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第26話 / 全32話
目を覚ますと、日が高く昇っていた。今日は休日だ。特に用事もないので、一日家でゆっくりできる。……とはいえお腹が空いたので、起きることにする。ゆっくりと体を起こし、ベッドの上で伸びをした後、足を下ろして立ち上がった。
まずは目の前にある閉じられたクローゼットをそっと開ける。クローゼットの片隅に置かれた大型犬用ベッドの中に、黒い羽衣にくるまったやっくんの姿を確認する。うん。今日もよく寝てるね。私は軽く頷いた後、そっとクローゼットを閉めた。
リビングに出てカーテンを開けた後キッチンへ向かう。やっくんはいつも夕食を多めに作ってれているので、朝はそれを温めればよい。冷蔵庫に入れてあった味噌汁と煮物の入った鍋を火にかけて、皿に取り分けられたおかずの残りをレンジで温める。それに納豆もつけたら、五分足らずで豪華な朝ごはんの完成だ。炊飯器の中のご飯も茶碗に盛り、リビングのテーブルの上に運ぶ。
その時、ふと視界に入ったものに違和感を覚え、ソファーの方に視線を向ける。……ソファーの表面が、なんだか黒ずんでいる。
私は朝食をテーブルに置いてから、ソファーに近づいてよく見てみた。はじめは、何かの汚れかと思った。だが近くで見ると、黒っぽくて細かい毛が、ソファーの表面に付着しているだけのようだ。
「……あ、カーペットにも! なんだろう」
これは流石に、朝食を食べる前に軽く掃除をした方が良さそうだ。私はテレビ台のそばに置いてあるコロコロを取り出して、ソファーとカーペットの上を軽くコロコロする。黒っぽくて細かい毛が、白い粘着テープの上にびっしりと付着した。
朝食を食べ終えた後、私は部屋の中を軽く見て回ってみた。よく見ると、カーテンや脱衣所の足拭きマットなど、部屋のあちこちに黒っぽい毛が付着していた。部屋の隅に毛がまとまって、ふわふわの塊になっていたところもあった。
……こんなこと、今まで住んでいて一度もなかった。一瞬、最近買った服か何かから落ちたかと思ったが、服にしては毛が落ちすぎだし、そもそも、そんな服を買った記憶もない。
謎の黒いふわふわは、一体なんなのか。
もしかしたら、やっくんが何か知っているかもしれない。やっくんが起きたら聞いてみることにしよう。そう決めて、とりあえず目についたふわふわは掃除して綺麗にした。
そして夕方。薄暗くなってきた頃に寝室の扉が開く。目を擦りながら現れたやっくんに、私は「謎のふわふわ」について尋ねてみた。なにか心当たりはあるだろうか、と。
やっくんは「あー」と言い、バツが悪そうに視線を逸らした。それからポツリと言う。
「冬毛が抜ける季節なのだ。……その、手を煩わせてすまない」
「冬毛が抜ける……? あ、換毛期ってことか」
やっくんが頷く。私は、なるほどそれでか、と納得した。蝙蝠に換毛期があるのは初耳だったが、ペットの犬は犬種によっては季節の変わり目に抜け毛がすごいと聞いたことがある。
だが、すぐに次の疑問が浮かぶ。やっくんのどこにも、細かい毛は生えていない。
いったい、どこの毛が抜けているのか。
その「え、どこの毛?」という疑問は、無意識に口から漏れていた。やっくんは少し黙った後、目を逸らしたまま口を開いた。
「……力の強い野衾は、人間の姿に化けられる。私の本当の姿は、獣なのだ。その獣の体から毛が抜け落ちている。……すまないが、この季節はどうしようもない」
「えっ、そうなの? なんで人間の姿に?」
「人間の血をもらうからだ。……獣の姿のままでは、相手を必要以上に怖がらせることになる。だから、普段は人間の姿で暮らしている」
「なるほどー。じゃあ、私に合わせてくれてたってことなんだね」
「そういうことだ」
少し考える。目の前のやっくんの姿は化けた後の姿、ということらしい。
なら、化ける前の姿のやっくんをブラッシングすれば、このふわふわの大量発生は緩和されるのかもしれない。
「……よし。じゃあさ、やっくん。獣の姿に戻ってみてよ」
「……は?」
