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第27話 / 全32話
今日は忙しい日だった。昼休憩の後から急変が相次いで、トイレに行く暇もなかったくらい。バタバタしていたら少し残業になってしまった。
帰りのバスに揺られていたら、うっかりうたた寝してしまいそうだ。こんなところで寝て乗り過ごしたらまずい。私は鞄の中に忍ばせていた酸っぱいグミを口に放り込む。寝るのは、家に着いた後だ。
地下鉄へ乗り継いだあとは、座らずに立ったまま目的地まで待つことにする。手すりに捕まり、肩にかけた鞄がずり落ちかける度、肩に掛け直した。
自宅の最寄駅に着くと、空はいつもより暗かった。春までやっくんがよく来ていた街灯の上をちらりと見る。分かっていたけれど、そこに黒い影はなかった。
……やっくん、もう起きてるかな。今日は週に一度の採血の日だから、寝る前にそれだけはやってあげないと。
歩き始めたら、少しだけ頭が冴えてきた。薄暗い家までの帰り道を、一人で歩く。
「ただいまー」
ドアを開けると、炊けたご飯と煮物の香りが鼻をくすぐる。キッチンに立つやっくんがこちらを振り返る。
「おかえり。今日は遅かったのだな。……ちょうど仕上がったところだ」
「そうなのー。ちょっと忙しくて。……わ、今日も美味しそう!」
「当然だ」
「ふふ。……あ、今日ご飯終わったら採血するね。……食べたら眠くなりそうだから、先にシャワー行くわ」
「分かった」
そのまま脱衣所へ直行し、ドアを閉めて服を脱ぐ。浴室へ入りシャワーを頭からかぶったら、多少眠気が和らいだ気がした。
シャワーを終えて髪を軽く拭いた後、ドライヤーで乾かす。適当に七割くらい乾かしたところで、浴室を出た。
リビングのテーブルには、すでに出来上がった料理が並んでいる。キッチンではやっくんが私が上がるのに合わせて、ちょうど炊飯器からご飯をよそっているところだった。
「やっくん、ありがとう〜。何か他にすることある?」
「いや、これで終わりだ。千春は座っておれ」
「はーい」
その後二人で席につき、一緒に手を合わせる。今日のおかずは煮付けと、焼いたレバーが用意されていた。我が家の貧血対策は万全だ。
夕食を食べた後、私はすぐに採血キットを用意した。駆血帯で左の二の腕を縛り、少し待って浮いてきた左手の血管に注射器を刺す。採血した血を、いつものようにマグカップへ注いだ。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
やっくんはマグカップを受け取ると、大事そうに両手でカップを抱え、私の血をゆっくりと飲んでいく。まるで、じっくりと味わっているみたいに。
針を刺した部分の圧迫が終わったので、テーブルに用意しておいた絆創膏を傷口に貼って保護する。貼りながらやっくんに目を向けると、マグカップを大きく傾けて血を飲んでいた。
「ねぇ、私の血って美味しい?」
不意に、そんな言葉が口をついて出た。やっくんは一旦マグカップを水平に戻した。少し考えるようにマグカップの中を見つめている。
「……味は、そうだな……。普通に、血の味だ」
血の味、か。私は看護師として日々人の血液を扱っているけど、当然やっくんのように血をごくごくと飲んだ経験はない。「普通に血の味」と言われても、あまりイメージがつかなかった。
でも、昔ちょっと怪我した時に傷口をペロっとしたことはある。その記憶から想像するに、鉄の味と塩味が混ざったようなかんじなんだろうか。だとすると、貧血だと味が薄くなったりするかも。定期的に飲ませてたら、体調不良も感知されたりして、なんて。……それはさすがに冗談だけど。
血を飲み終えたやっくんは、ぺろりと唇を舐める。ギラついた赤い舌が、口から覗いた。
「……だが、飲むと元気になる。体中に力が行き渡るのだ。……私がこうして生きながらえられているのも、千春のおかげだ」
「あはは、大袈裟だなあ」
「大袈裟ではない。事実だ」
「やっくんってば真面目なんだから。……おっと、採血の後は水分補給しなきゃね」
私は立ち上がると冷蔵庫へ向かう。中を覗くと、缶ビールが目に止まった。キンキンに冷えたビール。実に魅力的だ。
……ビールを飲んでも、水分補給にはならない。それは分かっている。だが私の手は迷わずビールを手に取り、プシュッとやっていた。
缶に口をつけて、その場で一気に煽った。――美味い。やっぱり、仕事から帰った後のビールは最高!
