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第2章 名ばかりの英雄 / 第3話
スカーフで鼻と口を覆い、銀の髪も纏めて準備は万端だ。窓も開け放ち、カビや埃の臭いに顔をしかめる。床に転がっている箒と塵取を手に取ると、僅かに埃が舞った。ひと掃きすれば埃が煙のように立ち上る。
「……くしゅん!」
“大丈夫かな……”
くしゃみをすると、ルーナスの心の声が聞こえた。振り向いてみると、テーブルの方から緑の瞳がこちらを覗いている。
「ありがとうございます」
私が小さく頭を下げると、ルーナスは軽く首を横に振った。
そういえば、ルーナスはどんな英雄なのだろう。戦ったのか、人を守ったのか――。
考え込んでいると、オーレの声が響いた。
“積み木で遊ぼー!”
「ルーナス! あれ取ってー!」
「ん? ちょっと待ってな」
ルーナスは椅子から立ち上がり、視界から消えてしまった。
床の掃除も終わり、次は家具の埃落としだ。水を使った指先はかじかんでいる。手を擦って温め、叩きを握った。
昼間に掃除を始めたはずなのに、叩きを下ろした頃には腹部が雷のような音を立てていた。カラスの鳴き声も聞こえる。
布団を物干し竿から下ろし、台所へと向かった。レシピ本をテーブルに立て掛け、ミートソースの作り方に目を凝らす。
「んー……」
「今日は練習だから。失敗しても大丈夫ですよ」――そうルーナスは言ってくれたけれど、期待には応えたいのだ。
苦戦しながらも、何故か心の緊張は解ける。むしろ温かくなるのだ。
部屋にトマトの香りが充満していく。オーレを見てみると、ワクワクが抑えきれない表情を向けられてしまった。
出来上がったミートソーススパゲッティは、お世辞にも上手だとは言えないものになってしまった。挽き肉は焦げているし、コンソメも濃い。それを見ても、ルーナスもオーレも文句一つ言わなかった。
「いただきます」
三人で手を合わせて食卓を囲む。
“しょっぱーい”
オーレは顔に出すまいと必死なのだろうけれど、私にはダダ漏れだ。
「オーレ、リンゴジュースも飲むか?」
「うん、欲しいー」
オーレはにこっと笑うと、足を前後に揺らす。
「あの……オーレ」
「どうしたのー?」
英雄のことを聞き出すのは今しかない。ルーナスの前では言い出せず、オーレにこそっと囁いてみる。
「ルーナスはどうして英雄なんですか?」
尋ねると、オーレは首を傾げた。
「分かんなーい。ルーナスのお友達が『へっぽこ英雄』って言ってるのを聞いただけなのー」
「へっぽこ……?」
『へっぽこ』と『英雄』のイメージの落差が激しくて、私の中で上手く噛み合わない。
水で喉を潤していると、ルーナスが私の席にもリンゴジュースを置いてくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ルーナスはにこっと微笑み、自分の席へと戻る。この人が『へっぽこ』――きょとんとルーナスを眺めていると、オーレは興味津々な顔で私を見た。
「そうだ、ソレイユー。どうしてあんな所にいたの?」
「それは……」
言い淀んでしまった。幼い子のすることだ。私のことを『聖女』と言いふらすかもしれない。もしその時が来たら、この家を去ろう。半ば諦めて拳を握る。
「オーレは『聖女』って知ってますか?」
「うん、知ってるー」
「隣の国で、私は聖女だったんです」
答えると、オーレの空色の瞳には瞬く間に光が宿っていく。
「ソレイユ凄ーい! ルーナスと同じくらい凄ーい!」
「俺は凄くないぞ?」
「ううん! 凄いよ! ね?」
私に同意を求められても困る。しかし、子供をがっかりさせるわけにもいかないので、「うん」と頷いた。
「でも、聖女じゃなくなっちゃって。行き場所を失くしてました」
「どうしてー?」
言ったところで、子供には理解できないだろう。
「どうしてでしょうね」
曖昧に答え、その場を濁してしまった。
“ごめんなさい。気を遣わせましたね”
今度はルーナスが心の中で詫びを入れる。私は気を遣ったわけではない。伝わらないのは分かっているけれど、心の中で『とんでもありません』と返した。
「オーレ、聖女のことは他の人には秘密にしてください」
「なんでー?」
オーレに嘆願の眼差しを向けると、彼は首を傾げる。
「バレたら私は消えてしまうから」
私がそっと視線を落とすと、オーレの息を呑む音が聞こえた。
「やだー! ぼく、絶対に言わない!」
“せっかく仲良くなれそうなのにー!”
少し言いすぎてしまっただろうか。オーレは目尻に涙を溜めてしまった。
しょっぱいスパゲッティをジュースで中和させながら、何とか完食することができた。ルーナスとオーレも挽き肉の一粒も残してはいない。
「ごちそうさまでした」
三人揃って手を合わせる。優しいこの人たちのためにも、明日の朝食こそは美味しく食べられるものを作ろう。心に決め、指先に少しだけ力を入れた。
オーレは遊ぶことに夢中だ。腹ごなしもせずに、今度は木製の玩具の馬車で遊び始めた。
「ぱっかぱっか」
蹄の真似だろうか。可愛らしい声と笑い声が家の中に響く。
「ソレイユ。あの」
振り向いてみると、ルーナスは儚い笑みを浮かべていた。
「オーレが眠ったら、二人で話しませんか?」
「はい……」
何か聞かれるのだろうか。あまり気乗りはしないものの、曖昧に頷いてみせる。
「よかった」
ルーナスは満足そうに目を細めると、席を立つ。そのままオーレの隣に座り込み、一緒に遊び始める。
オーレは疲れて眠くなるまで遊んでいた。オーレの瞼がとろんとしたところで、ルーナスは彼を抱き抱える。
“貴女の事情を少し伺ってもいいですか? 貴女の保護者として”
優しい緑の瞳がこちらを向いたので、唇を噛みながら小さく頷いた。
オーレの部屋に入り、ルーナスはそっとベッドに寝かせる。すうすうと寝息を立てるオーレは天使のようだ。
「貴女のお話を聞く前に……俺の話をした方がいいですよね。質問とか、ありますか?」
ルーナスは穏やかさを崩さずに私を見る。どうしても『英雄』よりも『へっぽこ』の由来の方が気になってしまう。
「貴方は……どうして『へっぽこ英雄』なんですか?」
「オーレに聞いたんですね。俺も恥ずかしいんですが」
ルーナスは表情を変えず、遠くを見詰める。
「俺は英雄の隣に立ってた『だけ』なんです。厄災が怖くて、裏方ばっかりしてましたから」
ルーナスはほんのりと頬を赤く染め、苦笑いをした。厄災が怖かった――私が人の心の声を聞くのを怖がっているのと似ている気がする。
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