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第29話 / 全32話
その日、千春は夜勤で不在だった。いつものように部屋の掃除と洗濯、明日の夕食への仕込みと、帰ってきた千春のための軽食を作った。その後、ひとり家の外に出る。暖かくなってきてからは、この時間帯に外出することが多くなっていた。周囲を見回りつつ、身体の感覚が鈍らないようにするのが目的だ。
今の人間社会を支配する鉄の馬も、この時間帯であればそれほど多く見かけない。地面の近くを飛んでいても、危険は少ない。
人間の家々が立ち並ぶ間に、開けた空間があった。その空間を形作る一本の木の枝に目をつける。空中で地下足袋を素早く脱いで懐にしまうと、足先だけを蝙蝠のものへと変え、枝に鉤爪を引っかける。人の姿のまま、私は逆さにぶら下がった。
開けた空間を取り囲むように木々や花が植えられ、鋼の棒や鎖で造られた大きな揺れる椅子が配置されている。珍妙な形状の椅子だが、まれに座りながら揺れている人間を見かけることがあるので、やはり椅子なのだろうと思う。
今日はそういった人間はおらず、静かだった。街灯の光が空間を照らし、開けた空間に影を作っている。街灯の周囲にチラつく白く細かいものは、光に集まる虫たちだ。その虫たちを追って、小さな黒い影が飛び交っている。今年も子育てに追われる蝙蝠たち。長きにわたって続けられている、命の営みだ。
その様子をしばらく眺めてから、私は他の場所を見回るために飛び上がった。下の様子を伺いながら、あてもなく飛んでいく。
ふと、後ろに気配があった。飛びながら後ろの様子を探ると、自分と同じくらいの大きさの物体が空を飛んでいる。おそらくは野衾――玄牙だろうか。
向こうは、こちらを目掛けて飛んできているようなので、私は近くにあった人間の家屋の屋根の上に降り立つ。少し時間を置いて、向こうも同じ屋根の上に降りてきた。
「……玄牙」
「久遠院夜行。飛んでいる姿を見かけたのでな」
……何やら含みのある言い方だ。この周辺は、私の縄張りだ。そこにわざわざ足を踏み入れて、挨拶をしに来た、というわけではあるまい。
「見回りだ。……私に、何か?」
その問いに、玄牙は肩をすくめる。
「警戒するな。……最近のお前の様子を見ていた。その上でひとつ、確認したいことがある」
「……何だ」
玄牙は少し黙った後、ゆっくりと口を開く。
「……春に、桜並木の下を人間の女と共に歩いていただろう。最近でも、夜道を二人で歩いているのを何度も見た。……あの女は何者だ?」
私は思わずため息をついた。私が誰と歩こうが、それは私の勝手であろう。
だが、疑問を持つ理由は理解できる。玄牙は、特定の人間と関係を築くことはしない。いつも複数の契約者を持ち、薄く、そして広く見守るのだ。そういうやり方だから、奴の目には私のやり方が珍妙に映るのであろう。
「……単純な話だ。あの人間は、私の今の契約者だ。世話になっているから、出かける先に付き添ったり、家事を手伝っている。それだけだ」
私の発言を、玄牙は黙って聞いていた。少し、間が空いた。しばらくして、静かに口を開く。
「……本当にそれだけか? 礼を返すためだけなら、あそこまで添う必要はなかろう」
玄牙のその言葉は、私の胸に深く刺さった。なぜなら、自分でもそう思っているところがあったからだ。
私が何も言えずにいると、玄牙はさらに続ける。
「人間に入れ込み過ぎなのではないか。奴らは、我々の生命の維持に欠かせない存在。それは事実だ。……だが、だからといって自分のすべてを差し出すものではなかろう」
「……分かっている」
「分かっているのなら、なぜそこまで添う」
私は目を閉じ、胸に手を当てる。
――胸の奥から響いてくる鼓動が速い。
「……自分でも、おかしいと分かってる。だが、離れられない」
「…………」
「返せぬのだ。返しても返しても、また与えられる。……私は、どうすれば良いのだ」
玄牙は目を細め、ほんの少しこちらに歩み寄る。
「……少し距離を置いてみたらどうだ」
「え……」
「お前は自分を差し出しすぎて疲れたのだ。少し休むと良い」
「しかし」
「……女が心配なのであれば、私が代わりに守ってやる」
……千春の側を離れる?
私の代わりに、玄牙が千春を守る?
