読み込み中...
読み込み中...
第31話 / 全32話
やっくんが消えてから、今日で五日が経っていた。
毎朝、帰ってきたのではと思ってクローゼットの中を覗いては打ちひしがれ、食事をする気も起こらない。
部屋の中には、やっくんのものが大量に残っていた。全部、私が自分で買ったものだ。キッチンに置かれたバナナホルダーには、食べられないまま黒くなったバナナが、そのまま残っている。キッチンに近づくと、熟れすぎた甘い香りが漂ってくるほどだ。
部屋の中があまりにやっくんの物ばかりなので、気を逸らすようにポケットからスマホを取り出して開いてみる。何気なく開いたAmazonアプリ。その購入履歴には、やっくんのために買った物がずらりと並んで表示された。
視界が歪んで、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
この五日間、仕事だけはなんとか通っていたけど、部屋はすっかり荒れ果てているし、食事も睡眠も全くとれない状態になっていた。
仕事でも些細なミスが続いて美咲や上司に心配され、早退を勧められる始末だ。いい大人が、本当に呆れる。
それから、昨日気づいたことがある。前回やっくんに血をあげてから、すでに一週間が経過していた。
正確には、今日で一週間と二日目。
初めて会った時、お腹を空かせてよろよろしていた姿が思い出される。
プリンを食べて、「腹は膨れぬ」と困った顔をしていた。
やっくんは血を飲まないとダメなのに。……どうしよう。
――やっくんは、生きているんだろうか。
そんな考えが頭に浮かび、日に日に大きくなってきていた。
人間ならば、少々絶食したとしても死にはしない。でも、やっくんがどうなのかは全く想像がつかなかった。いったい、何日まで飲まずに耐えられるのか。
年末年始に帰省した時には、少し多めに血をあげた記憶がある。しばらく会えないから、と。でも今回は、すでにあの時よりも日にちが経過している。
……ああ。そっか。誰か他の人から血をもらうことにしたのかもしれない。
私が、何かやっくんが嫌がることをしてしまって、それで出ていくことにしたのかも。
何が嫌だったんだろう。
私が、だらしないから?
やっくんに家事を任せっきりにして何もしないから呆れちゃった?
それとも、「かわいい」って言われるのが嫌だった?
やっくんは、ずっと「かわいいって言うな」って言ってた。それなのに、私がずっと言い続けていたから、私のことが嫌いになった?
……考えても、理由はもう分からない。分かりようもない。
私は散らかった部屋のソファーの上で、膝に頭を埋めて自分の体を抱きしめた。
(……もう、帰ってこなくてもいい。だけど、もしも無事でいるなら……せめて、もう一度だけ姿を見たい)
そうしているうちに、気づけば完全に日が落ち、部屋の中はすっかり暗くなっていた。明かりをつける気力はない。レースカーテンごしに差す薄い月明かりが、散らかった部屋をぼんやりと照らしていた。
ふと、玄関の方からガチャッと鍵が開く音が聞こえ、私はハッと顔を上げた。
玄関への扉がゆっくりと開く。暗い玄関から黒い影が現れ、ゆっくりとリビングに入ってくる。薄い月明かりに青白く照らされたその姿は、見間違うはずもなくやっくんだった。
「あ……」
どういう訳か、やっくんはあちこち傷だらけだった。着ている服は裂けてボロボロだし、右の頬には何かに引っ掛けたような傷跡がある。それから、ふわふわの髪からのぞく左耳の先端が、引きちぎられたように欠けてしまっていた。
私はソファーから立ち上がると、ゆっくりとやっくんに近づく。
「……夢じゃない? やっくん、帰ってきてくれたの……?」
「……ただいま。……その……心配をかけた」
心配をかけた?
