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第24話 / 全32話
日勤からの帰り道がすっかり明るくなり、やっくんは街灯の上に現れなくなった。
やっくんは、私が家に帰って少しすると起きてくる。そこからはいつも通り、ご飯やおやつを一緒に食べたりしつつのんびりして過ごす。それが最近の日常になっていた。
そんな日常生活を送る中、私にはひとつだけ不満があった。せっかく買ってあげた春服を、やっくんが実際に着て外に出ているところをまだ見られていないのだ。
もちろん、まだ着ていないというわけではない。私が寝た後に春服を着てひとりで外に出たりはしているようなのだが、それを私は見られていない。それだけが、どうしても不満だった。
……自分でも、「そんなことで?」と思いはした。でも、不満なものは不満なのだ。
それに。今思えば、やっくんと一緒に外を歩くあの時間が、けっこう自分は好きだったのかもしれない。
そんな思いを抱えて過ごしていたある日。仕事帰りのバスの中で、私は何気なく広告を眺めていた。その中のひとつが、ふと目に止まる。
夜の桜並木がライトアップされ、桜の木の下を歩きながらスマホで写真を撮る人の姿が数人映った写真。夜の桜は、どこか幻想的で、美しい写真だった。どうやら、桜並木のライトアップイベントらしい。
照らされた桜と桜を楽しむ人々の姿を眺めていた時、私ははっと閃いた。
(……そうか。夜に一緒に出かければいいのか)
クリスマスの時は少し寒かったけど、今はもう寒さもない。夜に外出すれば一緒にゆっくり散歩できるのではないだろうか。
私はその頭の中の閃きにわくわくとしながら、バスを降りて地下鉄の駅へ入っていった。
帰宅してお風呂を済ませた頃、寝室から眠そうに目をこすりながらやっくんが現れた。春物の新しいTシャツに、下はスウェットというゆるい姿。かわいい。
「やっくんおはよう。……ねぇ、ちょっと一緒に出かけたい場所があるんだけど」
「……出かけたい場所?」
「うん。桜並木がライトアップされてるんだって。一緒に見に行かない?」
「……桜、か。千春が望むのなら、付き添おう」
やっくんの返答に、心の中でガッツポーズをする。それから私はさらに続ける。
「……それで、その時にお願いがあるんだ。この間新しく買った春服を着てくれない?」
「服?」
やっくんは首を傾げる。それから、少々困惑した様子で口を開く。
「……桜と私の服装に何の関係がある?」
「関係があるとかじゃなくて。ただ、私が着てほしいの! ……ね、お願い」
「……まあ、構わないが」
「やったー! 楽しみだね! あ、いつ行けそうか確認しなきゃ。シフト表は……」
シフト表は、寝室に置いた鞄の中だ。私は立っているやっくんとすれ違い、寝室へ向かった。
次の日。日勤をこなした私は定時でサクッと仕事を切り上げた。今日は残業は一切せずに帰るのだと決めていた。女子更衣室に入り服を着替える。いつも通勤の時に着ているTシャツとパンツではなく、ワンピースだ。袖を通すのは数ヶ月ぶりのことだった。ロッカーの扉についた小さい鏡を見ながら襟元を整え、軽く化粧を直す。
その時、更衣室の扉が開き、美咲が入ってきた。
「お疲れさん。……デートなん?」
「いや? ちょっと帰りに桜見るだけだよ。美咲もお疲れー」
他の看護師にも軽く会釈しながら更衣室を出る。更衣室に残された美咲に、「いや、それデートでは?」と首を傾げられていたことを知る由もなく。
やっくんとは、ライトアップの会場で待ち合わせをしていた。腕時計を確認すると、約束の時間よりもまだほんの少し早い。私は腕を下ろし、ライトアップされた桜を背にぼんやりと待っていた。
少しして、ほんの少し風が強くなった気がした。桜の花びらがひらり、ひらりと舞いながら地面に落ちていく。その花びらが一瞬、激しく空へ舞い上がる。次の瞬間、黒い影が音もなく目の前に落ちてきた。
