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第5話 / 全11話
夜。20時。
手荷物が重い。両手が塞がっていて汗を拭けない。
鉄粉の酸化臭。軒を連ねる町工場。
都心部と比べると夜空が広い。
小さな振動が街路に響く。
まだ、どこかの工場で機械が動いている。
窓に明かりはない。
壁もシャッターも錆びている。
模様の入ったすりガラスの窓。
コンクリート塀の表面は中性化によりひび割れている。
名も無き規格品たちが作られる街。
名も無き存在になりたい俺たち。
なのに、俺たちの足音はこの時間の止まった街に響いている。
スマホのマップのピンが、現在地と重なる。
左右の建物に挟まれた、幅3メートルの通路。
その奥に、黄色く曇ったすりガラスの引き戸。
貼られたレンタルオフィスのシール。
日焼けし、赤い文字だけが消えかけている。
戸を横に引くが、レールと干渉し強い抵抗を手に返してくる。
力を入れ、鈍い振動を無視し無理やり開ける。
室内の床には微量だが鉄の削りカスが残っている。
手前に作業机と椅子が二つ。
奥にはオプションで追加した冷蔵庫が一つ。
ここが新しい住居。
朔は机の上に紙袋を置く。
俺も段ボールを床に下ろし、スーツの上着を脱ぐ。
動きを止めた身体は熱を持ち、汗が吹き出す。
まずは、机の上にあったエアコンのリモコンで冷房を稼働させる。
「私が」
そう口を開いた朔は、俺の瞳を覗く。
俺の回答を待たずに紙袋から箱を取り出し作業を始める。
多分、俺の瞳の奥では、俺が許可を出していたのだろう。
汎用演算装置、主記憶装置、外部記憶装置
パソコンパーツが机に並べられてゆく。
量販店でPCを買おうとしたが、朔が首を縦に振らなかった。
完成品のPCは個体識別が可能で、追跡されるらしい。
OSすら買っていない。Linuxをダウンロードするとのこと。
朔の横顔はいつも通り固定されている。
固定されたまま、慣れた手つきで精密機械の箱を捌いてゆく。
俺は、蛍光灯の下でそれを見ている。
ただ見ているだけ。
精密機械を箱から取り出す、精密機械のような朔を。
冷房の風に汗が冷やされる。
「飯、買ってくる」
一人になり、肺から熱い空気が抜ける。
日没後の外気はまだ熱を持っている。
近隣の建物に、人気はない。
固く閉ざされたシャッターの前には自販機が並ぶ。
玄関の横にあるのは錆びた自転車、色褪せたバイク。
鉄と油の混じった風の中に、僅かに焼き魚の匂いが漂う。
足が止まった。思考が停止した。
ポケットからスマホを取り出す。
普段であれば、俺が疑問を持つ前に朔から答えが返ってくる。
歩きながら画面を何度か確認するが着信はない。
あと1分も歩けばコンビニに到着する。
仕方なく、メッセージの入力を開始する。
【太陽:夕食に何が食べたい?好きなものを述べよ?一分以内に回答せよ】
送信。
【朔:1250キロカロリーの食料。好きなものはない】
メッセージは1分ギリギリで返ってきた。
そのメッセージに、俺の口角が少しだけ上がった。
昨日の朔はフルーツヨーグルトソフトを食べていた。
食料、タオル、歯ブラシ、シャンプーなどを買い帰宅した。
部屋では、空き箱が床に積み上がっていた。
マニュアル類は一つの袋に収まっている。
作業机の上には、二つのPCが鎮座。
画面表示はシステムのインストール。
OSであるLinuxがインストールされている。
朔はモニターの前に座り、俺を観察している。
この部屋から離れていたのは、わずか三十分程度。
俺も、記憶装置の交換でPCを開けたことぐらいはある。
「スゴイな」
無意識に口から言葉が出ていた。
朔の頬と耳が少し赤くなった。
どうやらインストール待ちで、朔の手は動かない。
「朔、食事にする。休憩しろ」
朔は頷く。
俺は、買ってきた食料を作業机に並べる。
四種の弁当。
三種のサンドイッチ。
五種のおにぎり。
三種のサラダ。
四種の飲料。
最後に、ショートケーキを一つ、机に置く。
「カロリー計算が面倒だったので適当に買ってきた」
朔の視線は机を彷徨い、俺の顔にたどり着く。
「好きなのを選べ」
朔がフリーズした。
俺はそれを眺めつつ、口角が上がるのを必死に抑える。
1分後。再起動。
朔がスマホのロックを解除。
素早い指さばきで、画面が次々切り替わる。
額が少し汗ばむ。
三分後。
指先が止まり、画面が暗転。
朔は息を吐く。
固定されていた表情が融解する。
胸を張り、瞳が俺の眼球を捉える。
眉毛に力が入り、瞼が大きく開いている。
俺は、少し後ずさった。
ハンバーグ弁当、サラダ、野菜サンドを手に取る。
最後に、ショートケーキに手を伸ばす。
再び、俺に顔を向ける。
朔が俺を見上げ、視線を外さない。
「じゃぁ、食べようか」
朔は頷き、素早く弁当を開け、箸をつける。
「朔、いただきますは?」
箸を持つ手がぴくりと震え、朔がこちらを見た。
「い…いただきます」
「よし」
