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第9話 / 全11話
顔が熱を察知していた。
強烈な日光が、高い角度から入り床を熱する。
すでに昼だった。
耳元で規則的な空気の振幅。
左半身が温かい。
いや熱い。
横で朔が寝ている。
朔の頬は柔らかく温かい。
頸動脈の鼓動が直接手に伝わる。
朔は生きている、ここにいる。
昨日の夜。
朔の体が、あまりに軽くて驚いた。
朔の目が見開かれる。
頬に触れていた俺の手を見る。
俺の瞳を覗き込む。
昼の強い日差しが反射し、室内を照らす。
お互いの顔にはっきりと影が落ちる。
朔の頬に触れていた俺の手が急上昇する熱を感知する。
細い肩や胸元も赤く染まっていく。
俺の背中も汗ばむ。
---
陽の光は、少し傾いていた。
額の汗がシーツに落ちる。
リモコンの設定温度を下げる。
天井を眺めながらエアコンの風を受ける。
汗が急速に冷やされる。
俺も、朔も呼吸が落ち着いてゆく。
正常化した俺の脳が空腹感を感じた瞬間。
腹が鳴った。
横で疲れ果てていた朔が飛び起きる。
俺の顔を認識すると、即座に服を着る。
そのまま階段を降りていった。
たぶん、俺は昼飯が食べたい顔だったのだろう。
階下からシャワーの音が聞こえてくる。
俺は後頭部を枕に沈める。
肺から空気が抜ける。
湿ったシーツが背中に張り付く。
嫌ではない。
エンドロフィンが、血中を巡る。
浮遊感で天井までの距離が遠ざかる。
朔の白い肌。
甘い匂い。
普段はほとんど聞けない、朔の声。
脳内を巡る、巡らせる。
シャワーの音が止まった。
階段を降りると、朔の甘い匂い。
髪を拭く朔の動きはいつも通り無駄がない。
固定された、いつもの表情。
いつも通り、特に異常はない。
入れ替わりで俺がシャワーを浴びる。
朔の匂いが残る、シャワー室から出る。
部屋は、パンの焼ける香ばしい匂いで充満していた。
ケトルのお湯も沸騰している。
朔は机でパソコンに向かっていた。
鋭い目で画面を見ている。
朔の瞳が俺に向けられる。
その凍った顔に、俺の息が詰まる。
「わたしも、同じ」
回答だけが飛んできた。
二週間。俺も朔を見続けた。
朔の呼吸が浅い。
指先がキーボードを執拗に触る。
朔の脇に、俺の錠剤シート。
「話そう。お互いに。食事をしながら」
俺の足が震えている。
聞きたくても、聞けなかった朔の過去。
避けていた話題。
俺の事情を聞かれるのが怖かった。
時計は13時をまわっている。
テーブルの上には、エッグトースト、コーヒー、サラダ。
箸を持つ手が震える。
俺は、話す。
薬は、遺伝子疾患の進行抑制剤。
俺は本来、二十歳まで生きられなかった。
最新の遺伝子編集治療に救われた命。
その治療が、今は俺の命を奪おうとしている。
オフターゲット効果という副作用。
似て非なる遺伝子をも書き換えてしまう性質。
実験動物としては、社会貢献にはなったと自負している。
朔の潤んだ瞳に、息苦しさを覚える。
手の震えは、止まっていた。
俺の瞳が朔を捉える。
朔も俺を見る。
いつもの固定された表情。
「……」
朔の能力が高い。
運動も知性も、外れ値。
中央値からかなり離れている。
これが遺伝特性なら、その親も有能。
家庭環境は恵まれている可能性が高い。
暗殺者になる可能性は、極めて低い。
「……」
朔の口は開かない。
小さな手がスマホに伸びる。
俺のスマホが鳴った。
長文のレポートが届いた。
スマホを持つ俺の手が、冷たくなっていく。
『39号』それが、朔の識別名。
親はいない。
バイオテクノロジーと代理母によってもたらされた命。
詳しい出自は朔も知らない。
朔は受精卵段階での遺伝子編集を受けている。
現在の遺伝子編集はトレードオフ。
副作用としてのオフターゲット、およびモザイク現象。
技術的代償としての能力獲得。
今のところ、健康障害は起きていないように見える。
朔のレポートは、人間社会の技術革新の証明だった。
この世界は発展という呪いを喜んで受け入れる。
---
夕方。
今日も雨だったので、外には出なかった。
この一週間、俺たちはこの巣にこもり続けた。
初めて聞く着信音。