「……すまぬ。待たせたな」
「全然。私も今さっき来たところだよ」
「そうか」
私は、目の前に立つやっくんの姿を見る。羽衣の中に、ちゃんと新しい春服を着てくれていた。色は真っ黒だけど、それでも冬に比べたらぐっと軽やかになったその姿に、思わず頬が緩んでしまう。
(……似合ってる)
私はやっくんの腕を掴んだ。
「……さて、じゃあ桜を見に行こう!」
「うわっ! ……こら千春、急に引っ張るな」
やっくんと並んで桜並木の下を歩く。写真でもきれいだったけど、実際に目にすると本当に幻想的で美しい情景だった。やっくんは、「桜が光っているようだな」なんてしみじみと言っていた。蝙蝠の目には、私たち人間とはまた違った風景が見えているのかもしれない。
「……あ、やっくん。あそこで一緒に写真撮らない?」
そう言ってやっくんの方を見ると、いつの間にかやっくんの姿が消えていた。
「あれ? ……やっくん、どこ?」
きょろきょろと辺りを見回していると、「こちらだ」と暗い方から声がした。見ると、ライトアップされていない広葉樹の枝の下に黒い影があった。……足が上で、頭が下だ。
「……何してるの?」
「ちょうどいい枝があったから、少し休憩していた」
私が何も言えずにいると、やっくんは逆さまのまま続ける。
「……実は、歩くのがあまり得意でなくてな。私のことは気にせず、先へ進んでくれ。次はあの桜の間の木へ飛ぶ」
そう言って、桜並木の方を指差す。私はなんだか面白くなってきて、つい笑いが漏れてしまった。
「もう。疲れたならそう言ってよ! ……あっちに屋台が出てるみたいだから、あそこで少し休憩しよっか」
桜並木の道の途中の屋台では、軽食やベビーカステラが売られていた。適当に購入して、空いていたベンチに座って一緒に食べる。
「あ。このベビカス美味しい! やっくんも食べてみて。絶対好きだと思う!」
「……これは確かに、美味いな」
「お店によってけっこう味違うんだよね。これはかなり美味しいと思う」
食べながら、ライトアップされた桜の方を眺める。今座っているベンチからは、桜は少し距離があった。遠くからの様子も、近くから見るのとはまた違った美しさがあった。
買った軽食を食べ終え、また桜並木の下へ戻る。春の優しい風に乗って、桜の花びらがひらり、ひらりと舞い落ちる。
「……千春。少し待て」
「ん?」
振り向くと、やっくんの手が私の頭に伸びてくる。顔の横の髪に、指先が触れる。
「……花びらが髪に絡んでおった。もうとれたぞ」
「ほんと? ありがと」
お礼を言って笑顔を向ける。やっくんは、何故か表情をこわばらせて少し固まった。
「……どうかした?」
「いや、その……何でもない……」
「そう?」
桜並木の端まで歩き、元の道を引き返す。歩きながら、やっくんがふと口を開いた。
「……私はこれまで長く生きてきたが、このように照らされる桜を見たことはなかった。月明かりに淡く照らされた姿も美しかったが、このような姿も悪くはないな」
「そうだね。私も初めて見たんだけど、すごく綺麗だった!」
「……この季節、桜並木の近くを飛ぶと、散った桜の花びらがずっと後ろをついてくるのだ」
「えっ、なにそれ楽しそう! 私もやってみたいなぁ」
「ふっ。……私に、お前を抱えて飛ぶことができたらな……」
そんな話をしていたら、あっという間に桜並木を歩き終えてしまった。やっくんに一旦別れを告げると、やっくんは桜の花びらと一緒にさらに舞い上がって消えた。私は地下鉄に乗って、いつもの自宅の最寄り駅まで移動する。階段を登って外に出ると、いつもの街灯の上にやっくんが待っていた。
帰り道、以前よりもほんの少しだけ二人の距離は縮んでいた。肩が触れるほどの距離で二人は並び、共に家までの道を歩いた。
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