俺はカルビ弁当を選び、残りは冷蔵庫へ。
部屋に弁当の匂いが漂う。
「いただきます」
朔は、精密機械のように同じ動きを繰り返し料理を口に運ぶ。
食物繊維から、タンパク質、炭水化物と順に摂取している。
最後のショートケーキは、少し動きがゆっくりになる。
苺は、ケーキを半分ほど食べ、スポンジが自立できる限界のタイミングで口に運ばれた。
朔は食事という作業を終えると、PCの前に戻り、キーボードを叩こうとする。
どうやら、俺が食べ終えるのは待ってくれないらしい。
「朔、ごちそうさまは?」
朔の肩が少し上がり、こちらを見た。
「ご…ごちそうさま」
俺が頷くと、PC画面に向き直る。
タイピング音が部屋に鳴り響く。
一切途切れることのない打撃音が。
まだ食べ終えていなかった、俺の箸が止まる。
キーが叩かれる音は、止まっては鳴り響くを繰り返す。
セーラー服の華奢な少女の細い指先が高速で動く。
エンターキーを押すたびに、わずかに肩が揺れる。
俺は急いで箸を動かす。
料理を全て胃に流し終え、朔の後ろから画面を覗く。
黒い画面に白いアルファベットの羅列。
打撃音と共に、目で追えない速度で文字が流れている。
俺は視線を天井、床、壁、PCパーツの箱へと移動させる。
テーブルに、残された弁当の空容器を発見。
ゴミを片付け、買ってきたウェットティッシュでテーブルを拭く。
三十分後、部屋を静寂が支配した。
朔が立ち上がる。
「完了」
俺はPCの前に座る。
朔は俺の横に直立で控えている。
パソコン画面は、使いそうなアプリのアイコンが一通り並んでいた。
「ご苦労さま」
俺は朔の頭を撫でた。
手が勝手に動いていた。
朔の髪は、細く柔らかい。
髪のボリュームに小指が少し戻される。
間近で見る朔の肌。
熱を帯びた淡い朱色の薄い皮膚。
紫外線を遮断し続けた無機質な白さがLEDの光を反射している。
瞳は常に潤んで、光を乱反射させている。
手足は細いが、その表面には筋肉の硬さを感じさせる。
骨盤は女性らしさが顕れ始めている。
下りていた視線を戻すと、朔の目が見開いていた。
その耳も真っ赤に熱を発している。
急いで、朔の頭から手を離す。
俺の手は熱を持ち、朔の髪の柔らかい触感が明確に残っている。
髪の甘い香りに鼻腔が支配されている。
朔は、直立したまま俺を見ている。
動く気配はない。
「疲れただろ、寝ていいぞ」
朔は、頷く。
机の上にあったペットボトルのお茶が、勢いよく口内に消えてゆく。
空になった容器は放物線を描いて部屋の反対のゴミ箱に収まった。
次に、コンビニ袋からタオルとシャンプーを引き出す。
服を脱ぎ始める。
リフォームされたこのレンタルオフィスに風呂はない。
代わりにシャワー室はあるが、脱衣場がない。
シャワー室の前に置く、パーテーションを買う必要がある。
壁を一枚隔てたシャワー室からは、すでに水流の音が聞こえ始める。
机には、制服と黒いスポーツタイプの下着が綺麗に畳まれている。
小さな制服と黒い下着。
さっきまで朔が着ていた、セーラー服とスポーツブラとパンツ。
不意に、シャワーの水流が止まる。
俺は急いで、パソコンの操作を始める。
シャワー室のドアが開放され、湯気が室内に流れる。
少し遅れて、朔の湿った足音が近づいてくる。
カバンを漁る音。
ビニールの袋が開けられる音。
三十秒ほどで音がなくなる。
俺はマウスを動かす手を止め、モニターから朔に視線を移す。
朔が立っている。
グレーのスポーツタイプの下着姿。
水着と大差ない形状だが、布が薄い。
「おやすみ」
朔は頷く。
移動する直前、朔の視線は俺が操作していたモニターに移った。
階段を上る音が遠くなってゆく。
俺の首筋に汗が流れる。
モニターには、綺麗にアイコンだけが並んでいる。
アプリケーションは一つも立ち上がっていない。
シャワーを浴びる。
湿気と甘い匂いの立ち込めるシャワー室。
シャワー室の棚を見ると、小さなシャンプー。
間違いなく、この甘い匂いの発生源。
その横に俺が買ってきたシャンプーを置く。
二階はワンフロア。
オプションで追加したパイプベッドが二つ。
朔は手前のベッドで寝ている。
小さな胸が上下に揺れている。
規則正しい寝息だけが部屋を支配する。
様々な刑法が頭をよぎる。
俺が朔に何をしたとしても公訴棄却。
判決が確定することはない。
俺は奥のベッドで寝る。
ベッドに仰向けになりながら、朔を見る。
なぜ俺を助けたのか。
うちの隣人としての生活の何が良かったのか。
朔ならば、俺が疑問に思った瞬間に答えを返せるはずである。
横で寝ている朔を視界に捉えながら、眠気に負けてゆく。
手には、朔の頭を撫でたときの髪の毛の質感が残っている。
耳は朔の寝息を捉えている。
鼻腔は、朔の甘い香りで満たされている。
俺の精神は、昨日からの激しい環境変化で疲労している。
外した腕時計が22時を超えていた。
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