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第5章 己 / 第344話
無意識のうちにサフィールを見詰めてしまっていたらしい。サフィールの頬が桜色に染まっていく。
私も何か他の話を思いつくでもなく、ぼんやりと道を歩く。足元がふらついたのか、体力の限界だったのか、膝から前方にくずおれてしまった。
「エルヴァ!」
すぐさまサフィールが私を起こし、背中を見せる。
「俺に掴まっていられる?」
「……たぶん」
自信がないので、曖昧にしか答えられない。サフィールは苦笑いしながらも、「乗って」と言ってくれた。
サフィールの背中に身体を預け、その肩に手を添える。温かい。人はこんなにも温かいものだったなんて。
両親からも抱かれた記憶がないので、初めての感覚に酷く心が安らいでいく。いつの間にか、そのまま瞼を閉じていた。
次に目覚めたのは布団の中だった。宿までサフィールが運んでくれたのだろうか。お礼を言おうと飛び起き、辺りを見回してみる。しかし、シンプルな家具が並んでいるだけの部屋には、私以外の人の気配はなかった。
出窓に近付き、外を眺めてみる。赤レンガ造りの建物が並んでいて、街灯には明かりが灯り始めている。粉雪が舞っており、日没が近いのかは分からない。
サフィールはどこに行ってしまったのだろう。廊下に出る勇気もなく、椅子に座ってグラスの水を口に含んだ。
十数分テーブルの前でぼんやりとしていただろうか。ノックの音が聞こえ、サフィールらしき人の声が聞こえた。
「俺だよ。入れてくれる?」
「うん」
すぐさま返事をし、部屋を閉ざしていたドアの鍵を開ける。すると、呆れた顔のサフィールがこちらを見詰めた。
「引っかかった」
「えっ?」
「俺じゃなくて、知らない人がいたらどうするつもりだった?」
そんなこと、考えもしなかった。私はあまりにも危機感がなさすぎるのかもしれない。一気に申し訳なくなってしまう。
「ごめんなさい」
呟き、俯く。そんな私の肩を、サフィールは軽く叩いた。
「反省してるなら許す。それでなんだけど」
サフィールは部屋に入り、もう一脚の椅子に腰かける。
「合言葉を決めない?」
「合言葉?」
「うん。俺たちにしか分からない言葉」
私も座っていた椅子に戻り、サフィールと顔を合わせた。
「そうだな。部屋に入るときは、例えば……『俺がいれば大丈夫』とか」
「……うん。『私がいれば大丈夫』」
なんだか不思議としっくりくる言葉だ。『大丈夫』。誰かは分からないのに、ずっとその誰かに励まされていたような気がする。 私が微笑んでみせると、サフィールも小さく笑ってくれた。
「そうだ。せっかくだから、エルヴァの趣味を教えてよ」
「趣味かぁ」
私の場合は、趣味というよりも、ただの暇つぶしだったのかもしれない。楽しかったからいいのだけれど。
「編み物」
「どんなもの編んでたの?」
「ハンカチとか、ブランケットとか、カーディガンとか」
せっかく編んだのに、外へ持ち歩く機会は全くなかった。胸がきゅっと締め付けられ、そのまま視線を下げてしまう。
「じゃあさ。エルヴァが元気になったら、毛糸を買いに行こうよ。そしたら、また編めるじゃん?」
「でも……」
私たちはトライドールだ。オッドアイがある限り、誰かに狙われる。自ら危険を冒して、ただの買い物なんてしていいのだろうか。自由を求めていたはずなのに、臆してしまう。
「今だって、こうやって城下町で動けてるからさ。できないことなんてないよ」
サフィールがそう言ってくれるだけで、胸の奥が温かくなる。私にも、ようやく自由の時間が与えられるのだろうか。希望を持ってもいいのだろうか。
「……私、ちょとだけ前向きになれた気がする」
「そっか。よかった」
私が胸の前で手を組み合わせると、サフィールはにこっと微笑んでくれた。
「じゃあ、サフィールの趣味は?」
「俺? んー」
サフィールは若干遠くを見て、何かを考えたようだ。
「ピアノ、かな」
そして、思い出したように小さく呟く。
「音楽ができるの?」
「うん。幽閉塔になぜかピアノがあったからさ。小さい頃から玩具みたいに弾いてた」
意外だ。繊細な見た目だとは思っていたけれど、趣味までもが繊細だったなんて。もはや、感嘆の吐息が漏れてしまった。
「もちろん、本も好きだよ。エルヴァと同じで、外と繋がれる唯一の手段だったから」
「やっぱりそうなるよねぇ」
「うん」
私たちは性格も違うし、置かれた立場も違う。でも、少しだけ似た者同士なのかもしれない。
「じゃあ、あの緑の鳥が出てくる切ない童話を知ってる?」
サフィールが僅かに前屈みになり、私に問いかける。あの童話を知らない本好きなんていないだろう。
「知ってる! 私、最後に出てくる青い鳥が何だったのか気になるの」
「俺も。あれはたぶん、奇跡の部類に入ってるとは思うけど」
危機に瀕した緑の鳥を、青い鳥が救ってくれたのだ。こうして、一つの物語について話ができる人に出会えたのは初めてだ。心が躍っているのが自分でも分かる。
「じゃあ、幽霊に呪い殺されちゃうホラーの話は知ってる?」
「うーん、いっぱいあって、どれのことを言ってるのか……」
「ほら、『イヴリン伯爵家のメイドは何でも見える』っていうあれ~」
「ああ、分かった」
はじめは話題探しにすら難航すると思っていたのに、咲いた会話の花は萎まない。いつの間にか夜は更け、フクロウが鳴き始めるのだった。
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