……だけど、あとでちゃんと麦茶も飲みます。必ず。
私は心の中で、自分と約束を交わした。
***
血をもらった後、長椅子に二人で座って休んでいた。千春は今日は仕事が忙しくて疲れているらしく、いつもよりも言葉数が少なく静かだった。
……疲れているのなら、血をもらうのは明日でも良かったのに。だが千春は、どんなに忙しい日であっても、この『血を与える』という約束だけは違えたことはなかった。
千春がゆっくり休めるよう、こちらからも特に話しかけることなく過ごす。私はいつも、前日のうちに明日の分の料理の下準備をするので、すまほを使って料理の検索をしていた。冷蔵庫の中身をふまえた献立を考えて、頭の中で組み立てる。
ふと、視界の隅でぐらりと何かが動いたことに気づく。見ると、ソファーに座る千春が眠りかけていた。
(……そうとう疲れておるな)
私は肘掛けの上から千春の隣に移動した。ちょうどその時に、千春の体がこちらに倒れてくる。私は千春の頭を両方の手で受け止めると、そのまま、自分の膝の上に乗せた。
膝の上の千春は、すやすやと安らかな寝息を立てている。呼吸は深く、ずいぶん深く眠っているように見えた。寝室に運んでやりたいが……自分にできるだろうか。
顔にかかった髪をそっと避けてやる。伏せられたまつ毛と、ほんの少し開いた唇。そのまま、頬を軽く撫でて、肩まで下ろす。肩も、呼吸に合わせて規則正しく上下していた。
寝顔を、しばらく眺めていた。眺めているだけ。そう思っていた。だが、はたと気づく。眠っている千春の顔の方へ、自分が無意識に顔を寄せていることに。
私はそのことに気づいて、動きを止めた。
(……今、私は何を……?)
視線が千春の目元から口元、そして首筋へ動く。まだほんの少し湿っている髪はひとつにまとめられ、首には髪の毛一本かかっていない。白くて、柔らかそうな無防備な首筋。
まさか、自分は無意識に噛もうとしたのだろうか。
――何故。
顔を寄せることは、口を寄せることは、噛むということだ。
噛むということは、血を吸うということ。すなわち食事だ。
だが今の私は、千春から定期的に血をもらっている。ましてや、今日は先ほど血を与えてもらったばかりだ。
千春の体を見下ろすと、着ている服の袖から、先ほど自ら針を刺して処置を施したあとも、はっきりと残されている。
……飢えているわけではない。ならば、自分は今、何をしようとしたのだ?
二百五十年生きてきた中で欠かすことのなかった営み。人間の首筋に歯を突き立てて、血を頂く。そのことに、私は何の疑問も持ったことはなかった。
だが、千春の首に歯を立てることを想像した時に、どうしてもその自分が受け入れられない。千春の肌に傷をつけたくない。そう思ってしまうのだ。
……私は人間の血を糧として生きる妖怪だ。このまま千春の側にいたら、いつか千春の首に歯を立てることになるかもしれない。私には、そんな嫌な予感があった。
……思わず、息が漏れた。
私は守り神として、この家と千春を守っているつもりだった。
だが、私は本当に千春を守れているのだろうか。
側にいることで、かえって傷をつけることになるのではないか?
守るために側にいるはずだった。――なのに、側にいるほど自分がわからなくなっていく。
私は、一体何者になろうとしてるのだろうか。
千春の安心しきった寝顔を見下ろしながら、私は頭の中で自分への問答を繰り返していた。何度も繰り返すことで、どうしようもなく不安な気持ちを、頭の中からかき消そうとしているかのようだった。
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