その提案は、良いもののように感じられた。最近の私は、千春を守るものなのか傷つけるものなのか分からなかったからだ。
だが、守るということはすなわち、玄牙が千春と契約をするということ。
玄牙が、千春と契約する。
玄牙が、千春の白く柔い首筋に歯を立て、その血を――。
そこまで想像して、血の気が引いた。
それだけは、絶対に受け入れられない。
「……やめろ」
「なに?」
「千春を傷つけることは、絶対に許さない」
私は翼を広げ、威嚇する。だが、玄牙は怯む様子もない。眉をひそめ、まるで同情するかのように言う。
「……やはり、様子がおかしい。血を貰えば、傷は付くものだろう」
「去れ。千春は渡さん」
「……久遠院夜行。これは忠言だ。女から離れ、少し頭を冷やせ」
「絶対に嫌だ」
顔が、まるで沸騰したように熱い。頭の中は真っ白で、もう何も考えられない。真っ白な頭の中に残っているのは、千春を守らねばという想いだけだ。
私は牙を剥き、玄牙に向かって飛び出した。
「……っ!」
玄牙の頭に飛びついて、翼で視界を覆う。玄牙は体勢を崩し、絡まり合ったまま、飛びついた勢いで屋根の上から転がり落ちた。玄牙は地面に体を打ち付けて呻く。
だが、それで黙る玄牙ではない。私の服を掴んで、勢い良く引かれる。気づけば、体勢が入れ替わり、私が下になっていた。
――まずい。
そう思った時には、玄牙の牙が頬をかすめていた。熱い痛みが走る。
体勢を持ち直そうと抵抗するが、上手くいかない。その間に着ていた服は玄牙の牙を受けてあちこち切り裂けた。
玄牙の牙が、顔に迫る。咄嗟に頭を逸らして避ける。避けきれず、牙が耳を掠める、引っ張られる感覚がして、ブチリと嫌な音がした。
だが、その勢いで玄牙の頭が地面に向かう。私は一気に体を返し、玄牙の上へ。そのまま、玄牙の首筋に歯を立てた。
「ぐっ……!」
玄牙の体がびくりと反応する。牙を抜くと血が流れ、玄牙の手がそれを抑える。玄牙は私の下から器用に抜け出し、くるりと地面を転がって体勢を整える。
「……まだやるか。これ以上は――」
「いや、もういい。……こんなことで、野衾同士が殺し合うものではない」
玄牙は少しよろめきながらも立ち上がると、こちらを向いたまま少し後退して距離を取る。それから、首から手を外すと飛び上がった。
薄闇の中に消えていく黒い影が小さくなるまで見届けて、私はその場にへたり込む。
――なんとか、退けたか。
自分の体を見下ろす。千春に与えてもらった服が、裂けてボロボロになっていた。これを見たら、千春は悲しむだろうか。少しだけ胸が痛む。
だが、玄牙は、自分よりも長く生きる野衾だ。経験の量が違う。これだけの負傷で退けられたのは、運が良かった。
私は膝を立て、その場に立ち上がろうとした。その瞬間、ぐらりと視界が歪む。沸騰していた頭が冷えたからか、一気に疲労を感じた。
そのまま少し耐えていると眩暈は治ったので、ゆっくりと立ち上がる。飛びあがろうと翼を広げた。
「……あ」
左側の皮膜が、大きく破れていた。……これでは飛べない。
(……しばらく帰れないな)
帰る。自然にそう考えたが、私は帰るべきなんだろうか。
玄牙の言葉を、頭の中で反芻する。様子がおかしいと、そう言われた。玄牙の言う通りだと思う。私は千春と暮らすうちに、おかしくなった。それは確かだ。
今の私は、野衾として、そして守り神としてどうなのか。
本当に私は、千春のことを守っているのか。
……答えは、まだ出ていない。
私は周囲を見回す。人間の家屋の生垣の影。あそこであれば、しばらく身を隠せるだろう。
私はそっと生垣の影にしゃがみ込み、翼の皮膜で自分の体をつつむ。すでに空は、うっすらと明るくなってきていた。私は生垣の影で、静かに目を閉じた。
***
「ただいまー」
夜勤を終えて家に帰ってきた。「おかえり」と返事はないけど、やっくんは昼間は寝ているので、いつものことだ。
リビングのテーブルの上に置かれた軽食を食べて、キッチンに片付ける。シャワーを浴びた後、部屋着に着替えて布団に潜り込んだ。
夕方。目を覚ましてクローゼットの方を見る。しばらく見つめた後、ベッドから立ち上がり、リビングへ向かった。
リビングには、やっくんはいなかった。キッチンにもいない。あれ? ひょっとして、まだ寝ていたんだろうか。
私は寝室に戻り、クローゼットに置かれた大型犬用ベッドの中を覗き込む。……暗くて見えない。そっと手を伸ばす。中は、空だった。
(……いない?)
私はリビングに戻り、もう一度部屋の中を見回す。やはり、リビングとキッチンには姿がない。浴室も確認したが、見当たらない。
「やっくーん。いないの?」
返事はない。
キッチンには、朝に自分が食べた軽食が乗せられていた食器が、そのまま残っていた。
ソファーの近くに、やっくんのスマホが、充電ケーブルの刺さった状態で置き去りにされていた。……そういえば、出かける時には持ち歩くよう教えたことはなかった。
(あちゃー。これはやっちゃったな。やっくんはスマホのこと、家専用の検索道具だと思ってたのかも)
しばらく待っていたが、やっくんが帰って来ることはなかった。冷蔵庫には夕食用に準備された食材が入っていたので、それで適当な炒め物を作って一人で夕食を済ませた。
一人きりの夜は本当に久々で、妙に静かだった。眠くなるまでテレビを見たりスマホを見たりして過ごす。日付が変わった頃にようやく眠気がきたので、ベッドに入って目を閉じた。
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