その言葉を聞いて、一気に頭に血が昇る。
「……なんで。なんで急にいなくなったの」
「…………」
「めちゃくちゃ心配した! ごはんも食べられないし、幻聴まで聞こえてきて全然寝られなかったんだから! どうして一言言ってくれなかったの!?」
「……千春」
「もう、死んでるんじゃないか思ったんだから! 血も一週間以上あげてないし! それに、こんなに傷だらけで!」
私は、やっくんのボロボロの服に掴み掛かった。
――ボロボロだけど、温かい。
また、視界が歪む。涙が溢れ出して、止まらない。
「……怪我の手当をしないと……いや、それとも血を飲むのが先? ……どっち? どっちなの!?」
声を荒げながら、私はやっくんの胸に縋り付いた。私が膝を折るのと一緒に、やっくんも膝を折って一緒に床に座り込む。
少しして、私の背中にそっと温かい手が回った。
しばらくそのまま、部屋の中に嗚咽の音だけが響いていた。
私が泣き止むまで、やっくんは何も言わずに私を抱きしめてくれた。ようやく冷静になった私は、やっくんの怪我の手当てにとりかかる。ボロボロの服を脱がせると、体にいくつも引っ掻いたような傷跡がついていた。怪我をしてから時間が経っていたようで、すでに傷口は固まっていたけど、念のため体を綺麗に拭いて傷口を消毒した。
それから、頬の傷跡の確認する。これはパッと見では目立つけど、見たところ深くはなさそう。たぶん、きれいに治りそうだ。
……でも、欠けた耳の先っぽは、もう治らないだろうなと思った。
あと、やっくんの大切な羽衣が破けてしまっていた。「縫おうか?」と聞いてみたが、やっくんは首を振る。
「この羽衣は、私の体の一部なのだ。飛ぶ時には翼に変わる。……これが破れたせいで飛ぶことができず、帰りが遅くなったのだ」
「……そうだったんだ。また、飛べるようにはなるの?」
「ああ。力が戻れば自然と繋がり、元に戻るだろう」
それから、血を飲んでいないことについても気になっていた。私は救急セットを片付けながら口を開く。
「この後採血もする?」
「いや、いい」
「なんで? お腹空いてるんでしょ」
「空腹は感じるが……それで今すぐどうこうなるわけではない。……それより」
やっくんは、救急セットを持って立ち上がった私の手を掴んだ。
「千春、少し休め。顔色が悪いぞ」
「あー。まあ、しばらく寝てないしね」
「食事もとっていなかったと言っておったな。……今の千春から血をもらうわけにはいかぬ。家のことは、後から私がやっておく。とにかく、今日はもう休め」
……もう。この子は本当に。こんなボロボロの体で、まだ家事をするつもりなの?
「……嫌だ」
「え」
「今日は一緒に寝て。じゃないと寝られない」
「い、一緒に寝る……?」
「そう。一緒に寝るの。……ね、お願い。今日は離れたくないの」
やっくんは少しの間戸惑うように視線を泳がせていたが、やがてこくりと頷いた。
二人とも部屋着に着替えて、一緒に私のベッドに入る。私のベッドは一人用なので幅が狭い。でも、体の小さいやっくんとなら、ギリギリ一緒に寝ることができそうだった。
夏用の肌掛け布団を引き寄せて一緒にくるまる。それから、隣にいるやっくんの手を取る。あたたかい手だ。小さいけど、想像よりも肉厚でごつい感触がした。
少しして、やっくんの指が動く。そっと、指を絡めてきた。
……ほっとした。やっくんがちゃんと生きていてくれて。私のところに帰ってきてくれて。
どっと、疲労感が押し寄せてくる。今日はようやくぐっすり眠れそうだ。
私はやっくんの手の甲を、繋いだ手の親指で何度か撫でた。
「……もう、いなくならないでね」
「ああ、約束する」
その言葉に安心して、一気に意識が遠くなる。でもその時、「千春」と呼ぶ声に一瞬だけ意識が浮上した。
「私は、千春が死ぬまでは側にいる。……だから、死ぬまでちゃんと生きろ」
「……うん」
絡められた指の力が少し強くなる。体を寄せると感じられる温もりに、自然と頬が緩んだ。
***
千春は、床についてすぐに眠ってしまった。閉じられた瞼の下には、疲労のあとがくっきりと残っている。私の不在が、千春にこんなにも負担をかけてしまったということに、私は衝撃を受けていた。本当に、可哀想なことをした。
……玄牙に言われたことや、外で過ごした数日間のことを思い出す。
私は、千春に対して自分でも制御できない衝動を持ってしまっている。もはや、野衾としても守り神としても、失格なのかもしれない。
それでも、先ほどの千春の様子を見て、私は決めたのだ。
千春が生きている間は、その側を離れないと。
そして、いつか千春の命が終わりを迎えた時も。
自分の胸に千春が有る限り、その記憶とともに未来を超えていくと。
――千の春を超えても。その先も、ずっと。
この話はいかがでしたか?
この作品を評価する