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第30話 / 全32話
初めてやっくんが帰ってこなかった夜が明けて、朝が来た。目を覚ますと、部屋の中は静かだった。クローゼットの中に、誰かがいる気配はない。カーテンを少し開けて、日の光を入れてみる。……やっぱり、姿はない。
変だな、と思う。やっくんがここで暮らし始めてから、家に帰ってこなかったことは一度もなかった。でも、連絡を取ろうにもスマホは家に置きっぱなしだから無理だし、自分は朝から仕事だ。
私はベッドから降りて寝室を出る。キッチンは、昨夜自分が片付けた状態のまま何も様子が変わっていない。冷蔵庫から食材を取り出して、簡単な朝ごはんを用意する。作ったものを手早く食べ、身支度を済ませてから家を出た。
仕事は、いつも通りだった。定時を少し過ぎた頃合いで上がらせてもらい、更衣室で着替えてから病院を出る。バスに揺られ、地下鉄に乗り換えて、自宅の最寄駅へ到着した。
まだ日の短かった頃、いつもやっくんが待ってくれていた街灯の上を見る。そこに、黒い影はなかった。
家までの帰り道。歩きながら、つい周囲を見回してしまう。初めてやっくんと出会った小道にも、やっぱり姿はなかった。
そのまま、自宅のアパートに到着した。「ただいまー」と言ってみるが、返事はない。私は鞄を持ったままリビングを突っ切り、寝室へ向かった。扉を開けて灯りをつけて、クローゼットの中を確認する。
中は、空っぽだった。リビングにもキッチンにも、風呂場にも。どこにもいない。
……どうして帰ってこないの? もしかして、外で何かあったんだろうか。
探すか? と一瞬考える。でも、やっくんは人間ではない。蝙蝠の妖怪なのだ。どの道をどんな風に歩いているのか分からない。……いや、たぶん歩いてはいないか。移動する時は、きっと飛んでいくのだろう。空を飛ぶ相手を自分が探すのは、無理だ。
ぺたん、と床に座り込む。なんだか、ぽっかりと胸に穴が空いたみたいだった。
(……やっくん、帰ってくるよね?)
人間じゃないから、行方不明届を出すわけにもいかない。「一緒に暮らしていた妖怪がいなくなった」と誰かに話して、助けを求めることもできない。
――大切なのに。
私には、ただ無事を祈って待つことしかできないの?
心の中に、静かな絶望が広がっていった。
その日は、やっくんのことが心配で食事も喉を通らなかった。ひとまずベッドで休むことにしたものの、何か物音が聞こえると、やっくんが帰ってきたのかと思い玄関まで見に行ってしまう。最終的に、いちいち起き上がるのが面倒になり、ソファーで休むことにした。
ソファーで休んでいる間も、何か少し物音が聞こえる度に玄関に目をやり、しまいには音がなくても音が聞こえたような錯覚まで起こるようになった。
そうしているうちに空は白み、気づけば朝だ。
やっくんは、今日も帰ってこなかった。私は呆然としたまま、のそりとソファーから体を起こす。何か食べる気は起こらなかった。化粧をしようと鏡を見たら、目の下にくっきりとクマができていた。
(……ひどい顔色。でも、全然寝ていないんだもん。当然だよね)
いつもより濃い化粧を施すと、顔色の悪さは多少マシになった。どうせ、仕事中はマスクをするし、問題はないだろう。
身支度を終えた私は、いつもより少し早い時間に家を出た。いつもの道をはずれ、近所の公園に来てみる。公園には、小さな犬とその飼い主が気ままに散歩を楽しんでいた。近くに来た時に「おはようございます」と挨拶された。私は軽く会釈をして、そのまま通り過ぎる。この公園には、やっくんの姿はない。この近くには、他にも公園はあっただろうか。それか、もっと他の場所にいるのかもしれない。
腕時計を確認すると、まだ少しだけ時間に余裕があった。私はもう少しだけ遠回りをすることにして、公園を出た。
街路樹。民家の庭の植木。物陰。
道端でさえずる雀は、私が近づくとパッと飛び去る。
……雀さんたち。どこかで、うちの蝙蝠を見ませんでしたか。
そんな言葉が浮かんできて、私は心の中で軽く笑った。
――通じるわけがない。言葉が通じて意思疎通ができる人間以外の生き物を、私はただ一人しか知らない。
私は時間を気にしながら、駅までの道すがらギリギリまでやっくんの姿を探して歩いた。
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