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第8話 / 全32話
今日の夜勤は、同僚の美咲とシフトが一緒だった。美咲がいると、ナースステーションで待っている間、ついつい話に花が咲いてしまう。
ふと、美咲がぽつりと言った。
「……千春、なんや今日は機嫌悪いんかな?」
「え。そんなことないと思うけど」
「彼氏と別れた後、結構落ち込んでたみたいやったから、ちょっと心配してたんやわ。やっと吹っ切れたみたいやね」
「あー、言われてみれば……吹っ切れたというか、もう思い出すことすらなくなったかも」
「ええな! 昔の男のことはすっぱり忘れて、次行こ次!」
思い出さなくなったのは、どう考えても完全にやっくんのおかげです。ありがとうございます。
……でもまさか、蝙蝠の妖怪を家に住まわせて全力で貢いでるなんて言えない。
まあ、仮に言ったとしても信じてもらえないと思うけど。
仕事の方は、今日はわりと平和だった。時々来るナースコールや点滴交換をこなし、ナースステーションで美咲と雑談。気づけば時計の針が進み、朝になっていた。
「佐伯さん、お疲れさま」
「お先に失礼します」
更衣室で着替えて、病院を出る。それほど忙しくなかったとはいえ、眠い。バスに乗って、地下鉄に乗り換えて、駅から自宅までのいつもの道を歩く。
今日は明るい。この間やっくんと会った場所には、誰もいなかった。
途中、コンビニで昼ご飯を買い、家に帰り着く。鍵を開けて家に入る。
「ただいまー……」
小声でそう言ってみたものの、返事はなかった。荷物をソファーに置いて寝室へ向かい、クローゼットの前に立つ。そっと扉を開けると、ブランケットにくるまって寝るやっくんがいた。
……今日もかわいい。そこにいるだけでほっこりする。私はクローゼットからそっと着替えを取り出すと、扉を閉めた。
コンビニで買ったご飯を食べて、シャワーを浴びた。その後、少し休憩しようと思ってソファーに横になったら、いつの間にかそのまま寝落ちていた。
目を覚ますと、時間が夕方にワープしていた。
やばい。めちゃくちゃ爆睡してしまった。……あれ? 体の上に、やっくんに貸してあげたブランケットが掛けられいる。それに、どこからともなくふんわりと出汁の香りが漂ってきて、鼻をかすめた。
「千春、おはよう」
やっくんの声に体を起こすが、見当たらない。きょろきょろと見回すと、突然目の前に何か黒いものが降ってきて、音もなく着地した。
「へっ!? やっくん、一体どこから」
「あそこ」
やっくんはリビングに置かれた戸棚を指し示す。
「え……あの上に……?」
「うむ。高い所は落ち着く」
言葉を失っていると、やっくんはキッチンの方へ歩き出した。
「疲れておるようだったからな。簡単なものだが、夕食を作っておいたぞ」
ソファーから降りて、リビングのテーブルの前に座っていると、目の前に器が運ばれてくる。
どんぶりと、平皿が一つ。
「あの箱の中を見たのだが、肉と魚は凍っていてな。使っていいのか分からなかったから、あるもので作った」
器の中を見る。
「茶漬けだ。焼き茄子と根菜ときのこを入れた。こちらは卵焼き。少々贅沢かも知れんが、養生にはもってこいだろう」
湯気が立っていた。出汁の香りがふわりと鼻をくすぐる。
……なにこれ。幸せすぎて言葉が出てこない。
黙り込んでいると、やっくんは怪訝そうな顔をする。
「……千春、どうした。あまり食欲が湧かなかったか」
首を振る。
「ううん。お腹ぺこぺこ。……ありがとう。いただくね」
お茶漬けを一口食べる。出汁の味と野菜の旨みが、疲れた体に沁みわたる。次に、卵焼きを一口。甘みとしょっぱさのバランスが完璧だ。ほんのり出汁の風味も感じられる。
「美味しい……」
「そうか。まあ、私にかかれば当然だな」
やっくんは得意げに言った。かわいい。
食べ終わった後、やっくんにバナナの剥き方を教えてあげた。
やっくんは、刃物を使わず剥けることに衝撃を受け、それから手軽に食べられることに感激していた。
明日の買い出しでバナナを買い足すことが決定。すぐにスマホにメモした。
「千春、あの米を炊くからくりはなんというのだ」
バナナを食べながら、ふと思い出したようにやっくんが言う。
「あれは炊飯器だよ」
「すいはんき」
「そう。お米を研いで水と一緒に入れて、ボタンを押すだけでご飯が炊けるの。……あれ? ってことは今日のご飯は」
「茶漬けの飯は鍋で炊いた。まだ残っているぞ。……握り飯でも作るか?」
「えー! すごい! おにぎり食べたい!」
