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第9話 / 全32話
おしゃべりしながらおやつを食べていたら、すっかり遅い時間になっていた。
そろそろおやつはやめて歯磨きをしようかと思って、まだやっくんに歯磨きを教えていなかったことを思い出す。
食べたら、ちゃんと磨かないとね。やっくん、甘いもの好きだし。
「やっくん、歯磨きしよっか」
「はみがき?」
立ち上がり、洗面台に置いてあった歯ブラシを二人分持ってくる。
「食べたら歯を磨くんだよ。虫歯にならないようにしないと」
まずは目の前でやってみせる。やっくんは見よう見まねで口の中に歯ブラシを入れて手を動かす。でも動きがぎこちなく、上手く磨くことができない。
「貸して」
やっくんの手から歯ブラシを奪い、歯ブラシを構えながら体を寄せる。
「お口あーんして」
すると、何故かやっくんは顔を背けた。
「……虫歯になったら痛いよ。ほら、お口の中見せて」
そう言うと、やっくんはしぶしぶといった様子で口を開けてくれた。
見ると、人の歯と形が違う。奥の方はけっこう似ているけど、前の方のちょうど犬歯のあたりに鋭く尖った牙が四本も生えていた。
「うわー! これは立派な歯だね。噛まれたら痛そう」
観察しながら、歯ブラシを口に入れて磨き始めた。
だが、やっくんは途中で口を閉じて顔を背けてしまった。
「ちょっと。まだ終わってないよ」
「……もういい」
「ダメだってば」
もう一度口を開けさせようと距離を詰めると、やっくんは素早い動きで後ずさった。
追いかけようとしたのだが、飛び上がって戸棚の上に登ってしまった。
「もー! 磨かせてよ」
「要らぬ」
何を言っても、戸棚の上から降りてきてくれない。
結局、その日は諦めた。
次の日。勤務中の休憩時間で、昼食を食べつつスマホで歯磨きのことを検索することにした。
『歯磨き 嫌がる』と入れると、予測ワードがずらっと並ぶ。
『歯磨き 嫌がる 一歳』
『歯磨き 嫌がる グッズ 二歳』
『歯磨き 嫌がる 二歳』
『歯磨き 嫌がる』
……なるほど。私は二百五十歳の蝙蝠妖怪を相手にしていると思っていたけど、どうやら育児をしていたらしい。
というかそもそも、蝙蝠妖怪に歯磨きを習慣づけさせるための方法なんて、検索で出てくるはずもなかった。
私は結局、『子供への歯磨きの習慣づけ』という方向性で対応を進める方針に決めて、色々と情報を集め始めた。
まずは、嫌がる理由だ。
ネット情報によると、嫌がる理由は痛みや不快感、イヤイヤ期によるものと書かれていた。
イヤイヤ期はない。たぶん。二百五十歳だし。でも、痛みや不快感は確実にあるだろう。だって、二百五十年の間歯を磨く習慣がなかったのだ。不快に決まっている。
続けて読んでいく。
対処方法としては、無理に押さえつけないこと。親が口を開ける姿を見せたり、甘い歯磨き粉を使って、『歯磨きは楽しい』と思える環境づくりを心がけましょう。そう書かれていた。
楽しいと思える環境づくり、だと?
……そんなの無理なのでは? だって、歯磨きは楽しくない。磨かなければという義務でやるものだ。大人はみんな、磨かなければいけないと分かってるから磨く。
でも、その習慣づけのためには一旦歯磨きをエンタメにする必要があるということか……。
私はYouTubeのアプリを立ち上げ、片っ端から歯磨きの育児動画を見始めた。
休憩室に入ってきた美咲が、私の後ろを通りながらちらりとスマホの画面を覗き見る。
「……千春。あんた、子どもおるんやったかいな」
「いないね」
「ほんなら、なんでそんな動画見てるん?」
「……将来の勉強のためとか?」
「いや、私に聞かれてもなぁ」
その日、私がまず試すことにしたのは、子供に先に親の歯を磨いてもらうという方法だ。
親の歯を磨いてまずは楽しんでもらう。その後交代すると、すんなり磨かせてくれるというテクニックだった。
一緒におやつを食べた後、やっくんに声をかける。
「やっくん、歯磨きの時間だよ」
すると、やっくんは戸棚の上に逃げた。……学習されている。
「今日は無理やりはしないよ。まず、私の歯を磨いてもらおうと思って」
「……千春の歯を? 何故?」
「何故って……」
エンタメ化しないといけないからなんだけど。
でも、この時点で全く乗ってこないというのとは、そもそもこの方法はエンタメとして成立していないのでは?
歯磨きの習慣づけが必要という点は幼児と同じだけど、相手は二百五十歳。
見た目はかわいいけど大人だし、なんなら自分よりも精神年齢が上かもしれない。
そんな相手に対して子供と同じ方法で働きかけるのは、そもそも無理だったということか。
結局、その日も諦めた。
次に試すことにしたのが、甘い歯磨き粉。
定番中の定番である。やっくんは甘いものが好きだから、効果があるかもしれない。
無理に誘わず、まずは自分が歯磨きをしているところを見せる。
磨きながら、さりげなく言う。
「やっくん用に甘くておいしい歯磨き粉買ってきたよ」
これは嘘だ。本当はやっくん用ではない。子供用だ。
でも、やっくんは少し興味を持ったみたいで、近づいてきてくれた。
歯ブラシに歯磨き粉をつけて渡すと、口に入れる。
でも、すぐに口から出した。
「バナナの方が美味しい」
……そりゃあそうだよな。知ってた。
――戦いは、まだ始まったばかりだった。
今日も、やっくんは満足そうにバナナを食べていた。
もちろん、歯は磨かなかった。
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