脱いで入る。
黒い袋が引きずられてゆく。
俺もズボンとシャツを脱いで入る。
狭い、迷路のようになっている空間。
下を這う、給水管、排水管。
その上を黒い袋を通す。
狭い空間の中で、二人で持ち上げる。
点検口からは直接見えない場所へ置く。
戻りながら抜け落ちた髪の毛などを拾う。
確実に皮膚片が残る。全ては拾えない。
あとは床下の偉大な昆虫様たちに託すしか無い。
クモの巣を頭で壊してしまい、深い罪悪感に苛まれる。
ホコリまみれになった身体をウェットティッシュで拭く。
朔が、教官をスーツケースに押し込める。
邪魔な腕や足は折る。
太い枝が折れるような乾いた破断音に、俺の腕まで痛くなる。
空が明るくなり始めている。
最後に、服と身体に除臭スプレーを吹き掛ける。
アルコールが鼻を突く。
アスファルトを削るスーツケースの音が耳に響く。
それを引くのはセーラー服の少女。
付き添うサラリーマン風の男。
すれ違う人間の群れ。
出社する労働者。夜勤明けの労働者。酔った若者。
これは、日常の風景。
俺も、出社する人、夜勤明けの人、酔った若者を記憶はしない。
警視庁管内の殺人事件は、認知件数で年間100件。
このスーツケースは、カウントされない。
---
夜。
すでに、町工場の機械の音は聞こえない。
雨が降り始めた。
土の匂いが立ち込める。
今が、梅雨であることを思い出す。
帰宅、LEDを灯す。
朔のシャンプーの甘い匂いのする部屋。
24時間ぶりの我が家。
いつの間にか、このレンタルオフィスが我が家になっていた。
朔が俺の顔を見ている。
俺も朔を見る。
お互いに、思った以上に濡れている。
朔の髪が束になっている。
セーラー服の白地が肌に張り付き、肋骨の小ささを際立たせる。
「タオル……」
朔が頷く。
衣類は全て二階。
階段を上がる。
重力に負けた二人分の水滴が、点として階段に残る。
朔が毎日磨き上げている階段に、俺たちの軌跡が図化される。
雨で張り付いたズボンに動きを邪魔される。
積まれた三段の衣装ケース。
最下段がバスタオルとフェイスタオル。
朔の頭の上にタオルを置く。
耳が少し赤くなった。
俺も、顔を拭く。
ポケットの中でスマホが濡れて張り付いている。
軽い落下音。
粒子の擦れ合う音が耳に入る。
朔がたまに買う、お菓子を思い出す。
俺は血の気が引いた。
床に錠剤シートの束が落ちていた。
雨でスマホに張り付いていた。
朔の髪を拭く手が止まっている。
瞳は、すでに錠剤を捉えている。
朔の見開いた目が俺を捉える。
喉が苦しくなる。
俺の瞳の奥を解析している。
耳の色が赤から白に変わる。
唇が紫に変色する。
「違う……」
俺の言葉に朔が反応しない。
朔の瞳は俺を捉え続ける。
「二か月ない……」
頭を拭いていたタオルが床に落ちる。
順番が狂った。
一つずつ問題を片付けるつもりだった。
朔の過去を清算してから、未来を肯定したかった。
俺の心臓が不規則に脈打つ。
額の汗が垂れる。
なのに、寒さで肩が震える。
全身の筋肉が硬直する。
朔は動かない。
「朔…朔……」
反応しない。
両手で朔の細く薄い肩を掴む。
「朔、聞いてくれ」
朔を揺する。
束になっていた髪の毛が揺れて乱れる。
朔のスカーフが揺れる。
その瞳は、俺を捉えたまま、反応がない。
冷たい。掴んだ朔の肩から温度が放出される。
朔を掴んだ腕が、朔の重みを捉え始める。
朔の瞳が潤み、表面張力の限界を超える。
右の頬をつたう水分。遅れて左の頬。
雨の水ではない。
「朔!朔!」
顔色は更に白くなる。
唇が震えだす。
俺の腕が感じる重みが増してゆく。もう自立していない。
俺は部屋を見渡す。
ベッドサイドのラップトップ。違う。
衣装ケース上の学生カバン。違う。
朔の濡れたスカート。違う。
テーブルに置いた俺のスマホ。違う。
階段。違う。
窓の洗濯物。違う。
震える唇。
俺を捉える、濡れた瞳。
違う。俺は朔の未来に怯えていた。
過去を否定するだけで十分だと、思おうとしていた。
未来のある朔を、見たくない。
俺は、朔の瞳を捉えた。
塩分の味。
薄い皮膚が脈打つ。
俺の熱を奪っていたそれが、熱くなってゆく。
シャンプーの甘さと、雨と、わずかな鉄分。
朔は、息を止めていた。
朔の瞬きの音が聞こえる。
朔から離れる。
朔の目が俺を見て、俺の唇を見る。
二度目のそれは、一度目よりも遥かに熱かった。
塩気の奥にある、わずかな甘み。重苦しい熱さ。
俺の腕にかかる重圧がなくなる。
朔が自立した。
「あとで、ちゃんと話すから」
朔が俺の瞳を覗き込む。
俺に、朔の未来は作れない。
俺しか、朔の未来は作れない。
朔が頷いた。
汗が引いた。
視界がクリアになった。
背筋が熱くなる。とても熱くなる。
「朔、頭、まだ濡れてる」
俺は、自分のタオルで朔の頭を拭く。
朔の顔から涙を取り払う。
朔は、微動だにしない。
頬と耳に赤みが戻っていく。
俺の手が、セーラー服の胸当てを掴む。
朔は俺の目を見て頷く。
胸当てのボタンを外し、サイドのファスナーを開ける。
セーラー服が、朔の髪の毛を乱しながら朔から離脱する。
次にスカートのホックが外れる金属の小さな摩擦音。
ファスナーを掴む。連続した金属の弾ける音が下りてゆく。
手を離すとスカートが落ちる。
朔をベッドに座らせ、足からスカートを離脱。
セーラー服を、ハンガーラックに掛ける。
「明日、クリーニングに出すから。俺のスーツと一緒に」
朔が頷く。
下着は濡れていない。
朔が、再び頷く。
濡れていないが、湿っていないわけではない。
伸縮性の高い布。
朔はベッドに座り、上半身をベッドに沈めた。
俺も濡れた自分のシャツを引き剥がす。
朔は俺を見ている。
赤かった頬が白くなっている。代わりに肩が少し赤くなった。
ベルトの金具が弾ける音。
朔の顔が一気に赤みを増す。
俺の両手が朔の両手と一つになり、そのまま固定される。
雨で濡れた身体。お互いの熱が伝わり合う。
朔の髪の毛の甘い匂い。
三度目の柔らかくて熱い、湿った感触。わずかな塩気。
鎖骨は硬く、細い。
俺たちの距離は、見えない。計測不能。
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