やっくんはバナナを食べ切ると立ち上がり、キッチンへ向かう。
バナナの皮を生ゴミのゴミ箱に捨てた後、ガスコンロの前に立つ。私もついていった。
土鍋の蓋を開けると、炊き立てご飯の良い香りがふんわりと漂ってきた。優しさの中に、ほのかに香ばしさの混ざった香り。土鍋の中のご飯はツヤツヤで、ところどころにおこげができていた。
やっくんは器にご飯をよそうと、濡らした手に塩を纏わせ、慣れた手つきでおにぎりを作ってくれた。
……これは海苔が要るやつだ。私は引き出しから袋に入った海苔を取り出す。
半分に折って切ったものをやっくんに差し出すと、サッと取って完成したおにぎりに巻いてくれた。
「できたぞ」
「ありがとう!」
さっそくかぶりつく。海苔の香りと、程よい塩味を纏ったご飯の甘みが口の中に広がる。土鍋で炊いたご飯のなんと美味しいことか。塩と海苔だけで、他には何もいらないではないか。
やっくんはそのままおにぎりを量産し、全部で四つも作ってくれた。
少し小ぶりの、けれどどっしりとした雰囲気のおにぎりたちが黒い海苔を纏い、誇らしげに皿の上に並んだ。
「……これでよし。小腹が空いた時に良いだろう」
「うん。後でまたいただくね」
私がおにぎり達にラップをかけると、やっくんが目を見開く。
「それは?」
「これはラップ。食べ物が乾燥しないようにするのに使うよ。あとは料理にも使う」
「ほう」
「これ、電子レンジっていうんだけど。ここに食べ物を入れてボタンを押すと温まるんだ。温める時に、ラップをふんわりかけたりするよ」
「ぼたんとはどれだ」
「ここだよ。炊飯器のはこっち」
ボタンを指差すと、やっくんは小さく頷いた。
せっかくなので、キッチンの設備説明をすることにした。
炊飯器や電子レンジの使い方。魚焼きグリル。冷凍した食材の使い方。やっくんは時々頷きながら熱心に説明を聞いてくれた。
「……なるほど、覚えたぞ。次からは料理の幅が広がりそうだ」
「ほんと? すごいね。一回聞いただけでわかるの?」
「ああ。一度聞けば十分だ」
キッチン設備説明を終えて、リビングに戻る。
まだ六時台。今日は昼間に寝過ぎてしまったから、たぶんしばらく寝られないだろう。
やっくんの方をちらりと見る。せっかく二人とも起きてるし、何か喋りたい。
少し考えて、そういえばと思い出す。
「やっくん。前に少し和尚さんの話をしていたよね。お寺に住んでたことがあるの?」
「ああ。あれはもう二百年ほど前のことになるが。和尚の血をもらう代わりに、寺の管理を手伝っていた」
「へー。お掃除とか?」
「そうだ。夜中に隅々まで磨き上げたら、弟子たちがする仕事がなくなると文句を言われたな」
「えー、なにそれ」
「掃除も修行の一環なのだそうだ」
ふと、部屋の床を見る。常夜灯なので良くは見えないけど、いつもよりピカピカしてるような……。
「……ひょっとして、うちの床も拭き掃除してくれてるの?」
「そうだぞ」
「そうだったんだね……。綺麗にしてくれてありがとう」
お礼を言うと、やっくんは少し照れたように視線を逸らした。
「……血を貰っているのだから、それくらい当然だ」
照れ隠しですか。かわいいですね。それはそうと、血の話でひとつ気になっていたことを思い出した。
「……少し気になっていたんだけど、血を飲むのはたまにでいいの? 最初の日以来、あげていないけど」
「ああ。週に一回ももらえれば十分だ」
それだけ言うと、やっくんは急に黙った。少ししてから静かに口を開く。
「……あの日のことは、本当に感謝している。前の契約者が死んでな。長い間血を得ることができず、限界だったのだ」
やっくんは床に正座したまま、頭を下げた。
「急に襲うような真似をしてすまなかった」
私は慌てて手を振る。
「そんな。もう過ぎたことだし、気にしてないよ」
出会ってから今日までのことを思い出す。
何も言わずに散らかった部屋と溜まった洗い物を片付けてくれたこと。
仕事で疲れた私を、素敵な料理で労ってくれたこと。
「……私の方こそ、ありがとう。仕事が忙しくて、生活が荒れやすかったからさ。本当に、めちゃくちゃ助かってるよ」
そうお礼を言ったら、やっくんは恥ずかしそうに視線を下げて、短パンの布を握った。……見ていたら、なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。
「……なんかおやつでも食べる? やっくん、甘いの好きでしょ」
そのまま、夜が更けていった。
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