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第10章 厄災を憎む妹 / 第28話
次の日もルーナスはノミを持つことすらしなかった。ただ、ぼんやりと本を読んでいる。動物の木彫りで遊ぶオーレも、時々ルーナスの方へと目を遣っていた。
ルーナスが持つ、茶色の古びた本の表紙を眺めてみる。
「ルーナス、何を読んでるんですか?」
「ん? 聖書だよ。エルネスに薦められた」
“読んでも頭に入らないけど、何もしないよりはマシかな”
どうやら、ルーナスは敬虔な信者というわけではないらしい。暇つぶしに聖書を読む――私には考えられない行動だ。
聖書は無理やり読まされていたものだから。「いい加減に覚えなさい!」と何度もタンベルン王都の神父に怒鳴られたものだ。
オーレもこんなルーナスをあまり見たことがないのかもしれない。
「ルーナス、想刻しなくていいのー?」
羊の木彫りを持ったまま、首を傾げる。
「うん、今日は気分じゃないから」
「サボりー?」
「違うよ。気分が乗らない時は、無理に手を動かさない方がいいんだよ」
“一種のスランプってやつかな”
ルーナスは細い息を吐き、また聖書に目を落とす。オーレも小さな唸り声を上げたものの、すぐに一人遊びに戻っていった。
“この依頼、俺が受けてもいいのかな。俺はユリオン側の人間だし……真実がバレた時に、想刻が憎まれないか……?”
自分よりも先に想刻の心配をするなんて。ルーナスのいい所だけれど、お人好しすぎる。
ここはルーナスに少し説教をした方がいいかもしれない。
「ルーナス、ちょっと来てください」
「ん? うん」
私が声を掛けると、ルーナスは聖書をテーブルの上に丁寧に置いた。口を尖らせるオーレの横を通り過ぎ、ルーナスと二人で私の部屋へと入る。
ドアを閉めると、小さく溜め息を吐いてみせた。
「厄災の被害者を想刻するのは、今回が初めてなんですか?」
「いや、前にも何回かあるよ」
「でも、ユリオンさんを憎んでるってはっきり言われたのは、今回が初めてだった。違いますか?」
ルーナスは瞼を閉じ、眉間にしわを寄せる。
「合ってる。俺もどうすればいいのか、正直言って分からないんだ」
「これは『どうすべきか』じゃなくて、ルーナスの意思の問題です」
ここまで踏み込んでいいのか、私にも分からない。でも、誰かが言わなければ、想刻師としてのルーナスも、この生活も崩れてしまう。
「ルーナスが迷ったままなら、私やオーレはどうすればいいんですか?」
「……続けるか、逃げるか。早く決めろってことだよね」
「はい」
苦しくも大きく頷いてみせると、少しだけ部屋の時が止まった気がした。部屋の外からの物音も聞こえない。
本音で言えば、ルーナスに逃げて欲しくない。過去と向き合って、前を見て、その上で仕事に誇りを持ってもらいたい。揺れるルーナスの瞳を見詰めていると、それは横に逃げてしまった。
「一日……あと一日だけ、時間をもらいたい」
「……分かりました」
ここで決断しろという方が無理があるだろう。仲直りの印に、ルーナスの手をそっと握る。
「そ、ソレイユ?」
「これでちょっと前進です」
ルーナスの気持ちも、この家の問題も。納得して頷いていると、ルーナスはほんのりと頬を染めた。
ドアを開けると、真正面にはオーレの姿があった。手を腰に当て、まだ口を尖らせている。
「二人で何話してたのー?」
「仕事の話だよ」
ルーナスの答えに、私もうんうんと頷いてみせる。嘘は言っていないのに、オーレの機嫌は直らない。
「どうして、いっつもぼくを除け者にするのー?」
「除け者じゃないよ。オーレは俺たちの喧嘩も見たいのか?」
「喧嘩してたのー?」
オーレの表情は怒りではなく、悲しみに寄っていく。
「喧嘩じゃないか。俺が叱られてたんだよ」
「ルーナス、かっこ悪ーい」
オーレが本心を吐露するので、面白いと思ってしまった。ルーナスも小さく吹き出し、苦笑いをする。
「かっこ悪いのも、ルーナスらしくていいですよ」
貶すつもりではなく、誇って言ったことだった。かっこよくて、ちょっぴりかっこ悪い。それが私なりのルーナスの評価だ。
しかし、ルーナスは納得がいかないらしい。
「いつか、ソレイユにかっこいいって言ってもらおう」
“いや、むしろ今、言ってもらっても”
「今、言った方がいいですか?」
「……俺が言わせたみたいだから駄目だよ」
ルーナスは若干、目を吊り上げる。それも面白くて、頬は動かないのにぷっと息だけが漏れた。こんなことは人生で初めてだ。
ルーナスとオーレは目を見張ったものの、すぐに笑顔に変わっていった。
翌日、ルーナスはノミではなく万年筆を手に取っていた。真っ白な便箋をテーブルに広げ、唸り声を上げている。
「手紙ですか?」
「うん。依頼人のベティに」
オーレはまだ夢の中にいる。両手にココアを持ち、片方のマグカップをテーブルの隅に置いた。私もルーナスの隣に腰を下ろす。
「見てもいいですか?」
「うん」
ルーナスは迷いながらも筆を進めていく。唸り声を上げ、細い息を吐き、心の中で葛藤しながら。
* * *
ベティ様へ
先日はご来訪いただいてありがとうございました。実は、ベティさんに折り入って相談があるのです。俺一人では答えを出せない問題なので、ここで打ち明けさせていただきます。
俺は厄災の時、ユリオンの隣に立っていた者なのです。実際に行動も出来ず、ひたすら布マスクを縫っていました。ベティさんが憎んでいる、すぐに行動ができなかった者です。
それでも、俺は貴女のお姉さんの想刻をしてもいいのでしょうか。俺もお姉さんを助けられなかった。ユリオンと同じなのです。
ベティさんが想刻を憎んでしまうなら、今回の依頼は取り消させていただこうと思っています。今すぐでなくても構いません。お返事をお待ちしています。
ルーナス・ピアニッソより
* * *
「あとは、依頼人の返事次第だね。俺が全力で想刻しても、受け取られないんじゃ意味がないから」
よくここまで、勇気を振り絞って書いたと思う。手紙を読んだベティが怒りに震え、手紙を破り捨ててしまうところも、このログハウスへ乗り込んでくるところも想像ができてしまう。ルーナスはそれに耐えられるだろうか。
この日もルーナスはノミを持つのを諦め、オーレと一緒に遊んでいた。時折見せる曇った表情を、私は見逃さなかった。
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