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第15章 沈黙のエルネス / 第44話
スケッチブックを仕舞いながら、不意にルーナスが口を開く。
「エルネス、明日もここに来いよ」
深刻そうな表情ではなく、力の抜けた表情だ。
エルネスは怪訝そうに瞬きをする。
「何でだ?」
「もし、教会に居場所がなくなったとしても、ここに来ればいい。明日だけじゃなくて、明後日も、明々後日も……毎日」
「明後日は礼拝があるな」
「じゃあ、礼拝が終わったら」
ルーナスには真剣さは感じられない。でも、私には分かる。少しでもエルネスが思考の渦に捕らわれる時間を減らしたいのだ。それを感じ取ったのか、エルネスは苦笑いをする。
「俺はお節介な友人を持ったな」
「そんなの、最初から分かってただろ?」
ルーナスは厄災の時に自分の時間を削って、ひたすら他人のために布マスクを縫っていたのだ。人柄はいくらでも察せられる。
エルネスも自虐したのか、鼻で笑ってみせた。
「手土産を持ってくるよ。毎日な」
「お土産ー? ぼくに何かくれるのー?」
言葉の意味を理解していないのか、オーレは無邪気にエルネスの顔を見上げる。流石に、これにはエルネスも声を出して笑ってしまった。
「果物でいいか?」
「うん!」
“オレンジも林檎もバナナも大好きー!”
オーレはエルネスにぎゅっと抱き着く。エルネスもオーレの頭を軽く撫で、ほっと息を吐き出した。
「そろそろ日が暮れるな。俺は帰るよ」
いつの間に、そんなに時間が経っていただろう。言われてみると、確かに部屋の中は多少暗くなってきている。
「今日はしっかり眠れよ」
「分かってるよ」
ルーナスとエルネスは手を握り合い、別れの挨拶を交わす。
そんな時に、ドアをノックする音が聞こえたのだ。最初は風が叩いているのかと思った。でも、違ったのだ。
ルーナスは椅子から立ち上がり、ドアへと向かう。それを開けると、黒い神父の格好をした壮年の男性が佇んでいた。
「ここにエルネス・フェルマーがいると聞いてやって来たのだが」
その男性は、エルネスの姿を見つけるとニヤリと笑う。
「まさか、お前が教会に仇なすとはな」
「王都の神父様が、こんなところになんの用で?」
「言わなくても理解できるだろう。お前は馬鹿じゃない」
「子供の前で毒を吐くこともないでしょう」
エルネスは舌打ちをすると、大人しく王都の神父へと近付く。
「三人とも、大丈夫だ。取って食われやしないだろうから」
神父とエルネスはドアの向こう側へと消えていく。それを黙って見ていることしかできなかった。
悔しくて堪らない。何が起きたのか、未だに全ては分からない。エルネスが無事であることを祈るのみだ。
「ふえ……」
オーレは小さな声を上げ、しくしくと涙を流し始める。
“エルネス、怖い人に連れて行かれちゃった……”
子供なりに、事態の深刻さを理解しているのだろう。ドアの方から目を離そうとしない。
ルーナスも慌ててオーレへと駆け寄り、そっと抱き締める。
「オーレ、大丈夫だからな。エルネスは絶対に帰ってくるから」
不安な時は一夜で終わらず、三日と続いたのだった。
不安を払拭するように、ルーナスは想刻に没頭する。今は私の身体を作っているらしい。スケッチのみならず、彫刻しているものすら見せてもらえない。
最初は文句を言っていたオーレだったけれど、諦めたようだ。私を遊びに誘うようになった。
「これ、ルーナスに見えるー?」
今日は珍しくお絵描きをしている。茶色のもじゃもじゃとした髪に、緑の瞳、満面の笑み――子供の感性を存分に含んだ愛らしい絵だ。
「うん。ちゃんとルーナスに見えるよ」
「じゃあ、ソレイユも描こー!」
小さな手を懸命に動かし、想像を形にしていく。グレーではなく白で私の髪を描くので、シワのない老齢の夫人のように見えたのは内緒だ。
「ソレイユもできたー!」
「ありがとう」
「次はエルネスも――」
言いかけて、オーレの手が止まる。
「エルネス、三日も来てくれない……」
“怖い目に遭ってるのかな……”
オーレも心に不安と恐怖が押し寄せ、声が溢れかえる。何とか安心させなくては。
「ルーナスも言ってたでしょ? ちゃんと帰ってくるって」
「でも……」
「エルネスはね、オーレが笑ってくれたら安心できるんだよ」
下手にオーレが不安になっていたら、エルネスも悲しいなんてマイナスなことを言わない方がいい。余計に落ち込ませてしまうかもしれないのだから。
私の言葉を聞くと、オーレは口ごもりながら拳を握る。
すると突然、玄関のドアが開いたのだ。流れ込む外の空気と音に驚いて振り向いてみると、疲れ切ったエルネスの姿があった。
「エルネスだ……!」
真っ先に反応したのはオーレだった。乱暴に立ち上がり、エルネスへと一直線に駆けていく。エルネスも腰をかがめ、しっかりとオーレを受け止めた。
「エルネスー」
オーレはエルネスの胸に顔を埋め、泣き声を上げる。その時に見てしまった。はらりと流れたエルネスの前髪の向こうに、赤い筋が走っているのを。
「エルネス、おでこに怪我を」
「ああ、これはちょっとぶつけただけだよ。もう血は止まってるし、痛くもないから」
きっと、オーレを心配させないための嘘なのだろうな、と分かってしまう。軽々しく指摘もできず、唇を噛む。
ルーナスも手を止め、こちらにやってきた。
「とりあえず、来てくれてよかった。好きに過ごしてくれていいから」
「ああ、助かるよ」
ここで無理やり話を聞き出さないのがルーナスらしいなと思う。エルネスはテーブルの上のスケッチブックに気付いたらしく、ふっと目元が優しくなった。
「オーレ、絵を描いてたのか?」
「……うん、これからエルネスも描こうと思ってたんだ」
「じゃあ、カッコよく描いてくれな」
エルネスはいつも通り朗らかに笑い、オーレの頭を撫でる。まるで、王都の神父とは何もなかったかのようだ。
その日も、その翌日も、一連の騒動の話題は出なかった。ただ、優しい時間だけが流れていく。
その中で、ルーナスが彫っていた想刻を片手に供養庫へ行くのを見てしまった。
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