ベッドの横で、朔のスマホが鳴る。
俺は起き上がって朔を見る。
朔も白い身体をゆっくりと起こす。
スマホのロックを解除。
事務処理をするような視線。
画面を俺に見せてくる。
『川崎で解体工事が中断していた工事現場に男女の焼死体。
地下駐車場の自動車が炎上、無理心中か』
肩が軽くなる。
枕に頭を沈め、天井を見る。
「よくあるニュースだ」
---
次の日。朝。
梅雨前線がズレて、雲の切れ間から陽が射す。
コーヒーの苦みで、脳を覚醒する。
ニュースの続報。
当初、無理心中と思われた事件は謎を呼ぶ。
頭のない射殺体。手榴弾の破片。
自動車内での焼死、すなわち密閉された高温環境。
DNA鑑定の難易度が上がる。
皮膚は炭化し、指紋も取れない。
手榴弾の破壊力も凄まじい。
夏の一週間は、腐敗も進行する。
生活反応が消える。
今後、遺体は相当期間、警察に保管される。
「これで大丈夫なのか?」
目玉焼きを食べていた朔が頷く。
「わたしは消える」
朔の瞳が俺のコーヒーカップを捉えた。
コーヒーは微細な波を作っていた。
朔は素早くパソコンデスクに手を伸ばす。
その手に政府発行の個人番号カード。
ホテルで消した女衒のカード。
ご丁寧に、暗証番号が財布に入っていた。
朔は図書館カードも俺に見せる。
女衒の個人番号カードで図書館登録した。
これで警察の身元確認は混乱する。
教官と朔と思われる人間の死。
当分は否定できない。
「あぁ、朔は、消えた」
コーヒーで口直しをする。
朔の瞳は、まだ俺を捉えている。
完全に俺の不安を読み間違えている。
朔が消える。
この言葉は、俺の口には苦すぎる。
食事を終える。
朔は食器を洗う。
レンタルオフィスの小さなシンク。
小さな背中。
布を持て余したTシャツ。
そこから伸びる細く白い脚。
陽のあるうちは外に出ることはない。
セーラー服とビジネススーツ。
このラベルが持つ神聖な義務がそれを許さない。
足元には、朔が欲しがったロボット掃除機。
毎日、床を磨き上げる。
朔はAIも改良。
情報の収集と分析が自動化された。
文明は、生存に必要な雑務を奪う。
暇を持て余した人間は無限に欲望を溢れさせる。
朔は、俺の望みを全て叶えようとする。
それが、どんな望みであろうと。
極めて効率的に。
町工場の小さなレンタルオフィス。
俺と朔だけの時間と空間。
朔が流しの蛇口を締める。
食器を洗い終えた。
振り返り、大きな瞳で俺を捉える。
---
「太陽、買い物の時間です」
この声は、俺専用の目覚まし時計。
目を覚ます。
部屋は若干の赤みを帯びていた。
朔の甘い匂いと、温もり。
「ごめん」
俺が起き上がると、朔が首を振る。
突き刺すような瞳に、喉が詰まる。
「大丈夫。太陽の遺伝子疾患はミトコンドリア系」
「いや、重くなかったかな…と……」
朔の顔が一気に赤くなる。
俺の顔も熱を持つ。
ミトコンドリア系の遺伝子疾患。
その特徴は、母から子にしか遺伝しない事。
俺の子供には、疾患は遺伝しない。
朔の細い体が起き上がり、階段を降りてゆく。
朔はシャワーを浴びる。
髪を乾かし、セーラー服を着る。
俺もスーツを着る。
買い物の準備が整う。
朔が俺を見る。
右脚を軸に一回転。
スカートが広がる。
顔が熱くなり、胸が重くなる。
「問題ない、普通の女学生だ」
その言葉に、息が苦しくなる。
---
夕焼けの下町。町工場。
動き続ける機械と、閉じたシャッター。
長時間労働か、廃業かの二択を迫られる街。
歩く俺たちに、気を配る余裕はない。
労働者の汗が輝く美しい下町の風景。
夕方は、女子高生ともすれ違う。
朔と何も変わらない。
無愛想に、家路をたどる。
俺の視線が、横を歩く朔に向かう。
朔も俺を捉える。
俺の背中が汗ばんだ。
朔は数歩だけ、俺と手をつないでくれた。
誰も、この俺たちの異常な関係に気づかない。
梅雨の雨上がりの濡れた街路。
夕暮れの赤に染まる下町。
家路をたどる人々。
悲惨な殺人事件のニュースを暇つぶしとして消費できる、安心安全な社会。
この緩んだ空気は、不意に途切れた。
朔のスマホが鳴った。
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