「化けてるから見えてないけど、本当はいっぱい毛が抜けて大変なんでしょ? ブラッシングしてあげるよ」
やっくんは眉を寄せた。
「……言ったであろう。人間を怖がらせないようにこの姿をとっている。本来の姿は、人に見せるものではないのだ」
「でもさ、そのままだとソファーがまた黒くなる」
やっくんは黙った。それから、両方の手で顔を覆う。しばらくして、諦めたように小さく息を吐くと、寝室の方へ踵を返した。
「え、なんで寝室に?」
「……服を脱いでくる」
やっくんはそれだけ言うと、寝室に消えた。
私が寝室の扉を見つめていると、少しして、ゆっくりと扉が開く。
開いた扉の向こうから現れたのは、大型犬くらいの大きさの黒い獣だった。顔と体はびっしりと毛で覆われ、皮膜のついた長い手を持った、巨大な蝙蝠。
その獣は四つん這いで、飛ぶ時には翼となる手を使って前進してくる。……とても歩きにくそうで、どこか必死に見えた。頭には、大きくて前を向いた尖った耳がある。瞳はつぶらで、人間の時と同じ赤銅色をしていた。そしてよく見ると、毛に覆われた顔と体は、ところどころ禿げたように毛がまだらになっていた。
「うわー! やっくんって本当に蝙蝠だったんだ!」
「初めからそう言っている」
私は一生懸命に前進するやっくんの元に駆け寄ると、ふわふわの体を抱き寄せた。頬を寄せると、まるでビロードのような肌触りで、しかも暖かい。あまりの心地よさに、私はうっとりしてしまった。
だが、体を離すと現実が待っていた。着ているTシャツにごっそりと付着する、黒い毛たち。
「うわー、こりゃひどいな」
私は笑いながらテレビ台の側のコロコロを手に取ると、自分の体をコロコロした。
「……さて、と。じゃあブラッシングしていくね」
洗面台に使い古した豚毛ブラシがあったので、それを使って毛を取っていく。頭から背中にかけてとかすと、面白いくらいごっそりと毛がとれた。
とれた毛を指で摘み、ブラシから取り除く。抜け落ちた毛は黒っぽくて、細かくて細い。人間の毛とはぜんぜん違う質感だった。
「どうしよう、毛までかわいい!」
興奮のあまり叫んでしまう。やっくんは返事に困ったのか、そのまま無言だった。
その後、やっくんの頭や体をブラシでとかして、抜けた毛をビニール袋に入れる作業を何度も繰り返した。しばらく続けていくと、ごっそり抜ける部分がだいぶ減ってきて、毛並みが滑らかになってきた。
これくらいでだいたいいいかな。そう思って、ふとビニール袋の中を見ると、黒くて細かい毛が大量に入っていた。
「……なんかさ。この毛玉で、ちっちゃいやっくんが作れそうじゃない?」
「…………」
私はビニール袋の中に手を入れて、毛の塊を掴んで取り出す。取り出したそれを、手のひらの上で丸めてみせた。やっくんの毛は、細かくて柔らかくて、本当に手触りがいい。
「……こうやって毛をまとめて、ビーズとかで目をつけてさ」
「やめろ」
「なんで? こんなに手触りいいのに……。捨てちゃうの、なんかもったいないよ」
「もったいなくない。毎年大量に抜けるからな」
そりゃあ、やっくんにとってはそうなんだろうけど。……ちっちゃいやっくん、かわいいと思うんだけどな。
ああでも、まずはこの作業を終わらせないといけない。工作のことはひとまず保留にすることにして、私は毛玉をビニール袋の中に戻した。袋の口を縛ってから、毛の散ったカーペットやソファーにコロコロかける。最後に部屋全体に掃除機をかけて、ひとまずは完了だ。
やっくんは寝室に引っ込むと、元の姿になって戻ってきた。二人で並んでソファーに座る。
「いやー、大変だったね。今日のご飯は簡単なのにしよ。丼とか」
「……そうだな。……千春、その」
「ん?」
やっくんは、少しもじもじとした後、ズボンの生地を強く握る。
「……ありがとう。……気持ちよかった、のだ」
そう口にしたやっくんは、なんだか顔が赤くて恥ずかしそうでかわいすぎた。思わず飛びついて、そのまま二人でソファーの上に転がった。
――夕飯はもう少し後でもいいか。今日は特に用事もないし、ね。
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